つかぬことを伺いますが ~絵画の乙女は炎上しました~
有沢楓
第1話 指紋採取とデートの整合性
たとえばステーキと生クリームの乗ったケーキが好物だったとして、一緒に口に入れたいとは思わない。
フランシス・ブロードベントは今まさに、そんな気分を味わっていた。
久しぶりのおでかけと事件発生現場の指紋採取は、彼女にとってそんな取り合わせだった。
「それ、今じゃないと駄目でしょうか……」
フランシスの語尾は瞬く間にしなびていった。
丸く優しげな青い瞳は、正面に立つ40がらみの警部の困り顔と、その背後で煤にまみれている建物の間をさまよった挙句、足元に落ちた。
彼女を恨めしそうに見返してくるのは、真新しい清楚なグレーのワンピースの裾と踵高めのパンプスだ。いや、そう見えるのはもちろん、フランシスの気持ちの投影で。
――春の初めに買って、終わるころにやっと袖を通せたし履けたのに。
一年365日中350日は――要するに動きやすさ最優先のパンツスタイルで日常を過ごしている彼女には珍しい格好だった。
身分差がだいぶ縮まった昨今とはいえ、伯爵令嬢にも関わらず社交は最低限。スカートは特別な用事でもない限り着ない。しばしば這いつくばる実習の邪魔になるから。
「駄目なんでしょ。証拠は時間と共に失われるって君の口癖だよね」
からかうような声音にフランシスが顔を上げれば、語尾をしなびさせた理由のひとつ――レイモンド・ストウの口元が笑っている。
一年前、追い詰められていたフランシスが初対面で結婚を申し込んでしまってから、紆余曲折あった末に付き合い始めた同い年の青年だ。
二人は、春に魔法学院の大学部で三年生になった。フランシスは魔法が絡む医学とその法医学・法科学を学び、レイモンドは法学部で検事を目指している。
学部も違えばそれぞれ師事する教授の用事もある。専門科目の履修も増えて、二人で会う機会も時間も減ってしまった。顔を合わせれば勉強の話か、課題を互いに手伝ったりするだけ。
さすがに研究熱心な彼女でもゆっくり話がしたかった――研究や論文以外の、たとえば美味しいケーキとか面白かった本とか、最近の個人的な心配ごととか。
だから積み上がりかけた課題を先に片付けて、予定を調整し、今じゃないと駄目な案件をお互いに片付けて。
やっと久々に休日のお出かけが叶って……そこで通りすがりに、ふと目を向けた裏路地で、火事の跡と顔見知りを見付けてしまったのだ。
しかもその顔見知りが警部で「お嬢さんは今暇か」と声を掛けられたとなれば、これはもう事件に違いなく、休日が潰れるのは確定的だ。
幸か不幸かフランシスはいつもの癖で、絆創膏と同じ扱いで指紋採取キットを鞄に入れていた。
フランシスは、レイモンドに「何で笑っているんですか」と言い返しそうになって口を閉じた。
黒髪の下の怜悧な薄青はこうなることが分かっていたというように見つめてきて、いつものように背中を押してきたから。
「……分かってます。……警部さん、でもせめてレイモンド様とお別れして、着替えてからでもいいでしょうか」
「後者は僕もお勧めするけど、別れる必要はない。今日は一緒にいるって言ったよね」
警部にたずねるフランシスは隣でレイモンドに意味ありげな視線を向けられ、再度抵抗を諦めるはめになった。
――事件を放っておいたままにしたくないのも、離れたくないのも、見透かされてる気がする。
フランシスはいつだって、彼の手のひらの上で転がされているような気がする。
それがちょっと悔しくて、埋め合わせでは驚かせてみせようと密かに誓った。
***
近くの雑貨店で適当な服と靴を調達したフランシスは、青みがかった灰色の髪をそのまま黒いゴムでまとめ、小ぢんまりとした一軒家の敷地に足を踏み入れた。
事件発生から数日経ち、炎どころか煙も野次馬も残っていない。
立ち入り禁止を示す頼りないロープをまたいで玄関扉をくぐれば、二階への階段と、奥へと続く扉が見えた。扉の方からは木の焦げた臭いが漂ってくる。
警部に誘われ居間を抜け、応接間に案内されるその途中には警察と鑑識とが調べ回った痕跡があった。
「指紋を採取して、父に鑑定してもらえば良いでしょうか」
魔法法医学者見習いの顔になったフランシスは、顔見知りの――正確には、法医学者である父親の仕事関係者の――警部に確認する。
父親が伯爵としての収入と給与からかなりの額を研究費に突っ込んでいるおかげで、大学でなくとも家にそこそこの機材が揃っていることを、この警部も知っているのだ。
そして正規ルートでの依頼でないということは、急ぎなのか、個人的な疑問があるのだろう。
「お嬢さんで十分だ。
「はい」
「ここんとこ、妙な盗難事件が起こってるんだ。大した価値のない美術品を盗んでいく、っていうな。
聞き込みの結果、どの家も盗難の数日前に見知らぬ若い男が訪ねてきていた。ここが三件目――で、今回は火事になっちまった」
「若い男性……ですね」
フランシスはぐるりと、趣味の良かったであろう部屋を見ながら相槌を打った。
火事の被害はここ一階奥の応接間、暖炉から中央のソファセット周辺。多くの調度品は焼けずに無事だったが――消火活動でびしょ濡れになったことを除けば――炎は天井まで焦がしていた。
原因とみられる暖炉は、春になった今ではほとんど使われていなかったそうだ。
「それだけじゃないぞ。火事を目撃した近所の住民によれば、最初に虹色の炎を見たんだとか。これが放火かどうか、どうやって起こったのか知りたい」
「虹色なんて目立ちますね。一番に気付きそうなご家族はその時どちらに?」
「虹色には驚かないのか? 家族が小旅行に行っている間に入られたんだ。使用人は一人、通いのメイドで当日は休み。今までの二件も家族と通いのメイドが不在の時間って条件は同じだ」
「不在で不幸中の幸いって感じじゃなさそうだね。……転ばないようにね」
家具と床の隙間を屈んでのぞき込んだり、背伸びしたりを始めたフランシスの白手袋をはめた手を、同じように手袋をしたレイモンドが取る。
「はい。転んだら証拠を台無しにしてしまうかもしれませんから、気を付けます」
「そういう意味じゃないんだけど」
「……そうですね、留守を知っていて入っています。それとこれは多分人為的な火災です。どこまで意図的か、までは分かりませんが」
フランシスは手を離し、その場に魔力と呪文の痕跡がないことを確認してから――魔力の残滓と呪文の解析が可能であることが、フランシスが呼ばれた理由であることも分かっていた――応接間の中央に燃え残る真っ黒な木材の一部を割ると、断面を見て思考する。
現場に集中していれば、もうデートのことはほとんど頭から消え去っていた。
「理由は?」
警部に問われてフランシスは、円形の木材の断面を指さした。ソファの足らしきそれは表面からぐるっと数センチ炭化しているが、心材は明るい色だ。
「火元に近い割りに、深部まで焦げていません。対して天井は焦げています。きっと時間をかけずに一気に燃え上がる原因――燃料が、この位置ならそうですね、テーブルの上にあった可能性があります。
わざと燃料を使ったか、事故か。わざとならたとえば……保険金絡みだと思いますか?」
フランシスが意見を求めるようにレイモンドを見やれば、小声が返ってきた。
「僕の好みを聞く時より、生き生きしてない?」
「そういうこと人前で聞かないでください」
どうした、と警部に問われて慌てて首を振ったフランシスは、鞄からピンセットを取り出し、これも何かにつけ便利だからと持ち歩いている袋に、木材や布の破片を納めていく。
少し口角が下がってしまうのは、警部の前でからかわれたくないのは勿論、彼を意識したら仕事に集中できなくなってしまいそうだからだ。
幸いレイモンドはすぐに真面目に返答をして、警部に視線を移してくれた。
「家主も怪しいと思うか、って? 家のことなら、この火災規模だと降りる保険金の額に見合わないんじゃないかな。……警部、美術品に保険はかかっていましたか」
「保険は一般的なものだけだったはずだ。ただ盗まれた絵などとは別に、有名画家のシャリエが売れる前に描いた絵が……『麗しの乙女』とかいう名前だったか、それがここに飾ってあったらしい」
警部は壁紙が燃え尽きた壁の前で、金属製の額縁を指さした。横には裏庭を臨むガラスの割れた両開きの窓があるが、太枠でそれよりも大分大きい。
絵の説明を警部がしたのは、額縁に嵌っていたはずのキャンバスも焦げており、そして何より、内枠に沿って絵が描かれていたはずの布が刃物で乱暴に切り取られていた跡があったからだ。
「鑑識がいうには、燃える前に切り取られているそうだ。盗むには大した金額じゃないにしても……この扱いじゃ小銭稼ぎどころか無価値になっただろうな」
「今まで盗まれたのも油絵ですか」
レイモンドが思い付いたようにたずねると、フランシスの視線は額縁周辺に向いた。その辺りの壁と床は、暖炉側以外では最も焼け焦げている。
割れた窓ガラスの一部は、ひしゃげたガラス片となって床に散らばっていた。
「ああ。それとここの主人は油絵が趣味で、二階の書斎で他の絵や画材を保管していた。盗まれた絵もそっちにある」
「絵の具の種類が聞きたいですね。絵に使われた絵の具の色とここにあったかもしれない画材、目撃者の証言を合わせれば虹色の炎の説明は付きそうです」
「絵の具?」
レイモンドの言葉に首を傾げる警部に、フランシスが答える。
「画家の使うような絵の具の一部には、様々な鉱物が使われています。鉱物は燃える際に色々な炎を出すので……簡単に言えば、花火と同じです」
「確かに白や赤や、色々あったな」
「ええ、切り取って燃やしたのかもしれないです。何故そんなことをしたのか――可能性で、画材かもしれませんが――分かりませんが、窓際にあったなら見えてもおかしくありません。ところで、この窓は消火時に割れたのでしょうか」
「犯人の線で考えてる。
目撃者っていうのが隣家の人でな。旅行に行くとは知らず玄関扉を叩いていたら、室内の奥の方から物音がしたから裏庭まで回り込んだそうだ。
それで、ちょうどこの窓の向こうから多色の炎を見ている。そのうち赤い炎があがって我に返り火事だと通報、間もなく消防隊によって消火された」
犯人にとって運が良かったのか悪かったのか、と警部は言ったが、家主には災難極まりなかっただろう。
「消防署員も、玄関扉の鍵を壊して入ったと聞いてる。室内に破片が残ってるんだから、やはり泥棒の進入時じゃないか? 他の二件は鍵のかけ忘れの可能性もあるらしいが。……何か気になるのか?」
「……ガラスの厚みと溶け方が気になるんですよね」
フランシスは持ち歩いている簡易指紋採取キットの粉を、火事や消火の被害を受けていない、めぼしい場所にくっつける。
指紋は、警察が犯人の特定法を確立しようとしていた時代、特に注目された個人識別法。
そしていまだに、裁判で根拠として採用される、きわめて有力な証拠のひとつだ。
一時期フランシスは指紋研究に夢中になっており、彼女がレイモンドと個人的に仲良くなったきっかけも、父親の協力を得て開発したブロードベント式指紋採取法の証拠能力が法廷で認められたからで――警部に信用され頼まれる理由でもあった。
「……この水差し……?」
部屋をつぶさに観察していたフランシスは、部屋の片隅に転がったままのガラス製の上等そうな水差しに目を止めた。
その内部に残る雫に違和感を覚えて、適当な布で拭ってみる。
「どうかしたの? ……これは油?」
「そうですね。水差しに油をたっぷり入れた跡が残っています」
隣に並んだレイモンドに頷きつつ、入念に持ち手の指紋を浮かび上がらせ、テープに写し取ってから、フランシスは警部にたずねる。
「メイドさんは今どちらに?」
「ニレ通りの自宅アパートで待機中で、明日には一家と後片付けに来るそうだ。さすがにお嬢さんに聞き込みは許可できないんで、知りたいことがあったら俺が聞いておこう」
「では今までの二件のメイドさんと同一人物なのか確認する必要がありそうですね」
「それはもう調べが付いてる……今、部下が監視中だ。良く分かったな」
目を丸くする警部に、フランシスは微笑んだ。
「さすがに警部は早いですね」
「引っ張る証拠がない」
「あの、先入観だけで追い詰めるのは、やめてくださいね。あくまで実際どうだったのかという確認です。立証するために無理に証拠を当てはめるのは――」
彼女はレイモンドを一瞥する。
今は涼しいくらいの顔をしている。でもフランシスは過去、彼の祖父が無実の罪で容疑をかけられ、苦労したことを、今でも影響が残っていることを知っていた。
「証拠はあくまで、今の時点の技術で分かること、それも一面の提示でしかありません。どう扱うかは法医学者でなく警察と検事のお仕事の範疇ですが、私はそう思います」
「お嬢さんに言われなくても、分かってるつもりだぞ?」
「お願いします。では参考に、最近の来客について分かっていることと、その間の皆さんの行動の一部始終について教えていただきたいです。それから訊いていただきたいのは――」
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