2話:園田「煌びやかな世界に生きている人」

 ☆☆☆


 私のクラスには煌びやかな世界を持っている男子がいる。

 その子の名前は、若月香わかつきこうくん。

 若月くんのことは、実は中学の時から名前だけは知っていた。

 その日、友達と遊びに行ったショッピングモールでは、市内の中学生が描いた絵が展示されていた。友達がお手洗いに行っている間、私はそれを眺めてた。

 どれも絵具で描かれてるなか、一つだけ色鉛筆で描かれた海の絵があった。

 目を奪われる体験をしたのは、この時が人生で初めてだった。

 それまで、モール内に流れる音楽や色んな人の会話がちゃんと聞こえてたのに、その絵を目にした瞬間、喧騒は全て消えた。

 代わりに、私の耳には波の音とウミネコの鳴き声という海の音色が聴こえてきた気がした。あまりに鮮やかすぎて、「綺麗」と言葉が漏れた。

 小学五年生の時にお父さんが亡くなってから、私は妹とお母さんと三人暮らしになった。

 お母さんは、私と妹の為に朝から晩までずっと働いて、家にいる時間が極端に減った。お父さんがいないから、その代わりになろうと必死に頑張ってくれていた。だからこそ妹にとってのお母さんの代わりに、私がならないといけないと思うようになった。

 それまではわがままな娘だったと思う。夜ご飯で嫌いなものが出たときは食べなかったし、玩具を買って欲しくて駄々を捏ねたこともある。

 それじゃこの先ダメなんだと思った。妹の見本となる為に、私はその日から自分の中にある甘えを捨てた。でも、可愛い妹や頑張って働いてくれてるお母さんには優しくいたい。

 私は、家族の前でも必死に笑顔の仮面を貼りつけて良い子を演じるようになった。いつからか、その演技だらけの世界が色褪せて見えるようになり、酷くつまらないもののように感じるようになっていた。

 そんな私にとってその絵は衝撃だった。この絵を描いた人にはこの世界がどれだけ煌びやかに見えてるのだろうって羨ましく思った。

 あまりに絵に魅入り、戻ってきた友達に肩を叩かれるまでが一瞬だった。

 買い物の続きに戻らないといけない。だけどその場から離れるのが名残惜しかった。離れる瞬間、その絵を描いた子の名前だけは覚えておこうって絵の下に書かれている名前を確認する。


「若月かおるさんね」


 女の子だと思った。

 それから中学を卒業するまで、その子が描いた絵を見る機会は無くて残念だった。

 だから高校の入学式当日、同じクラスにその名前を見つけたときは胸が高鳴った。どんな子なんだろ。仲良くなれるかな。お弁当も一緒に食べたいな。そんなことを考えてたから、クラスでの自己紹介のとき、凄く驚いた。


「若月こうです。よろしくお願いします」


 目元が隠れるくらい伸びた黒髪癖毛の男の子が、伏し目がちにそれだけ言うと、ストンと椅子に座ったんだから。

 その自己紹介を聞いて、正直、少しがっかりした。

 イメージしてた人と違うとかそんな理由でのがっかりじゃない。あの鮮やかな色鉛筆画を描いた子とは同形異音語の名前を持つ、別人なんだと思ってのがっかりだった。

 それから少し日が経つと、若月くんはクラスで若干浮き始めた。いつも一人でポーッと外を眺めてた。ヒソヒソと噂話をしてる子なんかもいた。

 中学でもほとんど一人だった。休みの日、一人でゆっくりと歩いてて不審者みたいだった。あと、幽霊部員ばかりの美術部で一人だけ部活に出てるのが、逆に不気味とも言われてたっけ。

 良く言えば周りに影響されず飄々としていて自由に生きてる感じ。悪く言えば友達がいない根暗な人という噂話ばかり。

 そんな噂話を耳にして、私は「美術部」というキーワードから、別人だと思っていた「若月香」という人間が同じ人なのかもしれないと思い始めた。

 それを確かめる為に美術部の部室にまで足を運んだ。

 部室の前、若月くんが描いたらしい校内美化のポスターを見て私は確信した。

 それは色鉛筆で描かれた太陽の光が射す廊下の絵。上靴と磨かれた床が擦れるゴムの音まで聞こえてきそうな鮮やかな色使い。

 この絵を描いた人は、あの海の絵を描いた若月香と同じ人だ。

 気分が高揚した。自己紹介のときに感じた残念な気持ちは綺麗に消え去っていた。

 それから、若月くんと話してみたいなって思うようになった。

 だけど、なかなか話しかけられなかった。

 目元が隠れていてわかりにくいけど、外を眺めている若月くんの三白眼の小さな瞳が、あまりにキラキラと輝いて見えたから。若月くんにとってこの世界は煌びやかなものなんだろうなって思った。

 きらきらとひかる世界を眺めているときに、取り繕ってばかりのつまらない世界を過ごしてる私なんかが邪魔しちゃいけない。そんな風に思って話しかける勇気がでなかった。

 でもいつの日だったか、一瞬だけ若月くんと目が合った。

 そのときの瞳も外を眺めているときと同じように輝いてて、私が心配していたことは杞憂だったのかなって思った。たぶん若月くんの瞳に映る世界は何を見ても、誰を見ても、どれも煌びやかなんだ。

 私は勇気を振り絞って話しかけることにした。

 思い返してみれば、自分から積極的に話しかけるのは高校に入ってから初めてだった。胸がどきどきして手には汗が滲んですごく緊張した。

 それでも若月くんとは、私から話しかけないと関わりを持てないだろうなってことはわかっていた。

 緊張で震えた不細工な声にはならないように気をつけて、「絵を描いてるよね」と尋ねる。

 若月くんは教室の窓から外を見ていた顔をこちらに向けて、小さく頷いた。

 私は若月くんの絵に対する素直な感想を伝えた。


「え、好っ、えっ、ええ?」


 若月くんは戸惑ったのか、小さな宝石みたいな黒い瞳が泳いでいた。その若月くんの表情は、見てるこっちの頬が緩むくらい驚きに満ちていた。

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