第10話 黒須奇跡とスパーリング1
道場破りはいなくなったけれど、それはそれで困ったことも出てきた。
あたし一人で強くなり過ぎたので実戦練習は本気では殴らないマスボクシングが中心になるけど、さすがにそればっかりだと不安にもなってくる。
時々加藤君をはじめとした男子ボクサーにスパーリングパートナーを頼むけど、ついつい癖でカミソリパンチを叩き込んでしまう。お陰であたしとスパーをした男子は大抵顔のどこかにざっくりと切り傷をこさえて帰ることになる。
彼らにも個人戦があるし、国体にインターハイもある。そういった夢を身内とのスパーで壊されるのはたまらないだろう。
あたしは数試合をこなしたら、なんでか連盟からシード権みたいなのをもらっていた。そもそも女子は競技人口が少ないので、あたしの場合はそこから4戦も勝てばインターハイの王者になる。
だけど、まあ……そこをゴールにしてもねえ……。
どうせなら世界の頂点に立ってみたいなっていうのがボクサーとしての正しい心理だよね。前世では世界戦の直前で死んでいるし。
そんなわけで、自分から出稽古へと行くことにした。
出稽古のいいところは、アウェーへ自分から行くってことなんだ。
たとえよそのジムへ行く程度にしても、いつもと勝手の違う場所に行くと独特な緊張感がある。そういうアウェーな環境に自分から行くことに意味があるのだ。
今日のスパー相手は、なぜか男子の総合格闘家になった。
――
エキシビジョン試合で世界的なボクサーとも闘ったことのある強豪だ。
なんでそんな人とスパーになったかと言うと、黒須奇跡は元々ネットの配信で有名になったところがあって、そこから知名度を爆発的に伸ばしていったところがあった。今、他の配信をやっている格闘家も、言ってみれば彼の作った手法をパクっているに過ぎない。
新しいもの好きの黒須選手は、最近バズって男子の格闘家を次々と叩きのめしているあたしに興味を持ったとのことだった。
そこから「コラボしませんか?」という話が来て、その流れでスパーリングをお願いするところへと行き着いた。
まあ、断る理由はないよね。
相手はプロだし、あたしよりも階級は上だから思いっ切り殴ることが出来る。その方が盛り上がるぐらいに思ってくれているんだから、ありがたく黒須さんのジムへ行った。
「ちわー」
「お、来た。どうぞどうぞ」
ジムに入ると、すでに黒須さんが待っていた。
コーンロウのヘアスタイルにサングラスをしていて、テレビに出てくる姿のままだった。
取材班みたいなスタッフが高そうなカメラで雑談のところから撮影を始める。
黒須さんはこういう収録になれているのか、普通に喋りが上手かった。まるで本職のインタビュアーのようにあたしの話を引き出していく。うっかり前世で世界ランカーでしたとか話さないように気を付けないと。
雑談兼インタビューが終わると、さっそくスパーリングの準備に取り掛かる。
黒須選手が総合格闘家のせいか、ジムの内部には通常の正方形をしたリングと、オクタゴンと呼ばれる八角形の金網で囲われたリングがあった。
大した理由もないけど、せっかくだから記念にというのと、単に面白そうだからというだけの理由でオクタゴンの中でボクシングスパーを行うこととなった。
黒須さんはスパー前になると、先ほどまで見せていた人懐っこい空気が影を潜めていた。殺気と言うよりは、戦闘マシーンみたいな、感情を消した風の表情に変わる。
スパーリングとは言っても、あたしは本気で打って良くて、黒須さんはマスという形式だ。単純に体重差が結構あるからだ。ただでさえ男女の生物的な差があるというのに、より重い黒須さんが本気で打撃を放ってくると下手な試合よりも危険な練習試合になってしまう。
独特の構えでこちらを凝視する黒須選手。一般的なボクサーと違うだけに、あたしの中でも警報アラートが鳴る。
『うーん。やっぱでかいなあ』
黒須選手は男子での中量級よりちょっと重いぐらいの体重で闘っている。吾妻タツはもっと大きかったけど、あいつはただの調整不足だっただけなので、これだけ完成された体を持つ選手と対峙するのは初めてかも。
やっぱり、階級差があると圧がすごい。たかだか距離を詰められているだけなのに、別の何かが心理的にも影響を及ぼしているようにも見える。
黒須選手は右足が前になるサウスポーで構えていた。
通常ボクシングでは左足が前になる
左構えを意味するサウスポーは、ジャブが右手になり、前の手で相手のガードを崩しながら左ストレートをぶち込む戦法が主体になる。ゆえに右構え同士での左の突き合いがなく、攻略法の違うサウスポーが苦手な人は左利きの選手相手に何も出来なくなる場合もある。
幸いあたしはサウスポーが苦手ってわけじゃないけど、ただ独特の間合いや構えがある上にサウスポーってのはちょっと嫌だなっていうのは正直ある。
それに対格差から来るプレッシャーがきつい。圧をかけ続けて左を打ち込まれたら嫌だなという心理も出てくる。当然、それを知っていてやっているんだろうけど。
まあ、相手がでかくてもやることは大して変わらない。
プレッシャーはだいぶ感じるけど、足を使って的を絞らせないことにした。
幸い八角形のオクタゴンは通常のリングより広い。ジムによっては意図的に小さな正方形をしたリングを採用しているところもある。そういう意味ではオクタゴンを選択して良かったのかもしれない。
黒須さんはやたらと落ち着いていた。殺気に漲っているわけでもなく、バカにした笑みを浮かべているわけでもない。無表情で、じっとあたしの動きを観察している。それが不気味だった。感情のないスナイパーと対峙しているみたいで。
左方向に回りながら、速さ重視のジャブを突いていく。生物的な体格差があったとしても、技術に性差は存在しない。少なくともあたしの場合はそうだ。
時折ジャブが黒須さんのガードを叩くと、周囲から「うわ」っと驚くような声が上がる。専門外の人にも、カミソリパンチのヤバさは分かるようだった。
プレッシャーはかけられながらも、左を突いてガードを叩いていく。攻勢点であればポイントになるだろうけど、黒須選手からすればマスにしているだけなので、なんだか煮え切らない感じ。
このまま終わるのもなあと思っていると、ふいに黒須さんが前の手であたしのジャブをパーリングした。
パーリングとは、迫り来るパンチを内側にはたいて威力を無効化するディフェンス技術だ。
あ、ヤバい。
バランスを崩す。
すかさず、黒須選手は無表情のまま左ストレートを伸ばす。
うわわっ。
不細工な体勢だけど、頭を右下の方向へ沈めて強引にかわす。刹那、耳元で風を切る音が聞こえた。
あぶねー。
あんなのもらったら倒れるじゃんね。
背を向けて逃走するように距離を取ってから構え直す。黒須さんは苦笑い。本職のボクサーなのに、えらく不細工な動きをしてしまった。
「それは、いいんですか?」
半笑いで訊く黒須さん。
相手に背を向けて走ったことを言っているんだろう。
「いや、ダメですね」
「ダメなのかよ」
スパーリング中に爆笑する黒須選手。
この大物ぶりがリングで発揮されて「勝てない」と言われていた敵を倒してきたんだろうなと勝手に納得する。
お互いに苦笑いして、スパーを再開させる。
黒須選手はさっきまで爆笑していたくせに、いっきに無表情に戻っている。切り替えが早い。
さっきのジャブはちょっと軽率だった。ガードの上は叩けているから、もっと奥へ打ち込めば……と思ってアウトサイドのキープを怠ってしまった。
同じミスは二度もしない。
今度は左右へ変則的なステップで移動し、攪乱作戦を取る。
体重の軽い方は基本的に不利だけど、スピードで言えば体の小さい方が軽いのだから速く動ける。
左右へチョロチョロと動いて、黒須さんの視界を混乱させようと試みる。
黒須さんはなおもガードを固めてじっとこちらを観察している。これだけ足の速いボクサーと闘ったことはないはずなんだけど、この落ち着きは色んな試合形式をやっているからだろうか。
このままだとカッコ悪いよね、ということであたしも攻勢に出てやろうと思う。
前後にせわしなくステップで動いて、カウンターを誘いながら速いジャブを打つ。左を伸ばすと、高速でわずかにアウトサイドへと移動し、ジャブ二発からのワンツーを放つ。
「うお」
浅くではあるけど、最後の右が黒須選手の顔面をとらえる。すぐに左アッパーを突きあげ、もう一度右ストレートを伸ばす。
が、それは囮のパンチ。本命は――ボディーだ。
パンチを打ちながらさらに踏み込んで、左ボディーを痛打する。ジム内に乾いた音が響く。
「う」
黒須さんが下を向く。
――効いた。
体重差はあっても、予想外のタイミングで打たれたレバーブローは有効だった。
そのまま距離を詰めて、あたしのパンチは当たるけど黒須さんのパンチだとリーチが長すぎてうまく機能しない立ち位置をキープする。そのまま高速回転の左右フックを次々と打ち込んでいく。
スタッフの呻き声に似た驚嘆。女子選手がここまでやるとは思っていなかったんだろう。まあ、厳密に言えば男なんだけどね。
最後のラッシュでブザーが鳴り、1ラウンド目の終了となった。
あと1ラウンドでスパー企画の予定は終わりだ。
簡単に流して終わりにも出来るけど、番組的にはバチバチの打ち合いをした方が面白いんだろうなとか、余計なお世話に等しいことを思う。
「次、本気で行ってもいいですよ」
水を飲ませてくれたスタっフから悪魔の囁き。たしかに、通常の出稽古ではいちいち手加減なんかしないし、本気で殴り合ってこそ持ち帰れるものもある。
まあ、せっかくだし、本気でいってみる?
悪魔の囁きへ耳を傾けるあたし。
別に爪痕を残そうとかじゃない。
それでも、格闘家の
「はい、じゃあ次でラストですね」
スタッフの声が響く。
そうか。たしかに本気で行った方が番組的には面白くなるな。
そう思ったあたしは空気を読むという概念を捨て去った。
――ヨシ、殺す。
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