ある懸念

 紗依が北家に暮らすようになって、そろそろ次なる季節に移ろうとしていた頃。

 その日は、庭の樹々は花々も心なしか気鬱そうに見える生憎の曇り空だった。


「あなた」

「どうした、千尋」


 軒先にて見上げ何かを伺っていた時嗣に、千尋が静かに声をかける。

 千尋の表情は翳りを帯びており、あまり良くない報せであることが察せられた。

 黙したまま続きを促すように眼差しを向けると、僅かな逡巡の後一つ息を吐く。


「近郊の療養所は空振りでした。実家の伝手を使って少し遠くまで範囲を広げてみましたが、どの療養所にも紗紀子様らしきお人は……」

「お前の実家の手の及ぶ範囲で居なかった、という事は」


 千尋の実家は、帝都及び近郊にて知らぬものはいない豪商である。

 その影響力はかなりの範囲に及び、張り巡らされた情報網の前には調べられぬことはないとまで言われている。

 それだけの情報収集力を持つ千尋の実家が探っても、診療所にある紗依の母の姿は見出せなかった。


「そんなに遠くの地方に行かせた、というのは考えづらいな。紗依殿に手紙が届く頻度を考えたら」

「ええ……」


 紗依の元には、診療所にいる母から定期的に手紙が届いているらしい。

 嬉しそうに母の近況を語る紗依の様子を思い出し苦い表情になりながらも、時嗣は肩を竦める。

 今は大分郵便に関する事情が整えられたとはいえ、それでも距離が隔たれば隔たる程届くまで時を要する。

 千尋の実家の手の届かない程遠方の診療所にあるならば、手紙が届くのも大分間遠になるはずだ。


「手紙は、玖瑶家の跡取り息子の……紗依殿の弟が介しているのだったか」

「そう仰ってました。療養所では素性を伏せているから、表だって手紙のやり取りが出来ないからと……」

「素性を伏せる理由については、まあ適当に思い当たりはするが。それでも、お前の実家が掴めないというのが……」


 紗紀子の素性を伏せたのは不自然といえば不自然であるが、理由が思い当たらないでもない。

 入り婿の現当主にとっては、一方的に離縁した正しい血筋の妻である。

どうお世辞に見ても幸せな環境にあったとは言えない弱り切った紗紀子を、玖瑶家の名で療養所に入れるのを外聞が悪いと憚った可能性もある。

 故に表だってのやりとりで第三者が察するのを避ける為、紗依と比較的仲が良かったという亘を介したのかもしれないが……。

 ただ、それもこじつけといえばこじつけの理由である。


「理由にはなるが、不自然だ。不自然だが、さりとておかしいと断じきる程の理由もなかった、が……」


 どれ程素性を伏せようと、自然と滲む真実というものはある。

 それなのに、探る為に伸ばしたあらゆる手はその欠片すらも掴むことが出来なかった。

 つまり、帝都と近郊の診療所の何処にも紗紀子は『いない』のだ。


「療養所には入れずに、どこかに隠したか……?」

「報告によりますと。紗紀子さまが目撃されたのは、紗依様がこちらにいらした直後。玖瑶家を連れ出された時が最後」


 表情を徐々に険しいものにしていきながら呟いた時嗣に、千尋は苦いものを噛みしめるような様子で目を伏せながら告げた。

 そして、少しの逡巡し唇を噛みしめた後、意を決した様子で続きを口にした。


「……それ以降、玖瑶家が何処かとやり取りしている様子はない、と……」

「嫌な予感しかしないな」


 盛大な溜息と共に手で髪を書き乱しながら、時嗣は苛立たしげに溜息を吐く。

 迂闊であったと言えばその通りだ。

 よもや、そこまで悪辣なことをやってのけると思わなかった自分達の失策である。

 相手を侮っていたことを悔いても遅いと、もう一度大きな溜息を吐いた後、時嗣は妻へと向き直る。


「使える手は全て使って玖瑶家を探らせろ。だが、動いていることを悟らせるな」

「承知致しました」


 低く鋭い声で命じる夫へと、それ以上の言葉は要らぬとばかりに千尋は頷いた。

 今自分達が何を求め、必要としているか。言葉によらずとも、二人の間には通じる確かなものがある。


「それと……。このことは、まだ紗依殿には伏せておけ」


 言う時嗣の表情にも、聞き頷いた千尋の表情にも、同じ翳りが生じる。

 時嗣が抱いた懸念が現実のものとなっていたならば、紗依にとっては残酷すぎる事実となってしまう。今はまだ、せめて確証が得られるまでは知らせたくない。

 二人はそのまま押し黙り、場には沈黙が満ちる。

 それを破ったのは、控えめな千尋の声だった。


「あの、紗依様なのですが……」


 俯いていた顔をゆるやかにあげながら言う妻へと、夫は少し驚いたような顔で続きを促すように視線を向ける。

 少し前の記憶に思いを巡らせるように視線を揺らした後、千尋は続きを紡ぐ。


「紗依様が。……矢斗様の昔のことを、知りたいと仰っていらして」

「昔、か……」


 複雑なものを帯びた声音で告げられた言葉に、時嗣の眼差しが細められ、僅かに揺れる。

 北家から祭神が失われた理由。矢斗が力なき存在にまでなった理由。

 そして、何故に矢斗が紗依を望むのかにまつわる真実。

 かつて矢斗に何があったのかについては、紗依が北家での暮らしになれたら、と語った。

 紗依が北家にきて暫く経つ。暮らしにもなれ、北家のものとも随分打ち解け。矢斗とも穏やかに時を重ねているように思う。

 それならば……。

 時嗣は、目を伏せると静かに呟いた。


「そろそろ、話すべきかもしれないな……。矢斗のこと、そして……何故、紗依殿が『神嫁』であるのかを」

 彼女が知るべき時が来たのかもしれない。

 今に至るまで、弓神と神嫁の間に、何があったのかを。

 何故、彼と彼女が、今の形であるのかを……。





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