滲む不穏

 紗依は、不思議な微睡みの中にあった。

 朝告げの小鳥が囀る音が遠くに聞こえて。眠る床からも室内が薄っすら明るくなってきたのを感じて。ふわりとした感覚の中、もう直ぐ朝が来るのだと知る。

 今日は矢斗に本を読んで聞かせると約束しているのだ。

 祭神として北家の内外に正式に触れが為された後、矢斗が紗依と過ごす時間は少し減ってしまっていた。

けれども、共に過ごす時間に並んで座る二人の距離は、少しずつ近くなっていた。

 矢斗は、紗依の声で物語が語られるのを好んでいた。

 他愛ないおとぎ話であったり、歴史を語るものであったり。時によりさまざまである。

矢斗は紗依が読み聞かせるのを楽しそうに聞いてくれ、続きをせがんでくれる。

 自分も本が読めることが嬉しいし、求められることも嬉しくて。

 物語を読みたいけれど、と悲しんでいた紗依が、好きなだけ好きな物語を読めることを矢斗が喜んでくれていているのが嬉しくて。

ついつい顔がほころんでしまいそうになるほど、待ち遠しいと思ってしまっている。

 不可思議な感覚の中、そろそろ起きなければと紗依が目を開こうとした時のことだった。


『幸せそうだな』


 愉悦を含んだ、一瞬にして恐れを呼び覚ます程に暗く低い声が聞こえた。

 眠っているのか起きているのか曖昧な感覚の中で、その声だけはひどくはっきりとしている。

 誰かが紗依に呼びかけている。

 夢かとも思ったが、違う。紗依を起こそうとする誰かかと思ったけれど、違う。

 眠る紗依の傍にて語り掛けるのではない。

 それは……紗依の『中』に居る。声は、紗依の『内側』に響いている……!


 ――あなたは、誰。どうして、私の中から声がするの。何故、私の中に……。


 自分の中に、自分以外の『何か』が存在している。

 得体のしれない恐怖が湧き上がってくるのを止めようとしても止められない。

 出来る限りの強さで、紗依はその『何か』に対して問おうとする。

 しかし、見えない『何か』は更に愉快そうに笑うと、尚も紗依の内側に低い言の葉を響かせる。


『これは異なことを。我を内に生じ入れたのは、他ならぬお前』


 ――私は、あなたなど知らない。そんな覚えなんか……。


 言葉に抗う意思を伝えようとしたけれど、その瞬間破裂するような笑いが響き渡る。

 痛い、苦しい。

 裡に直で感じる順然たる嘲笑う意思を感じて、紗依は胸を押さえてのたうち回りたい衝動に駆られる。

 私はこれを知らない――いや、わたしはこれを知っている。

 相反する事実と意思が鬩ぎ合う中、悶える紗依の意思を愉快そうに眺めていたそれは、重々しく告げる。


『我は、お前の中にある』


 目を開きたい。目を覚まして、早くこの嫌な感覚を無くしたい。夢だったとして、忘れてしまいたい。

 そんな紗依の意思を見透かすように、それは笑い、笑いは翻弄する嵐となって紗依を捕らえる。


『我は、時を越えても、お前と共にある……!』


 否定か、それとも。

 紗依は、自分でもわからないままに何かを叫ぼうとした。

 けれど。


「……っ!」


 次の瞬間、紗依の目の前にはもう見慣れた居室の天井が映った。

 呆然と目を見張る紗依の耳に鳥が朝を告げる囀りがはっきりと聞こえてくる。

 おそるおそる視線を動かせば、窓からは朝の光が差し込み、薄暗かった室内を照らしていた。

 ああ、目覚めたのだ、と紗依は気付いた。

 いつもと同じ朝。けれども、明確に幾度も迎えた朝とは違っている。

 紗依は呆然と天井を見据えたまま、 荒い息を何とか整えようとするけれど、成果は芳しくない。

 一筋、二筋。冷たい汗が頬を伝って落ちていく。

 心臓の鼓動が、どこか自分のものではないような、遠くにあるような不思議な感覚を覚える。

 見慣れた光景の中にある、慣れない感覚。呼吸も鼓動も自らの意思に反して整うことはなく走り続け、紗依は横たわったまま唇を噛みしめる。

 もうすぐサトがやってくるだろう。起き上がることも侭ならない有様なら、心配させてしまう。

 先程のことは、きっと夢だったのだ。悪い夢を見ただけで、心配することなど何もないのだ。

 半ば無理やりにそう思おうとした紗依だったが、願いに反して胸の不快な鼓動が収まるまでには時間を要した。

 かろうじてサトが来るまでに間に合ったけれど、老女中を出迎える紗依の心の中には冷たいものが伝い続けていた。

 そして、その異様な出来事を境に。紗依が不可思議な『悪夢』を見ることは次第に増えていった……。



 初めて『悪夢』を見てから数日して。紗依は朝早く、一人庭に出ていた。

 早く目覚めてしまった……否、悪夢から逃れる為に目覚めざるを得なかったのだ。

 少しばかり蒼い顔の紗依が見つめる先で、春の庭の花々は移り変わりゆく季節に合わせて次なる花期に備えて眠りにつき始めている。

 やがて盛りが来るのは夏の庭。陽の光に燃えるように輝く鮮やかな色彩の庭も大層見ものだという。

 自分が北家にきたのはまだ春も浅い時期のこと。それを考えると、この屋敷にて過ごすようになって随分経った。

 矢斗との再会し、小さな友が偉大な存在であったことも。その彼に妻にとこの身が望まれたことも、あまりに大きな衝撃で。

しかし、紗依を包み込むように慈しみ、時として甘え。優しく翻弄してくる矢斗は、今では紗依の日々欠くことのできない大切な存在となっていた。

 それは矢斗ばかりではない。時嗣や千尋や、サトに他の北家の人々。紗依が穏やかに暮らせるように心を配ってくれている皆もそうだ。

 この幸せな環境に母が居てくれればと思う。どれ程喜んでくれるだろうか。

 すっかり温かな人々に囲まれて暮らす日々が紗依の日常となってしまって、玖瑶家での辛い日々の方をまるで遠い夢のようにも感じてしまっていることを怖いと思う時がある。

 幸せに埋もれてしまうのを、何処かで恐れる自分がいる。

 身に余るほどの日々だと、心から思う。周りに居てくれる人々に心から感謝する。だからこそ、裡に染みのように存在するこの不安を表に出したくはないと思うのだ。

 日を追うごとに、あの『悪夢』に対する恐れと眠れぬことへの不安は増していく。

 一度誰かに相談してみるべきなのかもしれない。けれど……。

 物思いに耽りかけた紗依を引き戻したのは、少し離れたところからかけられた静かな声だった。


「紗依」

「矢斗……。おはよう、矢斗も朝の散歩?」


 一瞬驚きに目を見張ったけれど、すぐに誰なのか察して。

 裡を占めかけた思考を何とか彼方へと押しやって、笑みを浮かべながら紗依は振り向く。

 矢斗はいつもの優しい表情を見せてくれているけれど、何故か翳りのようなものを感じるのは気のせいだろうか……。


「いや。女中に紗依が庭に出たと聞いて来た」


 僅かに首を左右に振って告げる矢斗に、紗依は思わず首を傾げる。

 偶々庭にて顔を合わせたのではないということは、矢斗は自分に何か用事があったのだろうか。朝も早いといえる時間に、わざわざ出向いてくるなどどうしたのだろう。

 矢斗の意図を察することができず。生じた問いを口にしようとした時、頬に優しい感触を覚えて目を瞬いた。


「……顔色があまり良くない。何か、私にできることはないだろうか」


 頬に添えられた手に驚いていたが、続く言葉を聞いて鼓動がひとつ跳ねる。

 裡を見透かされたような気がして咄嗟の反応ができず、やや呆然とした面もちで矢斗を見つめるしかできない。

 抱える不安が表に出さないように気を付けてはいたけれど、悟られてしまったのだろうか。

 心から紗依を心配してくれているのが分かる真摯な声音に、胸に痛みが生じる。

 打ち明けてしまえばいいと思う。矢斗ならきっと聞いてくれて、共にどうしたら良いのか考えてくれる。

 自分ではどうすることもできなくても、頼ったならばきっと。

 そう思うのに何故か言葉を紡げない。開きかけた口から零れるのは、掠れる吐息ばかり。

 固い表情で、黙したままの紗依の頬へ包むように手を添え、矢斗は過ぎし日を思い出すように目を細めながら、一つ息を吐く。


「紗依は、辛くても苦しくても。他の人間を頼ろうとしなかった。いや……」


 優しい苦笑いと共に呟いた矢斗の言葉に、一瞬目を見張った後に顔を曇らせる紗依。

 確かに、その通りなのだ。

 言ってはいけない。頼ってはいけない。心の中にある何かが、枷となって裡から紗依を戒めている。

 その何かは、多分。


「誰かに咎が及ぶのを恐れて、頼ることを封じてしまっていた。気負いとなるのを恐れて、口を閉ざしていた。相手を思うが故に、言えなかった」


 ……人に頼ることを戒めているのは、他ならぬ紗依自身だ。

 本当は誰かに頼りたくて、助けてほしくて。辛い、苦しいと訴えたくて。

 でも紗依が下手に誰かに縋り頼れば、紗依を助けたことを咎としてその人間に妹達の矛先が向いてしまう。

辛い、と口にしてしまえば。表に出してしまえば、母の気負いとなってしまう。

だから誰も頼らないように、誰の気負いにもならぬように。全てを自分の裡に封じて、耐えて来た。

 自分を守る為であり、母を守る為であり。関わることになる誰かを守る為に、紗依が貫き続けてきたこと。


「私は、貴方が夕星と呼んでくれたものだ。……貴方が友と思い、胸の裡を明かしてくれた小さな光であったものだ」


 それを、小さな光であった友……矢斗は知っている。

 夕星にだけは、苦しい胸の裡を隠すことなく明かせていたけれど。何故か今は、明かそうとしても思わず俯いてしまう。

 返す言葉が見つけられずに唇を噛みしめて押し黙ってしまった紗依の頬に手を添えたまま、矢斗は続ける。


「ここには、紗依が頼ったからといって咎めるものはいない。害そうとするものから、私が守る。だから私は、紗依が頼ってくれるのを……何かを望んでくれる時を、待っている」


 大地に沁みこむ慈雨のように心に染みこんでいくような矢斗の言葉に、目頭が熱くなるのを感じた。

 ともすれば泣き出してしまいそうになるのを、必死で堪える。

 矢斗の口元には苦い笑いが浮かんでいるけれど、その空気も表情もただただ優しくて。

 救われ、守られているばかりで。向けられる心に心を返したいと思うのに、それすら出来ない自分が悲しくてしかたない。

 矢斗はけして紗依を急かすことはない。紗依が口を閉ざしてしまうのを責めてもいない。

 温かに見守りながら、紗依が自らの意思にて口を開き、願いを告げる時を待ってくれている。

 泣それがきたい程に切なく、胸が苦しい。

 矢斗に応えられる日がくるだろうか。心から彼を受け入れ、頼り。ただ与えられるだけではなく、共に微笑むことができる日が……。

 暫く見守るようにつめていてくれていた矢斗は、そろそろ朝餉の時間だ、と頬に添えていた手で紗依の手を取り、歩き出した。

 導くようにして歩く矢斗の手の温もりを感じながら、紗依は思った――信じたい、と。

 向けられる真っ直ぐな心に、同じ様に心を返すことができる日が来ると。何時の日か、は必ずくるのだと。

 そうありたい、と思う小さな灯火のようなものが、その日紗依の心に宿った――。

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