第3話 絵画の乙女

「どちら様でしょうか」


 細いニレ通りから更に何本か路地を入った住宅地の、古めかしい一軒家の扉を細く空けて顔を出したのは、20代半ばの青年だった。

 事前に警察から聞いていた背格好と、赤茶の髪と目の色は同じ。ついでに遠目に見せてもらったメイドと顔立ちもどことなく似ている。

 出かけるところだったのか、泥棒の下見に来た時のようなお仕着せではなかったが、軽くジャケットを羽織っていた。


 フランシスの一歩前で、正面から彼の不審者を見るような目つきを受け止めたレイモンドは、


「ケイシー・ペンドリーさんのお兄さん、ビリー・ペンドリーさんですね。……僕たちは今回の捜査の外部協力者です」


 年下で、学生であることは見れば分かるだろう。侮られても自然だと想像していた――が、青年の顔は見る間に強張った。

 暴力をふるう様子も逃亡する様子もないように見えたが、レイモンドはフランシスを庇い、かつ彼が逃げられない位置に立ちながら、更に彼を見据える。


「もし逃げるつもりなら、勾留――つまり逃げられないよう拘束される可能性が高くなります。お祖母さんのお世話が必要なら手配をしてからをお勧めしますね」

「……っ!」


 青年が息を呑むと、奥から「どちら様」という年老いた女性の声がした。

 青年は一度振り向き、取り繕った声で「何でもないよ」と返してから、レイモンドに向き直る。


「……外で話をしよう」


 外に出た青年は玄関扉を閉めると、上半身を扉に預けながら頭をかいた。

 その様子はわざわざ犯罪に足を突っ込むような暮らしぶりでも性格でもない、ごく普通の青年に見える。


「祖母は足を悪くしてから具合が悪いので、話を聞かせるのはやめてくれ。俺は……逃げたりしない。今から自首するつもりだった」

「認めるんですね。建造物侵入に窃盗、それから放火――」

「ああだけど、火事になったのは意図的じゃない!」


 レイモンドはその感情的な反応に、少しだけ表情を緩める。

 カマをかけたのだ、とフランシスには分かった。彼は証拠もなく決めつけたりはしない。

 わざわざ危険を冒してここに出向いたのは、むしろ警部に口添えをする可能性があるからだった。


 青年は肩で息を大きく吐くと、怒鳴ったことを恥じるように首を振った。

 レイモンドはといえば表情を変えず、


「放火と失火では大分罪の重さが違います。偶然かどうかは鑑識の調査が入ればはっきりするでしょう」

「どうだろうな」


 フランシスはレイモンドが自分を振り向いたので、強く頷く。それから発言しても問題ないだろうと口を開いた。


「三軒めの被害者宅にあった油絵についてですが、売却が目的なら切り取ったりはしません。

 額縁から外すには大きすぎて玄関から運ぶには目立つからか……と思いましたが、合鍵を作っておけるような内部の共犯者がいるなら、絵の大きさは事前に分かっていたことのはずです。

 だから、絵の処分が目的だと思いました。それで、もしかしたら最初から燃やすことも計画のうちならば、ガラス乾板も一緒に処分できてお得だなと」

「……」

「現場に残ったガラスには、厚みと溶け方が違う二種類のガラス片がありました。窓を割って侵入に見せかけつつ、ガラスを混ぜておけばバレにくいですし。更にいくらか熱でゆがんでしまえば、もっと区別はつきにくいですから。

 ……どうでしょうか」


 フランシスの淡々とした言葉に、青年は観念したように目を閉じた。


「妹は前の二件も、俺に言われて鍵の型を取っただけだ」

「あと翌日の犯行を見越して乾板を水差しに入れ、一階に運んでおいたのもですね」

「……そうだ。そこまでお見通しなんだな」


 青年が語った犯行の一部始終はこうだった。

 玄関から合鍵で侵入。二階の書斎からあらかじめ場所を聞いていた『麗しの乙女』のスケッチを取り出し、一階に降りるとキャンバスを切り取り暖炉で燃やす。

 それから一階の隅に置いてあった水差しから写真のガラス乾板を取り出す。

 合鍵を使ったことが解らないように、外部からの侵入に見せかけるために窓を開けて腕を回してガラスを割る。ガラスの破片は、乾板と一緒に少し炙ってその下にばらまく。


 それだけのつもりだった。……しかし、突然の訪問者に驚いた彼は、急いでいたため水差しの油を肘にぶつけて、床に零してしまった。

 暖炉の前に敷かれた絨毯にしみ込めば見る間に炎が燃え移った。

 消火する時間はないと思った。庭を回って声が近づいてきたので、玄関から慌てて出て鍵だけはかけた。


「動機は……何でしょう」

「祖母は若い頃、売れない女優だったんだ。ひとつふたつ舞台に立ってやめてしまったけど。その頃に今は有名画家になったシャリエのモデルも引き受けていた」

「……」

「シャリエはモデルとして祖母が気に入ったようで、まあ、それぞれ夢に向かっていたことで気も合ったと言っていたよ。

 一時期は毎日のように絵を描いていて、気安さもあったんだろう、その中にはごく薄着でくつろいでいる姿もあった。

 疚しい関係ではないと祖母は言ってたけど、そうも捉えられるような絵でね」


 フランシスにも想像がつく。

 その頃は良くても、年月を経て、またシャリエが金に困って売ってしまい、方々へ散る可能性を考えれば、気が気でなかっただろう。


「取り戻したいと祖母が思ったきっかけは……お堅い職業の祖父と結婚するのが決まってから。

 結婚前に取り戻そうとしたけどシャリエは根っからの芸術家で、この絵はこの絵として存在するのがいいのだと……最後に折れて、もし買うなら売ってもいいと言ったけど、金銭的に裕福でない祖母が金を貯める前に売られていったらしい」


 その後も、エイミーはそれを気にかけていた。何せシャリエはだんだん有名になり、何かのはずみで夫や子供たちの目に触れないとも限らなかったからだ。


「心配は現実にならなかった。でも、年老いて寿命が見えて来て……足を悪くした祖母が憂いを残さないようにと、盗んで燃やした」


 青年は壁に向かって振り向く。

 そこにあった窓越しに老婆が手を振るのが見えた。開いたカーテンの向こうには小さな暖炉があって、小さな火が燃えていた。


 ――今日は春の日差しが暖かいのに。


 フランシスはエイミーの体調が悪いせいかと思いかけて、ふととある可能性に気付いてドアノブに飛びついた。


「……済みませんっ!」

「フランシス嬢!?」

「証拠が!」


 レイモンドの制止を振り切るように、驚いて前のめりになる青年と扉の間に入って開け放つ。

 玄関から見通せる小さな居間。燃えゆく紙片が薄い炭となって、暖気に舞い上がって漂っていた。


「水……っ」


 鞄から水のボトルを取り出したが、間に合わないことは明白だった。紙の束だったものはもう、いくらかの石炭と共に黒々とした炭の欠片になってしまっていた。


「……祖母の目の前で証拠を焼かないと安心できないと思ったので」


 背後から青年の淡々とした、でもどこかほっとしたような声が聞こえる。そして続けて、


「やっぱりねえ、悪いことはできないものよ、ビリー」

「……おばあちゃん」


 目を見開いて立ち尽くすフランシスとレイモンドの視界に、窓際から足をぎこちなく引きずって現れたのは、白髪をまとめた老婦人だった。

 若い頃はさぞ美しかったのだろうと思ったが、それは顔立ちだけでなく纏う雰囲気のせいだ。

 そしてその手にはまだ一枚、古びたスケッチが握られていて――まだ若い頃の彼女の姿が残っていた。

 瑞々しい肢体に薄いローブをまとってソファに沈む彼女は楽しそうに微笑んでいる。たなびく髪がシャリエの言った通り生命力を感じさせた。


「あの頃は二人とも若かった。……一時期は『半裸の乙女』なんて題もついていたから、見知らぬ他人に見られたくはないけれどね。あの頃の私の若さと彼の情熱があったから、それぞれ次の一歩を踏み出せた。悪い思い出ばかりじゃないのよ」


 フランシスはエイミーに向けてすっと手を伸ばす。

 個人として何も権限はなく、事情を知る限りで個人的な同情を抱いてもいたが、見習い学者として信条は裏切れなかった。


「それは証拠品です。指紋を、採取させてください」

「持っていくの?」

「この絵は捜査資料として調べた後に、持ち主の元に返すことになります」


 引き取ったレイモンドは冷静に答える。薄い青い目は青年をもう見ておらず、真っすぐにエイミーを見つめていた。


「ただあなたは窃盗犯ではない。善意の第三者のようなものです。交渉次第では持ち主の方が譲ってくださるかもしれません」


 フランシスは目を瞬いてレイモンドを見直した。

 検事は犯罪を肯定するわけにはいかないし、彼自身そう思っているはずだ。何があっても法の番人であろうと。それでも。


「そう。スケッチの一枚くらい買える蓄えはあるわ」

「手続きに法律上の問題はないでしょう」

「チャンスをありがとう。優しいのね」

「……いえ。ただの知識の共有です」


 そう答えてレイモンドは口を閉じて視線を床に落とす。

 選択肢を示したに過ぎないが、それは明確に彼なりの手助けだった。





「まだ学生だからって……公私混同か。それとも、モラトリアムか」


 自首をしにビリー・ペンドリーが警察署に入るのを、数メートル後ろからで見届けたあと。

 まるで自身に言い聞かせるようなレイモンドの複雑そうな声に、フランシスは自分たちも後を追いながら、鞄の上から証拠品のスケッチに触れた。

 若き日の情熱もたらすものは、この行動と選択が正しいのかなんて死ぬ間際になっても――死んでも正しいかなんて分からないに違いない。

 それでも、フランシスは今この瞬間、彼を信じていた。


「単純に、お年寄りに親切なだけです」

「……君にも親切だと思うけど」

「そうですね。今日は特に」


 いつも通りの声音に戻ったのを確認して、フランシスはレイモンドにいたずらっぽく微笑んで見せた。

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