第七話 天正十年 四月三日 躑躅ヶ崎館仮屋敷

 三月廿九日に、織田前右府さきのうふ様が論功行賞により知行割りを行うと、甲斐國・信濃國の“国掟十一か条”を定めて、各郡に発布した。

 この事により、甲信両国の領有権並びに行政権を天下に示したこととなる。


 一通りの仕置を済ませると、上諏訪法華寺に織田三位中将さんみちゅうじょうを残して、後の行政の一切を任せた。


 四月二日には法華寺を発ち、翌日には灰燼に帰した新府城跡を一瞥しただけで素通りして、その日の内に甲斐の中心である躑躅ヶ崎館に到着した。


 躑躅ヶ崎館は想像以上に荒れ果てており、事前に三位中将さんみちゅうじょうが普請を命じていた仮屋敷を在所とした。


 そこで恵林寺で、六角義治の嫡男義定が“佐々木次郎”と名を変えて、潜伏していたことが発覚した。

 六角家は上様が上洛の折に、真っ先に反織田の旗幟を鮮明にした因縁の敵である。

 また鞆公方が離反した折に、反織田包囲網を策謀したのも六角義治と伝え聞く。

 そのため即刻、“佐々木次郎”こと六角義定の引き渡しを命じたが、恵林寺はそれを拒否した。

 このことが上様の逆鱗に触れ、恵林寺は焼き討ちとなった。


 この時の住職が快川紹喜であった。


 快川紹喜は私(日向守)にとっても因縁浅からぬ間で在った。

 元々が美濃土岐氏の末裔であったからだ。


 甲斐國の信玄公に招かれ、対美濃國との外交僧としても活躍しており、武田諏訪四郎の師でもあったのだろう。

 また前年の天正九年には、正親町天皇より『大通智勝国師』という国師号を賜っている。

 正に朝廷と甲斐源氏、そして私(日向守)とを結びつける因縁の人物であった。


(ひょっとすると、愛宕山からの密書はここに届けられていたのやも知れぬ)


 燃え上がる寺院の山門には、快川紹喜のほか高名な僧侶たちが一固まりとなっていた。

 快川紹喜は一歩前に進みだして、大声で喝を入れた。


「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」

 と高らかに遺偈ゆいげを残した。


 奇しくもその光景を見詰める衆人の中には、近衛太政大臣がおられた。

 近衛卿は、この年の二月に太政大臣に就任したばかりであった。


 私(日向守)は近衛太政大臣に対して、恭しく出迎えた。

 近衛太政大臣は、上様との謁見を所望された。

 甲州征伐の祝いを労いたいとのことであった。


 上様は躑躅ヶ崎館の仮屋敷に居られることを伝えた後、燃え盛る山門を見遣りながら奏上した。

前右府さきのうふ様は、今頗る機嫌が悪いので、お会いするのは日を改めた方が宜しいかと」

 そんな言葉を意にも介さずに、案内する様に申し付けられた。


 止むを得ず、丁重に仮屋敷まで案内をした。


 事前に上様にお知らせすべく、近衛太政大臣卿の来訪を伝えた。

 案の定、上様の起源はすこぶる悪く、外に聞こえるような大声で叱りつけた。

「なぜ公卿風情が最前線に出張って来るのじゃ!織田本陣は最後方で、としてるとでも思うてか」


 私(日向守)は近衛太政大臣卿への言を、丁重な言葉に直して伝えたが、仮屋敷のため丸聞こえだったらしく、苦笑いを浮かべていた。

「確かに、惟任日向守の申す通りでおじゃるな。ここは出直す事と致そう」


 そして扇子を広げると、私の耳元で囁くように言葉を紡いだ。

「惟任日向守よ。よもや内々の事、漏れては居るまいな」



 私(日向守)は知らずに、顔面蒼白でその手が震えていることにも気が付かなかった。

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