第31話
第31話
食事を終えた五十嵐は支払いを終えると、用があるのでと車を残し電車に乗るために駅の方向へと去っていった。残された高橋と岡野は途切れ途切れの会話を交わしながら、点々と続く街灯の下をゆっくりと歩くことにした。タクシーでも拾おうかと始めに高橋は提案したが、家がそこまで遠くないことと食べ過ぎたので少しでも消化したいという岡野の主張によって、高橋はタクシーを諦めて彼女を徒歩で家まで送ることにした。カロリー消化という女性的な理由が、高橋には何だか新鮮な気がした。
「・・・まだ秋だというのに、夜はやはり冷え込みますね」
岡野は寒さから逃れるように両手で肩を包みながら、高橋に向かって微笑みかけた。高橋もつられてつい笑顔を浮かべてしまう。
「・・・岡野さん」高橋は笑顔のまま岡野へと視線を移した。「し、失礼なことを言ったらすいません。・・・外見もそうですけど、雰囲気もこの前と随分違いますね」
「あぁ。この間は初対面でしたし、違う学校からの問い合わせだったのでただ事じゃないなと緊張していたんです」岡野は夜空を仰ぎながら、小さな含み笑いを浮かべる。「そういう高橋先生もですよ。電話越しでは何だか事務的な口調だったので、どういう方が来るのかと身構えてしまいました」
「・・・そうですか?」高橋はその時の自分の態度を思い出しながら頭を掻いた。「そんなつもりは、なかったんですけどね」
そんな他愛のない会話を繰り返していると、高橋の視界に映る風景が徐々に記憶を掠り始める。うろ覚えではあるが、五十嵐と共に岡野邸へ向かう途中、歩きながら眺めた風景と同じに見えた。
「高橋先生。今日は本当にありがとうございました」
玄関にたどり着くと、岡野は高橋の方に振り返って深々と頭を下げた。高橋は首を振り、かすかな笑顔を浮かべてじゃあと手を挙げる。
とりあえず大通りに出てタクシーでも拾おうかと、高橋はコートのポケットに両手を入れて歩き出した。その時だった。
「高橋先生!」
空気を伝播する声に、高橋は慌てて振り向いた。声の主は玄関に消えたと思っていたはずの岡野で、彼女は駆け足で高橋との距離を詰めると、顔を伏せて視線を泳がせながら何か言葉にするのを
「ど、どうかしましたか?」
突然のことに高橋は真顔で岡野に尋ねた。呼び止められる理由など呼び止められる側が分かるわけもないので、
「・・・今度は、私が食事に誘っても良いですか?」
「・・・え?」
予想もしていない言葉に、高橋は虚を突かれて口を開け放した。呆然としている中、岡野は少し恥ずかしげに顔を伏せて言葉を続ける。
「その、今度はプライベートでって意味ですけど。あの、嫌だったら、全然・・・」
「そ、そんなことないです!」
高橋は岡野が言葉を紡ぎ終わるのを阻むように声を上げた。突然張り上げられた声に彼女は反射的に顔を上げる。高橋は視線が重なることで冷静さを取り戻し、自分の行いの恥ずかしさにかすかに赤面しながら頭を掻いた。
「あ、その・・・。うるさかったですよね、すいません。えっと、僕なんかで良ければ、いつでも」
呟くような高橋の言葉に、岡野は良かったとそっと胸を撫で下ろした。彼女が浮かべたかすかな微笑みが、不意に高橋は綺麗だと思った。咲月の元担任。高橋の中のカテゴライズが、一瞬で変貌を遂げる。
「じゃあ、また電話します。お休みなさい」
岡野は笑顔でそう言うと、深々と頭を下げてから小さく手を振って玄関へと戻っていった。高橋は彼女の背中を見送った後、歩きながら先ほどまでのやり取りを
今まで、高橋にこういった経験は一度もなかった。どんなに可愛い人でも綺麗な人でも、自分には無関係だと感じて他意など生まれることがなかった。目の保養だと、見掛ける時に眺める程度の存在だった。
彼女の態度を、好意と受け取ってもいいのだろうか。
「先生!」
二度目の呼び声。それは女性のものではなく、そして後方からではなく正面からだった。
高橋が視線を移して目を細めると、道路の先に街灯に照らされた咲月の姿があった。彼は街灯に遮られた闇に同化しながら、静かに歩を進めている。
「どうしたんですか?」咲月は高橋の前まで歩み寄ると、小さく首を傾げた。「こんなところで・・・」
「あ、いや・・・」
高橋は返答に困りながら笑顔を浮かべた。その仕草に理解を示せない咲月は更に首を傾げて眉間に皺を寄せる。
「雨宮君、岡野先生を覚えてる?」
「岡野先生?・・・あぁ、中学の時の担任ですけど」咲月は傾げた首を戻さず、いまだ高橋の言葉の真意が理解出来ないといった様子を見せる。「・・・それが、どうかしたんですか?」
咲月の疑問に、高橋は思考を整理しながら口を開いた。彼のことで先日家を訪問したこと。新たに下された処分を五十嵐や岡野と共に先ほどまで話していたこと。自分のことを話されている彼は、少し気まずそうに頬を指先で掻くと、高橋に向かって小さく頭を下げた。
「・・・色々、すいませんでした」
「あ、いや。謝ることじゃないよ」高橋は笑みを浮かべて手を左右に振った。「・・・謝ることじゃないんだ」
高橋の言葉に、咲月は再び首を傾げる。高橋はそんな彼に気を付けて帰るようにと別れの挨拶を済ませて歩き出した。
夜の
雨宮咲月は変わった。それは彼に接している誰もが感じるほど、目をみはるほどの変化だった。そして彼に接していた自分も、おそらく静恵や五十嵐も、何かが変化しているのだろう。
些細なことかもしれない。それが何かも分からない。しかし、形のないその変化が、どれほど尊いかは理解出来る。彼と会話をするだけで、実感出来る。
高橋を変えたのは雨宮咲月で、彼を変えたのは新藤夏海で、そうして世界は繋がっている。人は、繋がっていく。
高橋は再び月のない夜空を仰ぐ。かすかな星屑が途方もない距離を経て光を放っているのに、大きな顔をして鎮座するはずの主役は雲間に姿を消していた。
変わる前の自分が、高橋は嫌いではなかった。分相応に生きてきたし、何より普通が大切だと思っていたからだ。結局のところ自分の人生に自分は必要不可欠なので、何よりそれを守っていたに過ぎない。それがどういう捉え方をされようと、構わずに。
今は違う。エゴだとしても、自分のために、誰かを守りたいと思える。結果は同じでも、本質が違っている。しかしそれは高橋にとって、はたして良い変化なのだろうか。今は分からない。これからも、分からないかもしれない。それでも、今の自分も、嫌いではなかった。
そんなことを考えながら高橋は一人で微笑み、立ち止まった交差点で近付いてくるタクシーに向かって大きく手を挙げた。
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