第35話 ネットの民、乗り込む

 誹謗中傷にさらされているせいで、思いもかけない出来事があった。


 それは、地元のボクシング大会でデモンストレーション的な意味合いで公開スパーリングをやった時だった。


 ネットで論争が巻き起こっているとはいえ、あたしの知名度にはなんだかんだ客寄せパンダみたいな効果があった。


 公開スパーをやったのはオープン戦と呼ばれる練習試合に近い大会だったけど、あたしのスパーリングがあるとネットに発表されてからは問い合わせが殺到したらしく、会場そのものがでかい所に変わった。そうしないと野次馬で埋め尽くされてしまうからだ。


 不思議なもので、あれだけネットの世界ではあたしが男か女かで議論が白熱しているにも関わらず、こういった大会で見る人がそういう話を聞えよがしにしてくることはまずない。気を遣っているだけかもしれないけど。


 どうあれ、選手としては尊敬されているせいか、会場入りして関係者の挨拶回りとかをしていると、一般的な応援の人というか、ファン(?)みたいな人からも声をかけられた。距離感のバグっているJK好きのオッサンとかもいたけど、そういうの以外は比較的まともな人ばかりだったし、なんでネットの世界にだけあんなにヤバい人がいるんだろうと思ってしまう。


 まあいいや。あたしはあたしの仕事をするだけだし。


 公開スパーは大会の途中にハーフタイムショーみたいな感じで披露される。これは大会の冒頭であれば客がそれだけ見てサーっと帰ってしまう可能性があることと、最後にすれば終わりが近くなるまで会場がガラガラという事態が想定されるからだ。


 何人もの野次馬が暇つぶしに来て、それで一人でもボクシングを始めてくれる人がいたらこちらの勝ち。なんかもの寂しい感じがしないでもないけど、そういう地味~な努力の積み重ねが最終的にはモノを言う。


 じゃあ公開スパーまではボケーっと試合でも見ながらのんびりしていようか。スマホいじりは見ていて感じ悪いだろうし。人気が出たら出たで色々面倒くさいなと思う。


 それで宣言通りボケーっとしていると、会場の入り口付近が騒がしくなっていた。なんでしょうね、これと思って見に行くと、いかにもヤバそうな男たちが関係者とひと悶着を起こしていた。


 見た目がヤバそうっていうのは反社会とかじゃなくて、クレーマーとか電車で時々見るやべえ奴というか、あんまり近付きたくない空気をまとった人だった。服装とか髪型は普通か平均よりちょっとダサいぐらいでも、なんかこの世界から浮いてしまっているとか、そういう感じの人たちね。


 何やってんすか? と思ったので、様子を見に行ったというか野次馬をしに行った。すると、キモい人たちがさらに騒がしくなる。


「男を女子ボクシングに入れるな!」

「俺たちは卑怯者を許さないぞ!」


 ――は?


 多分あたしの目は点になっていたのだろう。


 どこで売っているのと訊きたくなるようなチェック柄のシャツを着たオッサン。シャツはしっかりズボンに入れているのに、言っていることはだいぶ頭がおかしかった。


「なんですか、これ?」


 関係者の人に訊くと、こいつらは現場まで突撃してきたネット民らしかった。


 なんでもあたしが女性かどうかの論争――もうちょっと端的に言えば誹謗中傷――はネットでさらに盛り上がっていて、あたしが公開スパーをする情報を掴んだヤベー奴らが現場に突撃してあたしを女子ボクシングの世界から消そうとしていたらしい。


 それでネットに詳しい関係者が事前にその情報を掴んでおり、入り口で水際作戦というか、入場お断りをしている最中だったとのこと。


 それでもネットの民は謎のガッツだけはあったのか、そう簡単には帰らずに駄々をこねているとのことだった。そのエネルギーを違うことに使えばいいのにと割と本気で思う。


 ヤベー人たちは口々にあたしの悪口を叫んでいたけど、怒りというよりヤバい奴に関わりたくないというか、もっと言うとめんどくせーという心理の方が完全に勝っていた。だってこいつら絶対に話が通じないし、こっちがどれだけ彼らの主張に反論出来る証拠を突きつけても絶対に負けを認めないんだもん。そんなの相手にしたい奴なんて普通いないよ?


「とにかく試合に関係ない人は帰って下さい。迷惑です!」


 関係者がちょっとキレ気味に言うと、ヤベー人の一人が言い返す。


「関係なくてたまるか! 俺はなあ、ネットの声を代表して来たんだよ!」


 誰もお前に代表してもらいたいなんて思ってねーよ。


 そう思っていると、関係者がヤベー奴に訊く。


「何がしたいんですか?」

「とにかく、志崎由奈しざき ゆなを女子ボクシング界から排除しろ!」

「私の権限で出来るわけないでしょ!」


 まさかのド正論でブチ切れられ、ネットの民がちょっと涙目になる。


 面白そうだったので、後ろから動画を撮影していた。これでツイッターに上げたらこの人たちはどうなるのかなと思う。やらないけど。


「あ、お前は……!」


 ネットの民があたしの存在に気付く。


 あ、バカに見つかっちゃった。


「おいコラ志崎、お前の不正を我々は知っているぞ?」

「お言葉ですけど、不正って何ですか?」


 あたしがそう返すと、ネットの民は一瞬だけフリーズしてからまた騒ぎだす。


「お前、本当は男のくせに、女子だとか言ってインターハイで優勝しただろ! そんなズルは許さんぞ!」

「それは誰が言ってたの?」

「誰がってみんなだバカ野郎!」

「だからみんなって誰よ?」

「それはなあ……」


 ネットの民featシャツinズボンが言いよどむ。


 どうせ5ちゃんねるの掲示板に書いてあるだけだろう。


 ああいう掲示板っていうのは一人の人間が何役もやって民意を捏造出来ることも知っているし、それに踊らされてスマイリーキクチ事件みたいな現象が発生することも知っている。


 あれって一種のカルト宗教みたいなもので、そこで捏造された民意を真実のデータとして受け取り続けた人は、仮想空間の奥にいる誰かのマインドこのロール下へ置かれてしまうことになる。


 なんであたしがそれを知っているって?


 それは、「俺」の時代にネットのアンチと徹底的にケンカしたら大炎上したからだよ。


 あの時は「俺」も若かったけど、その仕組みさえ分かっていれば同じ間違いは繰り返さない。


 しかし、嫌なことを思い出したら腹が立ってきた。あの時の炎上で「俺」を叩いたアホも、実はこの中に紛れているんじゃないか?


 あたしの中に、ふと邪悪なアイディアが降ってくる。


「ねえ、あたしはこの後で公開スパーリングするんだけどさ」


 関係者が怪訝な目であたしを見はじめる。なんとなしに、あたしが何を言い出すか悟っているのかもしれない。


 あたしは構わず続ける。


「せっかくだからさ、君らもあたしとスパーリングすればいいんじゃない?」

「あの、志崎さん。それは……」


 関係者が「こいつヤベーこと言い出したぞ」という顔をする。


 だけど、このままここで押し問答をしていても皆が嫌な思いをするだけだし、ボクサーなら拳で語れって言うじゃない。誰が言っていたかは忘れたけど。


 ミドル級の元世界チャンピオンに喧嘩自慢がスパーリングで挑む企画があったけど、その発想をここぞとばかりにパクった。


 青ざめる関係者を置き去りにして、あたしはネットの民に訊く。すでにあちこちからスマホが向けられている。


「どうなの? あたしに挑戦したらネットで話題になれると思うけど」

「別に俺たちは話題になりたいわけじゃない。お前という存在を女子ボクシングの世界から消したいだけだ」

「あ、怖いんだ?」


 あたしは「フフ」っと笑いながら言う。我ながら煽りスキル高い。


 周囲には無数にある動画モードのスマホ。


 ここで逃げれば、それこそネットでいい晒し者になるだろう。


「いいよ。じゃあ、やってやろうじゃねえか!」


 一番ヤバそうな目つきをした奴が売り言葉に買い言葉であたしの打診を受ける。


「お前なんか大したことないって世界中にバラしてやるからな!」


 他の仲間が「お前、マジかよ」という顔で硬直している。


「あ、その前にさ、殺されても文句は言いませんっていう念書を書いてもらえるかな?」


 こういう奴らはケンカを売ってくるくせに、やられると「訴える」とか言いはじめる。そうなるぐらいなら、初めから自己責任でボクサーとスパーリングをする旨の意思表示をさせておく必要がある。これもミドル級の元世界王者がやっていた番組からのパクりだ。


 関係者の一人が、瞬く間にそれっぽい書式の念書を書いて持ってきた。意外にノリノリなんだけど、やっぱり彼らもこのネットの民たちにムカついていたのだろうか。


 いきりたった男はあたしを一瞬だけ睨んで、念書にサインした。


「あーあ。こいつ死ぬな」


 誰かがそう言ったのを、みんなで聞こえないフリをした。


 これで今日の公開スパーはこの男が相手になる。


「まあ、言っても女子やからな」


 ネットの民で関西弁を喋る奴がひとりごちた。


 いくら強いとは言っても所詮は女子選手。お前になんか負けない。彼らは本気でそう思っているんだろう。


 ――だけどね、君たちの思っているのとは違う形で、中身は男なんだよ。

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