✦05✧︎ 紅涙の使者


 光華門の城壁に登った日本兵が、ついに日章旗を掲げる。侵略への高揚と憎悪を連れて。余韻ごと砲撃されたが、光華門と中華門はかしらをすげ替えた。城内へ進撃する日本兵と競うように城壁を飛び越えたのは、「南京城が陥落される前に、しょうちゃんの両親の救出を急ぎたいの」と桐乃が半妖部隊に訴えてくれたからだ。指南役のくせに、浬の姿が無い。気ままに戦場を彷徨うなど、命知らずな奴だ。


 戦火を抜けた半妖部隊は、逢魔が刻の南京城に絶句した。既に、酷い腐臭がする。電柱からぶら下がるのは、鉄の鳥籠だ。中の晒し首は、燔祭はんさいの贄の如し。後ろ手に縛られた杪冬びょうとうの死体は、どす黒く変色し膨らんでいた。野良犬が蛆が湧く死骸を喰らい、遠い銃声が止まない。痩せた老婆が暗い戸口に引っ込み、自分は桐乃と目配せした。

 

「地獄に踏み入ったような、漢奸狩りだ。死体と動けぬ難民以外、もぬけの殻じゃないか。自分一匹を狩る余裕など、国民革命軍には無さそうだ。自分の親は……逃げ出していればいいが」


「やけに胸騒ぎがする……人々はどこに行ったの? 」 


 餓鬼道を駆ける中、黄埔こうほ陸軍士官学校(南京本校。別名 : 中央陸軍士官学校)と無惨な再会を果たす。第十一期生である自分は、十九歳になった八月に孤独な卒業式をここで迎えた。インターンシップを受けていた軍統へ早々に着任し、日本へ発ったのだ。別れた同期達は、南京が空爆される危機的瞬間に霊谷寺れいこくじで卒業し、上海防衛戦へ向かったはずだ。彼らは南京でも、死を厭わない革命烈士になれただろうか。半壊した家屋形の門の向こう、掲げられた対句の一つを見た。


『贪生怕死莫入斯门

(生に貪欲で死を恐れるなら、ここに来るな)』


 中洋折衷の母校に墜ちたはずの空爆が、弾ける明転。咆哮した旧友の脚が血を引いて飛び、白日の瓦礫に潰れる骨と襤褸布になった……。破裂寸前の脳圧が滾らす息で、 誰を呪えばいいのか。種族の惨殺に抗う彼らにとっては、半妖を見捨てられない自分は裏切り者なのに。腹底から決壊した血流の問いに、生と死の価値が揺れていた。ただ一つの革命に、死を捧げるべきか。後世へ生き残り、多くの新しい革命を成すべきか。

  

「ようやくだ。半妖おまえ達が日本軍から離脱したおかげで、妖狩人ぼくらの誇りを守る為に暗躍できる。桐乃……お前は因幡の白兎のように、僕という和邇ワニの逆鱗に触れたんだ」


「浬! やっと逢えたのに……分からないよ。私は貴方に何をしてしまったの? 」


 紫金山しきんさんは砲撃で唸り、黒緑の御身を噴火した! 浬は金散る山火事を背に、透け袖が襲なる深海へ銀螺鈿を底光らせる。洗朱の鰭と龍の胴体で浮かぶ『頭蓋骨の人魚』に寄り添い、自分と桐乃を睨んだ。


「悟れよ。僕ら三人は、性愛を歪ませ、恐れ、侮辱している。非接触で崇拝する小児性愛者ぺドフィリアに、捕食対象に凌辱され無性愛者アセクシュアルになった桐乃。人と妖を平等な愛で喰らう全性愛者パンセクシュアルの僕なんてね」


 紳士的な歩にさえ、殺気を連れる。浬は呪うように見下し、桐乃の両頬に触れた。瞳で喰らうように、恐ろしい天藍石ラズライトの輝きを見開く!

 

「僕らは誰かを正しく愛することなんて、出来ない。『兎川家から解放される』という餌に釣られた桐乃が、愛するフリで僕に縋ったように。己に性愛を向けなかったから、僕と三橋中尉に安堵したんだ。泣きつけない母親の代わりに慰めてくれるなら、誰でもよかったんだろ」


 桐乃は耐え兼ねたように、顏を辛く歪ませた。遺された子供のように、涙が零れる。

 

「私の初恋を否定しないで。慰めが嘘だったとしても、私は浬に救われたんだよ! だから、私は貴方を変えたかった。傷ついているときに、必要な薬をくれた人を好きになっちゃいけないの? ……私が嫌いなら、はっきり言ってよ」

 

「桐乃は『有益な異能』以外に利用価値が無い、短命の消耗武器だ。それ以上には成り得ない。妖狩人から日本軍に売られた半妖の身で、恋物語を観れて光栄だろ」

 

 無慈悲が、胸を吹き抜ける。茫洋と瞳を曇らせた桐乃が、突き飛ばされた! 自分は思わず桐乃を支え、浬を睨んだが、奴は冷めた眼差しを返すばかりだ。

 

「いい加減、自覚しろよ。正し過ぎる光源は、害なす激薬だって。逃亡を語った桐乃のせいで、半妖共が死ぬんだからな! 妖狩人ぼくらの代わりに兵役を成せないなら、『誇り高き戦死』をさせてやる! 」


 浬は悲鳴同然に吼え、己の頬へ銀の爪をたてた! 貝紫色ティリアンパープルの髪先に洗朱が逆流し、光爆ぜる白頬に紅涙こうるいが伝う。おぞましさに、桐乃は言葉を失った。 

 

「僕という水で『浸蝕』し、半妖おまえ達を凌辱から解放してやろう! 水葬されるお前達は幸運だ。身体を喪っても、僕と人魚に魂を永遠に喰い千切られ続けるのだから。有象無象の魂達が夢遊する、竜宮城へ導いてやる! 」


「ふざけるな! 残酷な死で、今生が救われるものか!」


 嗤う浬の身体が、とぷんと。『人魚』が咆哮し、洗朱の尾鰭で薙ぎ払う! 鋸の如き斬撃を避けられなかった半妖達は脚を削がれ、背後の血沼から現れた男に戦慄した。鬼火の双眸。洗朱の羽衣が柄頭を繋ぐ双刀が振り回され、舞いで噴き出す彼岸花は幻なはずだ。真っ赤な世界で、浬の青白い顏だけが宵を仰ぐのも。首が落ちる半妖達のむくろへ、『人魚』は喰らい付く! 焦点が上手く合わない。はらわたを裂かれる仲間達の姿が、腹底を凍えさせる。血染めの双刀を手に、浬はゆらゆらと立ち上がった。

 

「僕らの意思は、血族に呑まれて消えていくんだ。『妖』という生ける武器を異郷に下げ渡す屈辱より、『死』が悦いと洗脳したのは妖狩人なのさ! 」 


 不運にも居合わせた日本人兵士が雄叫びを上げて銃撃し、浬は無機質に一瞥した。弾丸は、水の如き身体に波紋を生むばかりだ。唸る『人魚』が兵士に噛み付き、吊るす! 卵を潰すように頭部を咀嚼し、粗相と流血で牙を濡らした。透ける龍の腹に呑まれ、深海の体内に赤きむくろが浮く。過剰な命で図体が増していくのか。『人魚』の眼窩が薙ぐ刹那に、死んだ。暖かい鮮血を浴びたからそう思ったのに、身体が痛くない。自分を庇ったのは、誰だ。

 

「初めから分かっていました。戦地に赴く半妖わたしたちは、行きも帰りも地獄なのだと。だから貴方には、私の生き様を覚えていて欲しい」

 

 自分の肩に触れた黒鱗の手が滑り落ち、我に返る。彼の肘から先には、繋がっていなかった。蒼灰色の狐耳が揺らぎ、血濡れで横たう❮青狐あおご❯は微かに自嘲した。

 

「私の家門は、桐乃と同じ境遇でして。妖を血脈に溶かすために、幾人もの妖と人が犠牲になるのです。私と結ばれた奥様もお可哀想で。『人のお世継ぎ』と『妖混じりの贄』を産む為に、望まない二人の男と交わらねばならないのですから。『転生の幻夢を視せながら殺して、定めから楽にして欲しい』という彼女の願いを、私には叶える事が出来ませんでした。彼女は別れ際に泣きながら、『帰って来ないで』と私を呪っていました。愛する人を苦しめるくらいなら、私は死にたかったのです」


 苦悶の微笑みが灰の如く崩れ、金緑の光が霧散する! 半妖の死は、無惨なむくろすら遺してくれないのか。鈍く輝く認識票に、友人になれたはずの男を知る。 自分が惹かれた『生命を尊ぶ心』を抱いた半妖部隊は壊滅し、自分と桐乃しか生き残っていなかった。

 

「浬……貴方も逃げればよかったじゃない。『妖狩人』なんて立場から。どうして、半妖わたしたちと生きる未来を選んでくれなかったの! 」 


 声音に憎悪を燻らせる桐乃が、最後に問う。

  

「己の血からは逃げられやしない。傷口を掌握する人魚の愛を失ったら、僕は身体が解けるんだ。致命傷が蓄積された僕は、生きているようで死んでいる」


 嗤おうとする浬は、泣けもせずに口角が歪む。いっそ、狂おうとしているみたいだった。浬が心から化け物になってしまえば、完璧に恨めたはずだ。天藍石ラズライトの瞳に細まる銀光を研ぐように、双刀が構えられた。浬が狩るべき最後の半妖は、呆然とする桐乃だ! 自分は桐乃の手を引いて、地を蹴った! 宵闇を振り返れば、浬は不気味にもゆっくりと歩み始めた。

 

 

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