21.聖ヨハネウス史徒文書館③ ノアの方舟


 重い沈黙の空気を破るかのように、サンマルコは話を進めた。


「――勝算はあるのじゃ。1つは、聖女帝マリアが緊急招集を命じた『7つの教会』じゃ。

 エルよ、聖ヨハネウス十字教国が、大聖堂都市『イストランダ』に国の中枢を置き、その周囲の7つの地区から成っていることは知っておろうな?」


 サンマルコは、視線をエルに向けて問うた。


「うん!――7つの地区はそれぞれ異なる特徴と役割を持っていて、相互に補い合うことで十字教国は機能しているんだ

 ――商人の都市『ベレンツィア』、聖騎士の街『ナイトメア』、錬金術師の谷『マクゴリオ』、エルフの農村『アグノリス』、占呪術師の里『シャムノア』、船乗りの漁港『シーグラス』、異教徒自治区『クルアント』……だよね!」


 エルは、文書館の書物で得た知識を諳んじた。知識として知ってはいても、その空気を、人々の生活を知っているのは、今朝まで滞在していた商人の都市『ベレンツィア』だけだったが。


「――ふむ、そのとおりじゃ。その7つの地区には、その地区を治める中核的教会組織が1つずつ、存在する。それが『7つの教会』じゃ」


 ――『7つの教会』は、異なる特性を持つ地区が独立と均衡を保ちながらも、機能を緩やかに補い合い、そしていざというときには国の中枢統治が行き届くよう、聖女帝マリア・テレアに忠誠を誓った教会組織のことであった。


「――聖女帝マリアは、聖女帝の権限において『7つの教会』の緊急招集を命じおった。

 つまりは、国中に包囲網を張って『大罪の黙示録』を探し出す、ということじゃ。

 ――これに関しては後に開催される招集会議に、我ら12史徒ヒストリアも出席することになるであろうのう」


 エルは、十字教国史を思い返してみたが、『7つの教会』の緊急招集は前例がない。この国始まって以来のはずだ。


「そして、もう1つの勝算は、ドラコーンの娘、アイリス。――そなたが切り札じゃ」


 アイリスは、サンマルコの衝撃的な話の内容に頭が混乱し付いていけておらず、急に話の矛先を向けられて、慌てた。


「わ、私ですか!?私が、切り札!?」


 確かに昨晩もサンマルコは、アイリスをこの戦いの切り札と言った。そして、ここイストランダまで連れてきた。


「――正確には、そなたが首から下げておる『ドラコーンの秘石』じゃな。

 その秘石は昨晩、『大罪の黙示録』から放たれる魔力を打ち払っておったのう?現状として、『大罪の黙示録』の魔力を封じる力を持ち得ぬ我らにとって、その『ドラコーンの秘石』は、たった1つの切り札じゃ。

 ――ただし、誰の言うことをも聞く…ということではないのじゃろう?そなたの意思によって力を発しておるように見えたのう?」


 サンマルコは、ついっとアイリスに近づき、珍しいものを見るように、まじまじとアイリスと『ドラコーンの秘石』を交互に見遣った。


「あぁ!『ドラコーンの秘石』――その秘石は、魔力を封じるんだね!だから、アイリスに最初に出会ったとき、ぼくの『時の羅針盤≪タイムリープ≫』が効いていなかったんだね?」


 エルは急に合点がいったように、大きな声をあげた。周囲の時を止める術『時の羅針盤≪タイムリープ≫』を唱えたはずなのに、アイリスだけが動いていた。そのことを思い出したのだ。――そして、彼女と出会ったのだ。


「――こっ、この『ドラコーンの秘石』は…アミリア族の頭首に代々受け継がれているものなんです!

 私もお父さんが旅に出るときに、預かったの」


「――なるほどのう?そなたの父親が、あの『ハコブネ』に付き従ったことで、現アミリア族頭首は、そなたということなのじゃろうな。

 …アイリスよ。そなた、その『ドラコーンの秘石』、決して誰にも渡すでないぞ。肌身離さず、じゃ」


 よいな?――と念を押すサンマルコに、アイリスはコクコクと頷くしかなかった。


 サンマルコの話は、アイリスには難しく理解できない部分も多かったが、今起こっていることが、この国をもひっくり返す大事件だ、ということと、自分と父がその大事件に巻き込まれている、ということはしっかりと理解した。

 そして、父ドリドルンを反十字教結社『ハコブネ』から取り戻すためには――エルたちと共に立ち向かうしかないのだ。

 アイリスは、首から下げた父の形見である魔封じの秘石を、両手でぎゅっと握りしめた。


「……そうだ!サンマルコおじいちゃん。僕、昨日からずっと不思議に思っていたんだけど…

 昨晩の『ハコブネ』も、サンマルコおじいちゃんも、聖女帝マリア・テレア様も…ちょくちょく僕のことを『』って呼ぶよね?『エルノア』っていうのは、一体なんのことなの?」


 エルは、昨晩の『ハコブネ』の女が、エルに向かって『エルノア』と語りかけてきたことが、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。そして、教皇庁での報告の中で、サンマルコと聖女帝マリアが、エルのことを指して、『エルノア』と呼んだ箇所がいくつかあったことにも――


「…なにもかにも、そなた『』じゃろう?

 エルは愛称で、『エルノア』が本名じゃろう?」


 知らんかったのか?――というサンマルコに、エルは愕然とした。自分は生まれて10年間、自分の本名を知らなかったのだ…


「……僕、『エルノア』っていうの?」

「ふむ。――リアード、そなた知っておろう?」


 なんで教えてやらんかったのじゃ?――というサンマルコに、リアードは無慈悲に告げた。


「……いや、エルはエルだ」


 それ以上でもそれ以下でもない――というリアードに、エルは再び、そして今度はサンマルコも一緒に愕然とした。

 ……もしかして皆、エルの本名を知らないのではないか?


「……はて?おかしなことじゃな。

 ――エルよ、そなた『史徒系譜しとけいふ』は読んでおらんのか?史徒の必読本じゃろう?わしも3、4歳の頃に読んだがのう」


 そこに、そなたの名も記されとったじゃろう?とサンマルコは言う。


「読んだよ。――でも、まだ改訂されてなかったから……ルシフィー様までしか載ってなかった」


 エルはルシフィーのを借りて読んだのだ、という。

 サンマルコは、書棚に向かって魔法の杖を振り、最新の『史徒系譜』を取り出した。


「ふむ。わしも百数年は読んでおらんかったが、第1史徒長しとちょうになって久々に読んだのじゃ…何せ、10年毎に改訂されるうえに、面白い内容のものではないからのう…大層眠くなる代物じゃ。

 …ふむ、ここじゃ、ここ。間違いなく、そなたの名は『』、と記されておる」


 サンマルコの指さすページを、皆で覗き込む。


「…本当だ。僕、『エルノア』だ」

「じゃろう?『』のと同じ――『エルノア』じゃ」


 ◆


 エル、リアード、アイリスの3人が出ていった書斎部屋で、サンマルコは1人――昨晩の『ハコブネ』の白マントの女のことを考えていた。


 第1史徒ヒストリアのサンマルコと、十分競り合えるだけの力があった――。


 そもそも、一般の人間が書物から得られる力などというのは、たかが知れているのだ。その書物に書かれた内容を真似てみて、知識と技術を得る…その程度が普通だ。


 書物に秘められた魔力を使いこなせる人間なんて、余程その書物に宿る魔力の源――聖人の加護を受けている場合だけだ。ガレリア司祭の場合だって、元々が司祭だ。そのうえで『大罪の黙示録』に選ばれた。つまり、聖ヨハネウスの加護を存分に受けて、あの魔力を発したのだろう。


 ――では、あの『ハコブネ』の白マントの女は?手にした書物が秘める魔力の強大さはもちろんだが、相当の魔力の使い手だった。


 「あの『ハコブネ』とかいう秘密結社…なんらかの神の加護を受けておるのか…?――あるいは…まさかのう」


 思い至った可能性は信じ難く、サンマルコは頭の片隅から無理矢理、追いやった。


「…わしの憶測じゃ。これ以上、国を混乱に至らしめるのはよくなかろう」

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