第37話 もう帰らぬ人

「菜々……」


 あたしは「俺」の意識を抱えたまま、リングの外に立つ女性のもとへと近付いて行く。


 どうしてここに彼女がいる?


 彼女を探したけど、SNSを見ても手掛かりがなかった。


 このままではいけないと分かっていたけど、どうしていいか分からず放っておいた。そうしたら彼女の方から近付いてきた。


 どうしよう。あたしの頭は混乱している。ネットの民との抗争が終わったばかりだというのに、色んなことが起こり過ぎて容量少なめの頭が追い付かない。


 女性の目の前に行く。


 やはり、前世で恋人だった菜々だった。


 何度見てもエグいぐらいかわいい。お陰で浮気とは無縁だった。


 ガン見し過ぎたせいか、菜々はいくらか驚いたような表情でこちらを見つめていた。


 あ、ヤバい。不審者全開になる前に声をかけなきゃ。


「菜々……さん、ですか?」


 あたしの呼びかけに、菜々がハッとしたような顔つきになる。


「私を、知っているのですか?」


 げ。一気に面倒くさくなった。


 彼女は当然のこと、女神の采配でこの世に存在している志崎由奈なんか知らない。知らないJKからいきなり名前を呼ばれたら、そりゃ戸惑うに決まっているだろう。


 あたしだって、表面上は彼女のことを知っているはずがないのだ。そんな状況で自分のことを知っているJKに声をかけられたら驚くに決まっている。


 わーどうしよう。いや、ごまかすしかないか。うん。どうにかして、ごまかすんだ。


「あのー、あれです」


「あれって?」

「その、リュウさんはあたしのいたジムの大先輩だったんで、菜々さんのことは聞いていたんです」

「そうなんですか」

「そうそう。この世界、とっても狭いんで」


 菜々が納得しかけたので、これ幸いと彼女の注意をそちらへ逸らす。


 とってつけた理由だけど、咄嗟の嘘にしてはなかなかよく出来ていると思う。


「それで、なんかリュウさんの言っていた彼女サンと特徴が似ている感じがしたんで、もしかしたらって声をかけた感じですね」

「そうだったの」


 ヨシ。とりあえずうまくごまかしたぞ。結構危なっかしかったけど。


「せっかくだから、どこかでゆっくりしません?」


 あたしがそう言うと、菜々は「はあ、まあ……」といくらか腑に落ちない感じではあるものの承諾した。


   ◆


 彼女の気が変わらない内に、近場にあるコーヒー店へ行った。下手すれば牛丼のセットが食べられるぐらいの値段をした、高いコーヒーを買って席に着く。


「しかし、まさかリュウさんの彼女サンと会えるなんて思いませんでしたね~」


 あたしは自分でも白々しいと思うような演技をしつつ、コーヒーを啜る。生クリームろかが入っていて、見た目にもゴージャスな飲み物。菜々と一緒じゃなきゃ絶対に飲まない。


「私も、まさかテレビで話題の由奈ちゃんが彼の後輩だったなんて知らなかった」


 菜々が今日初めての笑顔を見せる。転生してもこの笑顔は天使だなって思う。


「……ん、っていうことは、あたしのことは知ってたんですか?」

「そりゃあ、あれだけネットでもテレビでも出てくればね」


 そうか。悪目立ちも無くはなかったけど、ネットやテレビで有名になったことで、あたしの存在は彼女まで届いていたんだな。


「それで、なんで今日はメジャーでもない大会に来たんですか? 友達でも出ていたのですか?」


 ボクシング界は狭い。あっちこっちに知人友人がいるので、そのよしみで試合を観に来る人たちも少なくない。


「いえ、そうじゃないの」

「それじゃあまたどうして?」


 菜々はいくらか申し訳無さそうな顔で答える。


「その、SNSで由奈ちゃんのスパーリングがあるって出てきたから、近くだし行ってみようかなって」

「え? そうなの?」


 思わずあたしも一瞬素に戻ってしまう。


 前世の恋人があたしのスパーをわざわざ見に来るなんて。


 菜々がちょっとモジモジしながら話を続ける。


「その、ね。由奈ちゃんの試合を観ていて思ったの。なんだか、リュウの試合を観ているみたいだなって」


 おう。


 ちょっと、菜々さん。あなた、目のつけどころが良過ぎますよ?


 まあ肉体こそ美少女になったものの、たしかに前世と同じ中身の人がボクシングをやっていたら似たような試合運びになるよね。


 菜々は毎試合後楽園ホールまで招待していたし、自分なりに敵選手の情報も集めてくれていた。そのせいで、時々プロでも驚くような指摘をしたり相手の弱点を見抜くこともあった。


 そんな彼女であれば、あたしのボクシングを観て前世の姿を重ねてもそう不思議ではない。


 でも、さすがに転生して美少女になっちゃいましたーとは言えない。言ったら頭のおかしい奴判定をされて終わりだろう。多分「俺」でも逆の立場だったら「ヤベー奴キター」って思うだろうし。


「その、あれですよ。ほら、同じジムの先輩後輩じゃないですか。だからどうしてもスタイルは似てくるところがあるっていうか……。まあまあ、選手によって全然毛色は違うんですけどね、本当に。あはは……」


 自分で言っていて怪しさ爆発な気がするが、今さらそうも言っていられない。


 とにかく、これで彼女がなんであの大会にいたのかは分かった。ある程度科学的な根拠づけがあるとはいえ、運命の糸を手繰り寄せる力ってすごいなって思った。


 それで、あたしの興味は別のところへ移っていく。


「菜々……さんは、今はどうされているんですか?」


 なるべく「俺」が死んでという表現は使わないようにした。それがあまりにも酷なのはアホなあたしでも分かる。


 恋人の「俺」が死んで、一人になった彼女はどうしていたのか。それが目下「俺」の関心事でもあり心配事でもあった。


 菜々は繊細なところもあったし、見た目がかわいくても不器用な部類の女だった。そんな彼女が悲しみに暮れながら日々を過ごしていないか、心のどこかでいつも心配していた。


「そうですね……」


 菜々は言葉を切り、しばらくどこか遠くを見ていた。邪魔するべきではないと思い、しばらくそのさまを見守った。


「正直なところ、彼が死んだなんてまだ信じられないです。呼んだらどこかから出てくるんじゃないか。そんな風に思うこともいまだにあります。悲しいとか、そういう領域をとっくに超えてしまったのか、それとも単に現実を直視出来ないだけなのか、私、まだ彼を失ってから泣いたことがないんです」

「……」

「でも、そろそろ現実を受け入れないといけないのかな、とも思っています。だって悲しみに暮れていても彼は帰って来ないし、私もこの先の人生を生きていかないといけない。世界には最愛の人を失った方々がいくらでもいる。そう考えると、いつまでも空虚なまま毎日を過ごしているのもどうなのかな、と思ってきたというところなんだと感じています」

「そうなんですね」


 あたしはそれ以上、何も言えなかった。


 彼女の置かれた状況を作り出したのはまぎれもない「俺」だった。もしあの時トラックに轢かれていなければ、もう少し彼女は違った人生を歩めたのではないか。そう思うと、どうしても責任を感じずにはいられない。


「菜々さん」


 あたしは脳内で何を言うべきか、可能な限り素早く計算する。


「あたしには菜々さんがどれだけつらい思いをしてきたか、正直なところ想像も出来ません。それでも、あたしだって付き合っている人が亡くなれば精神はボロボロになるだろうし、死にたいと毎日泣いているかもしれない」

「うん」

「だけど、菜々さんはそうはなっていないし、そんなにつらい目に遭っていながらも未来に目を向けようとしている。それって本当にすごいと思うんです」

「うん」


 菜々の片目から一筋の涙がこぼれ落ちる。


 彼女はあまりにも大きな重圧を背負って今日まで生きてきたんだと思う。


 そこから解放してあげなきゃ。


 そんな思いで、あたしは話を続ける。


「きっとね、リュウさんも菜々さんには幸せになってほしいはずなんですよ。色々ツッコミどころのある人ではありましたけど、それだけははっきりと言えます」

「そうだね」


 菜々がポロポロと泣きはじめる。ハンカチを渡すと「ありがとう」と言って涙を拭いた。


「だから菜々さん。あなたはあなたで幸せになって下さい。亡くなったリュウさんも、きっとあなたの幸せを願っていると思います」


 ――そう、まさに君の目の前でね。


 思えば変な構図だ。


 一介のJKごときが年上女性に人生を説いている。


 ツッコミどころ満載のシチュエーションだけど、彼女には何かが刺さったみたいだった。


「ありがとね」


 涙を拭き終わった菜々が笑顔を見せる。


 本当はもっと早く泣きたかっただろうに、彼女にはそれすらも許されていなかったんだ、きっと。


「そう言ってもらえて、なんだか救われた気がする」

「良かったです」


 菜々はまた目を潤ませて、天井を少しだけ見上げた。


「ねえ、由奈ちゃん」

「はい」

「またこうして会ってもらうことは出来るかな」

「もちろん」


 ――だって、あなたのトラウマはあたしのせいだもんね。


 そうは言えないけど、前世の償いが出来るのであれば、断る理由なんて何一つない。


 年は離れているけど、あたしたちは友達になった。


 その後はあえて楽しい話ばかりをして終わった。


 彼女の傷が完全に消えることはないんだろうけど、それでも立ち上がる手助けをすることは出来る。


 前世では本当に苦労をかけてばかりだったけど、今度は彼女を支えたい。そのために出来ることがあるなら、あたしは何だってする。


 楽しい時間を過ごすと、あたしたちは店を後にした。LINEや電話番号を交換して、また会うことを約束した。


「それじゃあまた」


 あたしは手を振って駅へと向かった。


 家では現在の両親が待っている。変な感覚ではあるけど、次第に「俺」の要素は消え失せて、「あたし」というアイデンティティが全てを統治するのだろうか。


 いずれにしても、あたし自身も未来を向いて生きていこうと思った。


 それが昔の自分への供養にもなるし、きっと今のあたしがとるべき進路なのだ。

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