顕現

 苑香が何を言っているのか、すぐには理解出来なかった。

 紗依の母が。

 何時かまた暮らせる日を願いながら、今は療養所にて穏やかに静養しているはずの母が。もう既に、この世の人ではないと。

 すっかり色の消え失せた顔で、呆然としたまま紗依は緩く首を左右に振り続ける。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ。

 心の中を埋めつくすのはその言葉だけ。

 ぐらりと傾いだ紗依の身体を、矢斗の確かな腕が咄嗟に支えてくれる。 

 茫洋とした眼差しの先、矢斗もまた蒼褪めているのが見えた。

 制止する父や美苑の声すら振り切って、もはや捨て鉢の苑香は禍々しいとすら言える笑みを浮かべながら、尚も言い募る。


「自分の食い扶持も稼げない役立たず。しかももう用済み。生かしておいても仕方ないもの! お姉様が居なくなってすぐ、屋敷から出して始末させたのよ」


 あの女には療養所なんて過ぎたことと、苑香は嗤った。

 震えながら何か言葉を返そうとする紗依を、更に愕然とさせる言だった。

 母は病で亡くなったわけではない。存在を不要とされ……殺されたのだと、今、苑香は言ったのだ。

 屋敷から連れ出され、密やかに。まるで不用品を捨てさるように。

 嘘だ、とただ一言が裡を埋めつくし、意識すら遠のきかけた自分を必死に叱咤して、紗依は苑香を見据える。


「あの、手紙は……」

「家に残っていた手紙や日記から、筆跡を真似て書かせたの」


 呻くようにして絞り出した声は、ひどく掠れてしまっていた。

 切れ切れの言葉を聞いた苑香は、鼻で笑って見せながら問いの答えを返す。

 時折、文字が揺れているように見えたのは。言葉の端に違和感を覚えたのは、気のせいではなくて。

 それなら、紗依がいつも心待ちにしていた……紗依にとってよすがの一つであったあの手紙は。


「偽物の手紙を、本物と信じていたのでしょう⁉ まったくおめでたいわね!」


 漸く留飲が下がったとでもいうように、紗依を指さして嘲笑い続ける苑香を両隣の家人が取り押さえようとする。

 それに必死に抗いながら、苑香は更に笑いながら叫ぶ。


「貴方は、亘のことそれなりに信じていたから、亘を通させれば信憑性が増すと思ったのよ! あっさり騙されていたあの子もあの子だけど!」


 母の手紙はいつも弟を通してやり取りしていた。

 一瞬、亘もまた母や姉の謀に手を貸していたのかと思いかけたが、苑香の言葉で生じかけた疑念は消える。

 弟は裏切っていなかったというのは救いではあったけれど、あまりにもささやかすぎた。

 信じられない。信じたくない。

 母が、もうこの世に居ないことも。偽物の手紙にて、もう二度と訪れない何時の日かを信じていたことも。

 何も、何も。


「……何で」


 何でそんなことをと、紡ぎたかった。

 けれど乾いて張り付いてしまったような喉からは、空気が漏れるような音しか零れない。

 何故、何故、何故――!

 もはや震えながら掠れた呻き声をあげるしかできなくなっている紗依を、矢斗が必死に支えてくれている。

 言葉をかけたくともかけられない、みつからない。そんな悲痛な想いが伝わってくるようだった。

 満ちかけた沈黙を消し去り、邪悪と言っていい笑みを浮かべる苑香を見据えながら言葉を発した者があった。


「……援助を引き上げられない為だろう」


 時嗣だった。

 低く重い声音で淡々と紡ぐ言葉の端には、抑えなければ爆発しそうな怒りを必死に耐えている様子が揺らめき見える。

 紗依は呆然としたまま時嗣が語るのを聞いていた。

 苦い表情で一つ息を吐いた時嗣は、自分達が辿り着いた可能性について触れる。


「紗依殿が紗紀子様の生存を疑ったとしたら、うちにまず訴えるだろう。それで真相に辿り着かれたら、もらった援助を引き上げられるとでも思ったんだろう」


 もしも紗依が、母が亡くなったことを知ったら。それが、不自然な……人為的なものであったことを察してしまったら。

 苑香達は、紗依が取る行動を予想して……邪推して。自分達の利益が損なわれない為に、偽りに偽りを重ねることを選んだ。

 あまりに非道で、身勝手で。怒りの矛先が揺れて定まらずにいる紗依へと、苑香は胸元から何かを取り出して投げつけた。


「ほら。これが証拠よ!」


 軽い音を立てて紗依の目の前に落ちたのは、一つのお守りだった。

 それが何であるか気づいた紗依は、目を見張って唇を震わせた。

 亡き祖父母がそれぞれに持っていた対の守り。

 祖母が持っていた方の守りは紗依が。そして祖父の持っていた方の守りは母が。

 これがある限り、私達はどこにあろうと繋がっているのです、と言って渡してくれた、大事なお守りだった。

 間違いない。これは、母が持っていたお守りだ。何があってもけして手放さないと涙ながらに誓ってくれた、あの。

 それが何故、苑香の手にあったのか。

 理由は、唯一つだけ……。


 紗依の中で、何かが大きく揺らぎ、跳ねる。

 身体の内に、生き物でもあるかのように。紗依の意思ならざる何かが蠢き、紗依という殻を突き破ろうとでもいうように。

 腕の中の紗依の尋常ではない様子に矢斗が険しい形相で紗依の名を呼んでいる。

 時嗣達もまた、紗依がおかしいことに気付いたようで、叫んでいる。

 けれど、もう。

 力強い腕で支えられているのに。地面が、世界が、揺れに揺れている。

 紗依の中から、あの声がする。


『さあ、そろそろ良いだろう』


 何かが渦を巻くように、ゆらりと回り、渦巻き始める。

 皆が顔色を失う程現にも明確な変化が生じ始めているのに、それにすらもはや気づかぬ様子で。狂ったように笑いながら、苑香は箍の外れた叫び声をあげる。


「束の間でも夢を見られたのよ。感謝して欲しいわ!」


 夢。そう、夢だった。

 幸せな……幸せすぎる、夢だった。

 私が、自分の幸せだけに気を取られすぎていて。

 自分だけが幸せなことに、何も感じないから。

 幸せに埋もれすぎて、お気楽に浮かれて気づけなかったから。

 だから。だから、お母様は――!


 声が聞こえる。

 自らを責める紗依に呼びかけるように、その声は紗依の内側からやってきて、裡を埋めつくす。

 お前が気づかなかったから――私が気づかなかったから。

 お前が幸せでありすぎたから――私が幸せでありすぎたから。

 お前が幸せに目が眩んでいたから――私が幸せに目が眩んでいたから。

 だから、失ったのだ――!


「紗依……!」


 内側からの何かの奔流は、ついに自らを抱き留めてくれていた腕をも弾き飛ばし、紗依の身体を宙に浮き上がらせる。 


「……! 守りを敷け……!」


 紗依の身体から放たれようとしている『何か』に気付いた時嗣が、妻と家人に必死の形相で命じる。

 矢斗が紗依を呼ぶ。

 時嗣も、千尋も、紗依を呼んでいる。声を限りにして。

 けれど、それすら遠く聞こえる程に紗依の意識は裡から生じるものに囚われ、埋もれていこうとしている。


『さあ、外に出してもらおうか……!』

「紗依……っ!」


 何かが叫び、矢斗が叫び。

 その瞬間、紗依の内にあったものは、現に形を生じた――。



 あらゆるものを吹き飛ばす圧倒的な力の奔流が、その場に居たすべての者を襲った。

 咄嗟に敷かれた守りの力を以てしても打ち据えられ、地に伏したものが多数の有様で。

 誰もが凍りついたように動きを止め、言葉を失っていた。

 紗依は、自分が浮いているのを感じた。

 何かに囚われているような感覚があり、手も足も動かせなくて。 

 辛うじて動かせた視線を巡らせたら、自分の腕に何かがからみつくものが見えた。

 それは、動物の毛皮のようでもあり、蛇や爬虫類のものにも見える醜悪な触手のようなものだった。

 向こうが微かに透けているならば、現の形を持たないはずなのに。触れる感覚はあまりに確かすぎて。

 紗依を捕らえるそれは、不思議なことに紗依の内側から生じているのだ。

 一体何が起きているのかわからなくて、紗依が呆然として呻くことすらできずにいると。

 紗依の悪夢の中だけにありつづけたあの声が、ぼんやりとした夢ではない……現の響きを伴って耳に届いた。


「ようやく、少し出られたか。ああ、長かった」


 それは不気味でありながら、どこか精悍な男の声のようにも聞こえる。

 一部であっても、長い戒めから解き放たれたことを喜び。清々しい程に愉快そうに嗤っている。

 その声に聞き覚えがある気が……あの夢の中だけではなく、確かに現で聞いたような覚えがして。

 何とか紗依が巡らせた視線の先で、顔色を無くし強張った面もちの矢斗が、愕然とこちらを見ている。


「久しいなあ、弓神」

「お前は……」


 現に転じた声は、馴染みにでも声をかけるように矢斗を呼ぶ。

 対する矢斗の声は、形容しがたい感情に震えかけ、掠れている。

 信じられないものを見た、という様子だ。

 居てはならないものを見た、と言わんばかりに矢斗の顔は蒼白である。

 揺れる眼差しの底には、暗く深い感情……怒りとも憎しみともとれる激しいものが潜んでいる。

 僅かに呻きながら、紗依の裡から生じたものを見据えていた矢斗は、顔を歪めてそれに告げた。


「……彼女と共に、お前も巡っていたのか……鵺……」


 鵺、と矢斗の口から紡がれた名に、紗依は愕然とする。

 我が耳を疑い、俄かには信じられずに小さな呻き声をあげてしまう。

 それは、かつて矢斗が巫女と共に対峙し、愛する女を失う原因となった怪異。

 都を混乱させ恐怖に陥れた、大いなる禍々しいもの。

 その怪異こそが自分の内から湧き上がり生じているものであることに、紗依はただ凍り付き、目を見張るばかりだった……。

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