第49話 勝利の代償

 

「これで本当のさよならだな、みつき。あの世で母さんによろしく」


 その言葉が自分の父親のものであると、栗丘は認めたくなかった。


 体の痛みから逃れるかのように、意識が朦朧としてくる。

 視界が霞んで、目の前にある父の顔がよく見えない。


 カチャリと音がして、こめかみに銃口を突きつけられたのがわかった。

 今度こそ、これで終わり。

 絢永はおそらく気を失っている。

 御影もそろそろ限界だろう。

 誰も助けには来ない。


「父さん……」


 結局自分は、父との約束を果たせなかった。

 ギュッと目を閉じ、やがて来る衝撃に備える。


 ドン! と辺りに轟音が鳴り響いた。


 だが。


(……あれ?)


 自分の心臓は未だ、うるさいほどに早鐘を打っている。


 まだ、意識がある。


 人間は死んだ後もしばらくは聴覚が残る、なんて迷信めいたものを聞いたこともあるが、これがそうなのだろうか。


 恐る恐るまぶたを上げてみると、ぼんやりとした父のシルエットが薄闇に浮かび上がる。

 そして、こちらに伸ばされていた左手の先——つい先程まで銃を持っていたはずのその手は、今は何も握っていなかった。


 むしろ、指が一本足りない。

 人差し指が根本からもげ、そこからボタボタと鮮血が滴っている。


「……なに?」


 父もまた呆然とした様子で、自らの左手を見下ろしている。

 やがておもむろに視線を横に向けたかと思うと、その先に広がる薄闇の奥を凝視した。


「あれっ。当たった? 外れた? どっち?」


 どこからともなく、そんな声が聞こえた。

 場違いなほど間の抜けた、愛らしい声。


 栗丘もわずかに首を動かしてそちらを見ると、二十メートル以上は離れた場所に、銃を構えるマツリカの姿があった。


 どうやら彼女が発砲したらしい。

 床に転がっていた銃を拾ったのか。

 一体どこを狙って撃ったのかはわからないが、その弾丸は奇跡的に、父の人差し指ごと拳銃を弾き飛ばしたのだった。


「……貴様」


 それまで余裕綽々しゃくしゃくだった父の様子が豹変した。

 血走った目で、視線の先のマツリカを捉える。


 さすがに両手を負傷したとなると、銃の扱いは難しい。

 さらには出血も酷く、このままでは父の体自体が駄目になる恐れもある。


 あきらかな殺意を孕んだ彼はそのまま足を踏み出し、彼女のもとへと迫る。

 マツリカは標的がいきなり自分になったことで動揺したのか、足をもつらせて尻餅をついた。


「逃げろ、マツリカ!」


 栗丘は痛む体に鞭を打って上半身を起こし、片膝を立てて再びを銃を構える。

 だが、やはり右腕がうまく動かない。

 震える腕では照準が定まらず、視界もぼやけている。

 下手に発砲すればマツリカに当たるかもしれない。


 このままでは間に合わない。

 どうすればいい。

 焦りばかりが先行する中、視界の隅で、白い光がぼんやりと膨れ上がるのに気づいた。


 見ると、栗丘のスーツの胸ポケットから、強い光が漏れている。

 そこからにゅっと顔を出した白い獣は、全身が眩い光に包まれていた。


「キュー太郎? お前、なんで」


 白いふわふわの体を持ったそれは式神であり、御影の力がなければ動かないはずである。

 しかし今まさに限界を迎えようとしている御影が、それを使役できるほどの力を残しているとは到底思えない。


 栗丘の目の前で、光を纏った彼女は胸ポケットから飛び出すと、小さな足で地面を蹴り、勢いをつけて父の元へと迫る。


 その時やっと、栗丘は気づいた。


(見える……)


 キュー太郎の視界が、栗丘にも見えている。

 風を切り、父親の背中へと向かっていく彼女の目が、栗丘の目とシンクロしていた。


 ——式神の作り方はけっこう簡単でね。対象となるあやかしの体に、霊力を込めた術者の血を一定量注ぎ込めばそれで完成する。


 御影の言葉が、脳裏に蘇る。


 思えば栗丘は、この白い獣から何度も血を吸われていた。

 つまりキュー太郎の体には、少なからず栗丘の血が注がれているのだ。


 ——栗丘くんも、気が向いたら練習してみるといいよ。実際に使役してみればあとは感覚で覚えられると思うから。


 彼の言っていた通り、式神を使役する感覚というのが、手に取るようにわかる。


 視界はどんどん加速する。

 やがて栗丘瑛太の真後ろまで迫った白い獣は、栗丘の意思に従って体を何倍にも巨大化させ、鋭い牙の生えた大口を開けた。


 すんでのところで気づいた父は、振り返りざまに背を反らせてギリギリのところで難を逃れる。

 胸元を掠った獣の牙が、ネクタイを食いちぎる。

 そうして一度は取り逃がしたものの、獣はさらに巨大化して、細長いその胴体を敵の体へと巻き付かせていく。


 まるで蛇が獲物を捕らえるかのごとく、栗丘瑛太は拘束された。

 さすがの彼でもこれには歯が立たないようで、初めて焦りの表情を見せる。


 今しかない、と栗丘は銃を握る手に力を込める。

 相変わらず照準はふらふらとして定まらない。


 この機を逃せば、おそらく勝ち目はない。

 銃を握る手が汗で滑りそうになる。


 そんな栗丘の両手を、後ろから伸びてきた別の手がそっと支えた。

 驚いて見ると、いつのまにか背後には絢永の姿があった。

 彼は栗丘の小柄な体を後ろから包み込むようにして、銃を握る手を力強く固定させる。


「絢永……」


「覚悟はいいですね、栗丘センパイ」


 最後の確認とばかりに絢永が聞く。


 記憶の中で、父が微笑む。


 ——必ず、俺の息の根を止めてくれ。


 栗丘は一度深く息を吐いて、それから意を決して言った。


「ああ。もちろんだ」


 相棒の手に支えられながら、父の心臓に狙いを定める。


「さよなら、父さん……!」


 震える指に力を込め、一気に引き金を引く。

 直後、腹の底まで響く轟音とともに、運命を分ける弾丸が飛び出した。


 弾道は一切の迷いを見せることなくまっすぐに伸び、霊体であるキュー太郎の巨体をすり抜けて、実体である父の胸の中心を貫く。


 人間としての急所。

 心臓を撃ち抜かれるその刹那、霞む視界の中で、父がわずかに微笑んだように、栗丘には見えた。


 カッと強い光が広がったかと思うと、次の瞬間には、父の体は光の粒子となって消えていった。


 その場に残された栗丘は、父との約束を果たした事実を噛みしめながら、静かに涙を流した。

 

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