第四章

 カスラーン襲撃から一夜。凶報は重なる。クライノート港が、ラスヴェート海軍に奪取されたのだ。

「上陸作戦の段階に入ったか……」

 アルスノは息を吐き、顔を上げて命令を下す。

「ダンフォルトとカスラーンに置いた兵を至急マクリルに向かわせろ。アロードだな、あれで守りを固めるのだ」

「御意! 伝令兵!」

 ラスヴェート軍はリアンノンを抜け、モリガンをも制圧し、エルンワスまで迫った。

 もう、後がない。このままでは、王都まで、到達されてしまう。

「殿下っ! ダムノニア元帥からの伝令でございます。バーニシア大将の大隊がケント中将の大隊と合流したとの事でございます!」

「……補給地を襲撃できるだけの兵が集まったか。よし、ラスヴェートの中央補給地襲撃を開始せよ。バーニシアとケントにそう伝えろ。後は……他に待機している隊は有るか」

「ポーウィス中将の騎兵中隊が向かったとの事です!」

「分かった。それで良い。伝令兵、ダンフォルトとカスラーンの兵は、やはりゲラハに向かわせよ。……私も、ゲラハに向かう」

「御意!」



 逢魔が時。紅霞こうかに染まるラスヴェート軍の陣営。

 禍々しい程、また異様な程にそらが赤く、それはとても美しい眺めだった。


「帰還、いたしました……閣下」

 凍てついた静寂。切迫感に支配された長い長い沈黙の後、ラデガストはようやく口を開いた。

「それで……結局、王子如きに尻尾を巻いて逃げたと言うのだな?」

 将官の目に、ラデガストは薄く笑っているように見えた。声も、穏やかに聞こえていた。だが、そのひとみには少しも――笑みが、無い。

「それほどまでにあの幼き王子が、恐ろしかったか。……そうか」

「は、はあ……」

 胃から何かが湧き上がりそうなほどに、不気味な感覚。まるで捻りこまれているような。そんな、感覚が。戸惑い、目を逸らしていると、無理矢理ラデガストの方へ視線を向けられた。勝手に、身体が、動いたのだ。操られているような、そんな感覚さえ……。


「――よくも余の前に姿を現せたものだ」


 背が凍る。肝が冷えるなどという程度のものではなかった。そんな程度で済ませることが出来ないほど、身体が吊り、息が苦しくなるほどに、魂を奪われそうなほどに、

「か……閣下……?」

 その声はおぞましく。その顔には、赤光しゃっこうが差し込んでいた。

「予は言ったはずだ。王子を引っ捕えろと。何も難しい事は命じてはおらんのに」

 ラデガストは穏やかに笑みを浮かべているだった。

 だが、将官は立っていられず、その場に崩れ落ちた。全身を痙攣させながら這うように後退る。最早は人ではない、まるで恐怖に取り憑かれている、操られた獣だった。ラデガストはそれを見下ろし、ゆっくりと歩み寄った。その靴音は、低く、重く、心臓の音と重なった。


「――極刑に処す」


 虫螻むしけらを見るような侮蔑の眼。暗澹あんたんと染まる赤。凍てついたその赤い瞳孔ひとみ。その眼は一切の光を映さず、見る者を深淵へと引き摺り込む。その眼を向けられた者は、二度と、ラデガストの前に姿を現すことは許されない。永遠に、抹消される。

「去れ」

 彼は引き摺られるように連れて行かれた。人ならざる声で、悪霊に取り憑かれたような、叫びと共に。


「か、閣下……申し、上げます」

 怯えたように伝令兵がラデガストを見上げた。

「何だ」

「……我が軍の補給地点が、撃破されました」

「そうか……ははっ、そうか……」

 声が変わった。いつもの、嘲笑が滲んだような声色に戻っていた。

「も、申し訳ございません。な、何たる不覚、死を持って償わせていただきます……」

「待て、その必要は無い」

「……?」

 伝令兵は呆然とした。前の将官のように、詰責されて死を命じられると思ったからだ。

「放っておけ」

 ラデガストは溜息混じりに言った。

「え……さ、左様で、ございますか」


 その途端、ラデガストは哄笑こうしょうした。その笑い声は、せきを切ったように、不気味に周囲の耳に高く響かせた。

「かかったな。はははっ、王子は……大馬鹿者だ。自滅しようとしているらしい。ふふ、ははっ、はははははははははっ! 奮戦していると一時は思っていたんだがなあ……やはり所詮は青二才。奴も、この程度、ということだ……」

 延長戦がまだ続くか、と興が冷めそうになっていたが、やはり奴は予を愉しませてくれるらしい。冷笑の滲んだその赤い眼が黒く映る。


「再起出来ぬほどに木っ端微塵にしてやれ」



「ニフリート川に橋を掛けろ。歩兵はそこから上陸させる」

 川幅が最も狭い地点に橋を掛け、渡らせる。ゲラハ城を陥落させれば、道が開ける。ラデガストはあの古城を王都制圧の拠点にすることを目論んでいた。

「しかし狭いな、ここは。予定通りに行くのか?」

「よせ、閣下の御命令だぞ」

「……そうだな」

 後方から急かす声が響く。が、あまり進まない。簡易的な橋だ。耐久性も疑わしい。

「閣下は、ゲラハ城を御所望だ。絶対に盗れってさ」

「あんなオンボロ城を?」

「侮ってると足をすくわれるぜ。ゲラハは、何でも、防御の城なんだと。歴史上、どの国の軍も突破できなかった、ってさ」

「防御、ねえ……」

「何処からそんな馬鹿な話を聞いたんだよ。何百年前の事だろ? それに、俺達を誰だと思ってる。不敗のラスヴェート軍だぞ? 向かう所に敵無し、だ」

「まあ、コシュタバワの方で上手くやってくれりゃあ、俺らもお役御免って訳だ。そっちに期待しとこうぜ」

「そうだな」

「とか何とか言ってたら、敵兵が来たじゃないか」

 歩兵達の陣形が整い、後方から攻撃命令が下る。兵達は喊声を上げ、突進。負けじとグレンセラ兵も攻撃を仕掛ける。が、波のように押し合い、束の間に凪になり、濁流のようにラスヴェート軍は前進していった。

「にしても弱いな。グレンセラは諦めたのか?」

「まあ、これだけの戦力差だ。無理もないだろう。あの王子も、尻尾を降って逃げたかもな」



 ラスヴェート帝国のリエフ河畔を望めるゲラハ城。

 ゲラハはグレンセラの旧王都である都市で、その名は古い言葉で月を意味する。この城は七百年程前に造られた古城だが、崖に囲まれ、厚い城壁に囲われた堅牢な城である。くぼんだ造りのカーテンウォール。頑丈な側防窖室カポニエールがこの城の強みだ。軍事目的で造られたために、グレンセラ城よりも防御力が高い。それどころか、グレンセラで一番の守備力があるといって過言ではないほどの城だ。


 その城中でアルスノは訃報を受け取った。

「海軍が壊滅……?」

「はい……既に、戦闘不能の状態、だと」

「ノーサンブリア中将は」

 伝令兵は言葉にならず、無言で首を振った。


 アルスノは数分間、何も言えず立ち尽くしていた。


 来る日も来る日も届く戦死者の一覧。これで全部ではない。おそらく実際はこの倍以上の者達が命を落としている。己の判断は、誤っていたのか。

 否、それを思考してはいけない。これまで犠牲となった兵達の死を、無に帰するようなことを、考えるな。その資格は、私には、無いのだから。死に絶える兵達の、絶望に包まれたその表情、その身体、そして。その断末魔が、脳裏に刻まれている。


 アルスノは固く目を閉じた。


 ――今、私は何のために戦っている。グレンセラという国の為か。民の為か。それとも、自分自身の為なのか?


 守るどころか、皆が傷ついている。傷は深く、深く。命さえも失われて。守るものがあるから強い、など、そんなのは嘘だ。守らなければならない存在が増えていくほど、自分の弱さに気づいていく。この弱さの所為で、何もかも守れずに失ってしまうのではないかと、そう、思う。皆がいなければ、何も成せない。こんな弱い心体だ。必死に己を鼓舞し続けなければ、私は、動けない。


 恐れるな。敵が、どれほど強大であろうとも。行き着く先に、望みが無いとしても。

 それでも、皆の未来を、守り抜くため。前へ前へと、進むほかないのだ。



「殿下」

「……スペンサー、帰ってきていたのか」

「ええ。一足先に帰って参りました。ケント中将が殿下の元に赴くように、と」

「そうか。……ケントや、バーニシアは?」

「此方に合流するため、向かっている道中でしょう」

 無言でスペンサーはアルスノの顔を伺う。

「……やはり、お出になるのですか」

 まだ、アルスノの傷は完治していない。それどころか、見るからに体調が悪化してきている。とても、まともに戦場に立てる状態には見えない。

「分かっている。……分かっている。私の身が、私だけのものではないことは。こんなのはエゴで、自己満足だ。だが、それでも私は戦う。私はもう振り向かない。私は前進する」

 スペンサーは総てを受け止め、頷いた。

「……分かりました。私も共に」

 アルスノはマントを纏い、立ち上がる。



 と、その時。伝令兵が駆け込んで来た。

「殿下っ! たった今、伝令が届きました」

 アルスノはその伝令を、驚きと共に受け取った。


 目を瞑り、そして、再び開く。いざ、決戦の時。



「我に続け――っ!」

 咆哮ほうこうのようなアルスノの叫びが戦場を響もした。その声に呼応してグレンセラ軍は前進していく。


 馬を進め、燧発式フリントロックの銃を構える。アルスノの、驚異的な正確さが光る瞬間。二度目の発砲の後、剣を引き抜き、鋭い光が閃いた。アルスノが運んできた熱風に、ラスヴェート軍が揺れたのを、誰もが感じていた。アルスノの的となるのは、凄まじい火力を繰り出すラスヴェートの旋回せんかい攻撃。恐ろしいほどに整然とした動き。訓練が積み重ねられた結果が顕著けんちょに現れている。

 だが、一瞬の乱れをアルスノは見逃さなかった。視線のみを後ろに回し、アルスノは力一杯に声を張り上げた。

「今だ! 突撃せよ――っ!」

 森影に隠れていた予備軍。スペンサーに指揮を委ね、胸甲きょうこう騎兵を集めていたのだ。ラスヴェートの銃騎兵に向かって襲いかかる。斜めに切り込む予備軍。急ぎ隊列を組み直すが、乱れていくラスヴェート軍。そうは言っても簡単には退かないのが、ラスヴェートだ。動揺の中でも強さを発揮する卓越した技術。ラスヴェートの優位は変わらない。


 だが、その時。ラスヴェート兵の聴覚に何かが入り込んだ。

 それは、背後から、勢い付く馬蹄ばていの音。


 数人の兵が、後ろを振り向く。その顔が、徐々にあおざめていく。

「こんな軍勢、一体、何処から……」

 前方からの予備軍よりも遥かに増大な、軍勢。


 新たな風を吹かせ、此方に向かって疾走する彼ら。一体何者であるのか、ラスヴェート軍は知り得なかった。銃の援護を失った歩兵も惑い、散り散りになってゆく。走行不能になった馬を乗り捨て、命からがら逃げ出す兵達。


「撃ち抜け――っ!」

 アルスノは声を枯らして叫びを上げ続けた。

 


 数十分前。


 戦場に出ようとしたアルスノの前に、伝令兵が慌てて駆け込んで来た。

「殿下っ! たった今、伝令が届きました」

「……伝令? 何処からだ?」

 息を詰まらせながら、伝令兵は必死に伝える。

「――リウガルトです!」

 震える手で、アルスノは紙片しへんを受け取る。

「リウガルト……?」

 そこには、こう記されていた。


『アルスノ王子殿。私の名はルートヴィヒ・オベルク。


リウガルトの市民軍において、総大将を務めている者であります。書状にてご挨拶を申し上げること、ひらにご容赦を。七の月ユーリの革命における貴方様の御助力、また、メルリンの民への寛大なご配慮を賜りましたこと、如何にして感謝をお伝え申し上げれば良いことでしょうか。貴方様の御恩に報いなければ、我が国、我が軍の誉れは崩れ去ることでしょう。


此の上は渾然こんぜん一体となり、共に戦わせていただきます。』



 読み終わると同時に、ひづめの音が、微かに響いたような気がした。

「そういう、ことか、」

 唐突に思えるこの書状。情報が漏れるのを防ぐ為に敢えて遅らせたのだろう。ラスヴェートの不意を突く作戦か! 恐らく、最初から我が軍に合流するのではなく、迂回して、板挟みに……。


 未だ、ラスヴェートは気付いていない。

 勝機を、掴めるかもしれない。


 高鳴る鼓動、熱くなる心。アルスノは拳を強く握りしめた。リウガルト軍が到着するまで、まだ時間を要する。それまで、我が軍を持ち堪えさせなければならない。


 己の信念が、少しばかり、報われたような心地がした。


 ――前を向け。声を上げろ。今こそ、戦いを終わらせる時だ。



 アルスノは振り返って命を下す。

「スペンサー! 予備軍だ。第三部隊と合流し、北東方向から予備軍を編成せよ。号令するまで森で控えるのだ!」

「仰せのままに!」

「グウィネズは、グウィネズはいるか!」

「ここにおります、殿下!」

「卿は此処に留まれ。残る兵と共に籠城ろうじょうせよ。ラスヴェートは南西の城門目掛けて襲ってくるだろう。私が戻るまで、この城を死守しろ。グウィネズ、頼んだぞ」

「御意! 殿下、どうかご無事でお戻りください!」

「ああ!」


 アルスノは馬に飛び乗り、坂を下る。行き着く先は、コシュタバワ。急斜面に続く険しい崖だ。

 上から戦場を臨み、息を呑む。疲弊している兵達。重傷を負い、悶える兵達。今際いまわの、兵達。やはり、数は劣っている。大国と戦うということは、こういうことなのだ。己の弱さを実感せざるを得ない。だが。


 数秒、目を瞑り、再び開く。


 剣を高く掲げ、崖上に踏み込み、アルスノは声を上げた。

「――我が兵達よ!」

 光のように差し込むその声。


「まだ、戦いは決していない。諦めず、前進し続けよ!」

 兵達が一心にアルスノに視線を注いだ。その威光は、ラスヴェート兵をも立ち尽くさせるほどであった。

「グレンセラを侵す者から国民くにたみを護れ! 立ち向かうのだ!」

 我らの光。我らの王子が、我らを呼び求めている。グレンセラ兵達の心に希望が灯った。

「そして……生きて、生きて、生きて! 生き延びよ!」

 アルスノは崖を駆け降りる。風圧は凄まじいものだった。銃弾の飛び交う中に踊り出す。アルスノに圧倒される兵達。


「我に続け――っ!」

 敵陣に斬り込むアルスノのその姿、その声に呼応して、喚声を上げるグレンセラ軍。



 ――進め気高き兵士らよ、


 祖国を守護する戦士らよ、


 敵に向かいて進み出よ、


 祖国の誉れを抱きていざ進め、


 死線に在りて終日ひねもす戦わん、


 青き高貴なる者の導かるるまま――



 再び活気が戻る。踊り舞うように、一人、二人、三人五人十人数十人と、魂を削っていく。アルスノは馬を降り、左方向に放す。

「カヴァス、先に行って待っていろ!」

 馬に号令した直後、アルスノは地を蹴り、まるで宙を舞うように飛び上がり、剣を振り下ろす。アルスノの影は、蒼穹の下、空中を飛んでいた。ラスヴェートの隊列の奥へ、奥へと。間を縫うように、前へ、前へと。衝突も厭わず、騎兵を馬から振り落とし、前進していく。確実に、火種を蒔きながら。

 激しい接近戦の中、アルスノの姿は鮮烈で、敵の眼から見ても燦然さんぜんと輝いていた。


 ラスヴェートは動揺した。燃え上がる予兆が、段々と火花を散らしていく。

「ラデガスト閣下に委ねていれば何もかも、上手くいく。今度も、勝利を手にするのは我等だ!」

「……そうだ、そうだ!」

 呆気にとられていたラスヴェート兵は懸命に気を取り戻し、再び武器を掲げる。

「隊列組め、迎撃用意!」

 命令が下る。一列目の兵は膝を着き、二列目三列目と、マスケット銃兵が控えている。

「放て――っ!」

 銃弾の雨の中、アルスノ率いるグレンセラ軍、そして合流したリウガルト軍はラスヴェートの軍勢に迫った。



 その様子を眺めるラデガスト。

「――東へ行く」

「……はい?」

「ゲラハへ向かう。たった今、予はそう決めたのだ」

 それは、全軍の大半を引き連れていくことを意味していた。つまり、残りの兵は――。

「これは敗走ではない。勘違いをするなよ」

「……お見捨てに、なられるのですか」

「見捨てる? 言葉が悪いな」

 虫螻を見るかのような蔑みの眼に、側近は狼狽うろたえた。

「仰せの、ままに、非礼をお許しください」

「分かったのなら良いのだ」

 表情かおが歪んで見えて、酷く、恐ろしく思えた。

「精々俺の為に死ね。そう伝えろ」

「……御意」



「申し上げます! 閣下っ!」

 叫ぶ兵の声がラスヴェートの陣営に響き渡る。

「閣下! 何処におられますか! ……閣下。閣下? 何処に……。何故、いらっしゃらない、のだ?」

 戸惑いつつも捜し回るが、居ない。ふと座り込んでいる同期の姿を見つけ、問いかけた。

「おい、閣下を知らないか? 閣下は……」

 何も言わない。

「おい、聞いて――」

「俺たちはぁ……捨てられたッ! 見捨てられたんだ……」

 悵然ちょうぜんとして項垂れる仲間を前に、立ち尽くす兵。

「何を、言ってる」

「……さっき、さっき、参謀長閣下に、イジーが食ってかかってたんだ。何で兵がどんどんいなくなってるんだって。此処は主戦場だってのに。……隣で俺が、戸惑ってたら、イジーが。イジーが、撃たれて……一瞬だったさ、ほんの一瞬で、ばたんとた、倒れて。血が吹き出してて……」

 イジーというのは彼ら若い兵士の中のリーダー格の存在だった。中でも、ラデガストを熱狂的に信奉していた一人であった。


「誰が、撃ったんだ」

 震える声を、必死に抑えて訊ねる。


「閣下だ。――ラデガスト総司令官閣下だ。突然倒れて驚いて、俺が後ろを振り返ったら閣下が、銃持って立って……滅多に姿を現すような人じゃあ、ないのに」

「何、言ってんだ。そんなの、嘘だ。そんな事、誇り高きラデガスト総司令官がする訳ないだろうが!」

「嘘じゃない! この目で見たんだ……見たんだよッ! 俺達を、見捨てたんだ……俺は、怖くて、見てるしか出来なかった。戦場を、俺達を捨ててくのを」

「捨てる、なんて、」

「捨てたんだよ皆! 閣下も将校もみんなみんな! きっと、俺達は、仲間として、同志として、認められてなかったんだ……だからこんな易々と見捨てられるんだ、なあ、そういうことだろ? そうとしか、考えられねぇんだよ」

「……何、で」

 泣き喚く仲間を前に、呆然と立ち尽くす。


「ああ、こうしてる場合じゃ、ない……指揮を、他の方に……ああそうだ、ヤロヴィト大佐に、」

「何、言ってんだよ」

 隣の兵が茫然と言った。

「――大佐も閣下がこの間殺してたじゃねぇか!」


 その時、此方に何かを伝えようと駆けてきた仲間の兵の姿が見えた。

「大変だ、こっちに大軍が迫っ」

 目の前で脳天を撃ち抜かれた。

「迎撃準備!」

 気を取り直そうとして、仲間に呼び掛ける。



 だが。平野を見渡し、兵は唖然とした。


 ――あれ、なんでこんな、少ないんだ。想像以上だ。想像以上に兵がいなかった。グレンセラ相手だとしても、あまりにも居ない。居るとしても、それは死体。屍だけ。本当に、本当に、俺達は、捨てられた?


 その瞬間、方向を変え、西へと進んでいくラスヴェートの軍勢が目に入った。そんな命令は、何も。何も下されていない。命令が無ければ、動けない。命令は絶対だ。動けない。どうすれば、俺達は。俺は、動けない――。


 そうして皆、自分達が捨て駒であることを悟ってしまった。


 これじゃあ、勝てない。勝てない、なんで、こんなはずじゃ、グレンセラ、グレンセラで、しかも、あの王子相手に、なんで、なん、で、なんで、こんな、ことに、

「見捨て、られるなんて、」

 その時、兵の目に入ったのは、アルスノの鮮烈な姿。


 戦いとは団体戦だ。数が多い方が勝つ。例えただ一人が強くあろうとも、他が弱ければ勝つことは不可能。数において劣れば負ける。ラスヴェート軍の誰もがそう思っていた。それが常識であった。ラスヴェートは強大だ。だからラスヴェートは負けを知らない。不敗を誇りにこれまで戦いを繰り広げてきた。

 だが。その一人の影響力が、人智を超えたものだとしたら――多勢に無勢の状況に置かれていようとも関係無い。その者の存在が故に、勝利を得る。それが、今この時、実現しようとしていた。


 失望は一瞬にして全体に広がった。



 司令官を失った兵達の行く果て。絶望に満たされて、完全に戦意を失った彼ら。退路を絶たれ、急坂を下っていく。逃げ場のない彼らは、そのままニフリート川に飛び込んだ。一縷の望みをかけて。


 まるで、悪魔にいざなわれるかのように。


 彼らは陸での訓練しか知らなかった。天気さえも彼らの味方をせず、嵐が吹き荒れ、増水していた。急流の中、波が分厚い幕のように兵士を巻き込んでいく。よどんだ水が迫るように軍服に深く潜り。水底に沈み、二度と還らず。海岸に着いたのは、飛び込んだ兵の内、僅か一割程だった。彼らの渡河とかは、絶望のうちに終わりを告げた。



「大丈夫か……皆」

 彼の名はジェド。ラスヴェート陸軍の大尉である。彼は川に身を投げる兵士を止めることが出来ず、自らも行動を同じくした。

 ――飛び込んだ者はもっと居たはずだ。全て、川底に沈んでしまったというのか……。

 弱った兵士の介抱をしながら、悔恨かいこんと共に歯を軋ませる。

「……どうすれば」


 その時、紺の軍服を着た人影が見えた。

 ざっと見て、二十数人程。解っている。彼らが、味方である訳がない。紺はグレンセラ王国軍の色。敵兵だ。そんな、ああ……そんな、生き残ったにも関わらず、敵の手に落ちるのか。


 後ろに視線を送りながら、押し殺した声で皆に訴えかける。

「グレンセラ兵が……接近している。皆、手を挙げて、膝を着くんだ」

 足音が近づく。心臓の鼓動が高く鳴る。

「手を下ろしてください。攻撃の意思はありません」

 言葉をかけられた瞬間、身体がびくっと震えた。

「……ラスヴェート陸軍中尉イヴェール・ジェドであります。どうか、ご慈悲を……」



 気絶するように眠ってしまったようだ。


 陽の光が窓辺から差し込んでいる。もう、昼頃らしい。

 あれから一夜明け、川岸に多くの兵の死体が打ち寄せられたことを知った。それでも全てではない。行方が分からない者もいる。助けられなかった。助けられたはずだった。我等はどうかしていた。動転しきっていた。だが、仕方がなかったのだ。溺れて、死にゆく苦しみよりも、見捨てられ、敗北を喫したことへの絶望が大きかったのだ。きっと、そうだったのだ。


 病院の一室、ジェドはぼんやりと過去を反芻していた。

 アスラン・ラデガスト。我々は、彼に心酔していたのだと、やっと気付かされた。


 彼に全てを預ければ、敗けることはない。少しの理不尽に耐えれば、何時も勝利を得られるのだ。恐怖は微々たるものだった。確約された勝利。命令されれば、必ず敵兵を殺す。弱者を甚振っていると言われても、歯牙にもかけなかった。彼は常勝の男だった。そして、我々にとって彼は魅力的だったのだ。自分では叶えられない、成すことができない願望を、理想を、叶える――アスラン・ラデガストという軍人は、我等の代弁者であり、代行者であった。


 敗北し、見捨てられ、やっと分かったのだ。勝利に慣れ、栄光に慣れ、昂り、何も見えていなかった。何と、利己的だったのだろう。『ラスヴェートは如何なる戦いにも勝つ』。勝利を当然の権利と思い込み、誇っていたのだ。


 敗北すべき側は無い。だが。負けるべきだったのは、他でもない私なのだと思い知った。敗北を知らなければ、更なる惨劇を招いていたのかもしれない。いや、既に惨劇は起きているのだ。悔やんでも、悔やみきれない。取り返しのつかない、悲劇が。


 どうしてこの私が生き残ってしまったのか。敗北を思い知らされた時、王子やグレンセラに対する無意識的な侮蔑があった。確かに、心の中に在ったのだ。己を恥じる。恥じても、足りない程だ。自身の国を虐げた、敵である我々への復讐に身を投じないグレンセラ。私は驚きを隠せない。どうしてそんな目で見るのか。対等の者として、敵意を微塵みじんも見せず。捕虜にしては、丁重すぎる扱いだ。



 思わず、私は投げかけた。

「……なぜ、助けたのですか。あなた方にとって、我等は憎き敵。あなた方の仲間の、仇です。どうして、なのですか」

 問いかけたのは、病棟を周っていたグレンセラ海軍に属する軍人。彼は我々の観察を任されているようだった。


 彼は、迷うような表情を見せ、少しの間考え込んでいた。

「……私が、回答する者として相応しいのか、分かりかねますが」


 彼はゆっくりと口を開いた。

「私個人としては、ラスヴェートを……あなた方を憎んでいます。私の祖父も、父も、多くの友人も、尊敬する上官も、ラスヴェート軍との戦いで命を落としました。私も、この戦いで生死を彷徨さまよいました。……ですが、あなた達も、私達と同じだと思ったのです。そう、思いたかった。どれほどの絶望があるのか、悲しみが、あるのか。あなた達はそれを、身を持って体験したでしょう。あなた達に必要なのはグレンセラからの復讐ではない。……今は、そうとしか、」

 真摯なその言葉、その瞳。



 ――そうか、同じ、か。


 そう、か。



「リンジー大尉」

 彼が敬礼する先に居たのは――ケントだった。

「中将、閣下。……今の、お聞きになっていらしたのですか」

「ああ。盗み聞きとは、礼を欠いたな、すまない」

「何を仰いますか。……私こそ、感情に押されて無要な事を口にしてしまったかもしれません。お許しください」

「謝る必要はない。……卿は、本当によくやった」

 リンジーは目を見開き、そして、微かに俯き涙を堪えた。


「私は、私は、生き残ってしまいました……ノーサンブリア閣下を、お守りすることも、出来ずに……私は、不忠の臣です。私は……私は……っ、病棟にいるラスヴェート兵を見て……彼等を殺してしまいたいと、いっそ亡き者にしてしまいたいと、そう思って……殺意が、湧いてきて……今となってはもう、それさえも意味を成さないというのに……」

 ケントは震える肩に手を置いた。

「……気持ちは、その気持ちは、痛いほど分かる。本当に。……だが、まずは自分の心を休ませた方が良い。自分を責めるな。卿の所為ではない。卿の所為では、ないのだから」

「はい……はい、閣下……」

 リンジーの嗚咽に、ケントはやるせない思いを抱いた。



 塵も積もれば――。あの後、グレンセラ軍は捨てられた部隊から的を外し、リウガルト軍、そして他のラスヴェートの属国の軍も合流し、共にラスヴェートの軍勢の背後に迫り、大打撃を食らわせた。ラスヴェートの暴政に不満を抱いていた諸国。アルスノの存在に、そして今回のリウガルトの動きに呼応したのだ。皆が皆、グレンセラに対する協力、という訳ではなかったが、この事が勝敗を左右したと言って、過言ではなかったのだった。

 不意の攻撃に隊列の乱れ、背後を取られ続け、反撃もままならず、そして、多くの指揮官級の将校が狙い撃ちにされ、重傷を負い、命を落とした事が戦意を喪失させた所以だった。史上最悪の、ラスヴェート軍における失態であった。


 但し、総司令官のラデガストは捕え損なった。




 幾日か前の、ゲラハ城付近。


 耳を聾するほど、砲声が辺りに満ちていた。その時、ラデガストを目掛け、砲弾が放たれた。太陽が堕ちてきたかのような光と熱風を受け、被弾したのは。


 ラデガストではなく、その側近。途端、炎の塊と化して崩れていく。

「……か……」

 寸前に、背中あたりに感触があった。この人は、迷いもなく私を盾に――。

「あ、ああ……あ」

 彼は微かに呻きを上げた。声は枯れ果てている。


 こんなことなら。こんなことなら、自分から、

 ああ、その機会さえも奪うのですね、貴方は。私は、貴方の何だったのでしょうか。


 ――そう、貴方は、


「待っ……う、うう、あ……」

 手を伸ばした彼が、絶命する最期の瞬間に見たものは。自分を助けることなく、手を差し伸べることもなく、気にも留めず、逃れていくラデガストの後ろ姿だった。



「……悪、魔」



 ゲラハ城の頂点で、アルスノは剣を振り上げた。

「戦いは終わった。今こそ、勝鬨の声を上げよ」

 痛み分けでもなく、寧ろグレンセラの痛みの方が大きかった。戦死者も損害もグレンセラの方が遥かに多い。


 それでも、勝利を得たことは、紛れもない事実であった。




 ――見よ。今、獅子に破滅が臨んだ。


◇◇


 ラスヴェート海軍司令部。

「閣下! 緊急の伝令が!」

「どうした?」

「陸軍が……ゲラハにて、グレンセラ軍に敗北したと!」

「何……だと?」

 スヴェントは驚いて洋筆ペンを落とした。


「そん……そんな、ことが、あるのか……?」

「数では我が軍が優勢でありましたが、コシュタバワ付近で、ラデガスト閣下は突如進路を変更され……しかしながらその途中に追撃され、大損害を被ったと。負傷者、死者多数とのことであります」

「愚か者が! あれだけ大口を叩きおって、このザマか! 小国だと侮っていたではないか!」

 スヴェントは深い溜息を吐く。

 ラデガストのやり方は良くも悪くも豪快で、私から見れば力技としか言えないような戦法ばかりだ。いつの日かこうなるのではないかと、危惧はしていたのだが……。

「それにしても妙だな、陸軍が敗北を喫するとは。……はあ、グレンセラに一体何が起きたのだ」

「……リウガルトの、市民軍が参戦したとの事です」

「リウガルト! はあ、考えたな。……敵の敵は味方、という訳、か」


 クライノートの件からも察してはいたが、あれほどいがみ合っていたグレンセラとリウガルトの結び付きがこうも強まるとは。……革命の影響か?

「閣下……。リウガルトだけではなく、他の……我が属国も加勢したようであります」

「何だと? こうしてはいられない。停戦だ。今すぐに書状を書き送るのだ」

「御意!」



 スヴェントの命で、逃亡していたラデガストは捕らえられ、即刻、陸軍の中央司令部にある自室にて謹慎処分となった。

「ラデガスト!」

 部屋に入るなり、スヴェントは怒鳴った。

「何ということをしでかしたのだ! 帝国の栄誉を傷つける真似をしおって! 我々総司令官の務めは、軍人兵士を守り導く事ではなかったのか!」


 すると、ラデガストの眼がゆっくりとスヴェントを捉える。

「ふっ、『我々』? お前と一緒にするな。俺は実力で、権力ちからを手に入れたのだ。俺はお前とは違う!」

 本性を露呈するその粗暴な話しぶり。アスランは乾いた冷笑を浮かべた。

「何……だと?」

 スヴェントの身体の底から、激情が湧き出した。

「それならば何故! 力を得たか! 貴様のような人間が!」

「お前から何もかも奪ってやろうと思っただけだ。お前の、出来の悪い馬鹿な甥に突っかかられた日からずっとな。名前は何だったか……。ああ、ユーリイ、とか言ったか。懐かしい。士官学校以来会っていないな。彼奴は元気にしてるか? ふっ、答えられないだろうな。俺がたくさん可愛がってやったんだから」


 ラデガストは父親と折り合いが悪く、独断で士官学校に入学した。

 だが、そこは貴族だらけの地位社会。同級生は皆良いとこのお坊ちゃま。貴族ばかりが贔屓ひいきされる学校は、到底ラデガストの性に合った環境ではなかった。『力』こそが正義。そうラデガストの心に深く刻まれ、地位と権力を得ることに固執するきっかけとなったのだった。


 ラデガストは数々の秀才を蹴り落とし、首席で卒業。一方、スヴェントの甥は士官学校を中退し、自領に戻って今もなお静養を続けている。完全に精神を病んでしまったのだと、スヴェントは伝え聞いていた。それが、それが。ラデガストの仕業だったとは。

「こ……この、このれ者がっ!」

「はっ、華麗なる一族の癖に、お坊ちゃんに教育してないのが悪いんだろうが。分をわきまえないからこうなるんだ。この世は弱肉強食。彼奴は弱かったが、俺には力があった。ただそれだけの事ではないか」

 強い眼光がスヴェントに注がれた。スヴェントは思わず怯む。

「お前のその、蔑むような眼が嫌いだ。自分が一番偉いとでも思ってるのか。地位にすがってるだけの能無しが!」

 怒号と共に、ラデガストはスヴェントに拳骨を食らわせた。蹌踉よろめめき顔を抑えるスヴェント。


「この世の全てを手に入れ、世界が俺に平伏する筈であったのに。誰も、俺を批判できなくなるように、歯向かわないように、そうなるはずであったのに。お前の所為だ。お前等の所為だ! それから、それから……アルスノとかいう青二才の所為だ……俺は……俺は、此処で終わるような器ではないのに」

 両手を見つめ、ラデガストは微かに震えた。


「責任転嫁も、はなはだしいぞ、ラデガスト。貴様の破滅は貴様の責任だ。貴様の愚行が、貴様の身を滅ぼしたのだ」

 無機質な瞳孔ひとみが開き、口端が微かに上がる。


「もういい……敗北も犠牲も不名誉も、お前の肩に乗せてやる」

 ラデガストはスヴェントに背を向けた。

「これが……俺の、お前への復讐だ」

「復讐? 何を馬鹿な……」

「精々楽しめばいい。持てる者は失うだけだからな」

 ラデガストの顔から全ての笑みが消え、聞いたこともないような低い声色で吐き捨てた。





「――もう二度と、その面を見せるな」



 ラスヴェート、ヴァローナ宮殿。

「かつてない事態だな、スヴェント総司令官」

 スヴェントに声を掛けたのは、ラスヴェート帝国宰相、ニコライ・デリングだった。彼らは共に上流貴族の出、旧知の仲である。

「ああ、これから貴公にも苦労をかけることになるな」

「なに、それは業務の範囲内だ。……だが、気がかりなのは陸と、それから属国だな。テュールの方も、それからヘリオットやニンフェーアも歯向かってくるとは。全く、困ったものだな。どう折り合いを付けるか……。おい、聞いておるか、スヴェント」

 スヴェントは上の空で、暫く考え込んでいた。


 ああ、今更気付いた。

 ラデガストはずっと、笑っていなかったのだ。その目の奥に在ったのは、怒りと憎悪のみで。


 だが、何があの者を不満がらせていたのか。何と欲深く、自己中心的な考え方をしていたのか。私には到底理解が出来ぬことだ。


 スヴェントは眉間に皺を寄せ、呟いた。

「ラデガストのような奴に力を与えるからこうなったのだ」

 スヴェントの言葉に、デリングは溜息を吐く。そうして、嗜めるように言った。

「……いつまで意地を張っているつもりだ、ドミトリイ」

 スヴェントは怪訝そうに眼差しを向ける。

「どういう意味だ」

「気付いていなかったかもしれないが、ラデガストに対するそなたの態度は、何処か見下しているようだった。それが、ラデガストの反発心を助長していたのだ。本当にそなたらは火と油だな。そなたが油を注ぎ続け、こうして爆発したのだ。儂も見て見ぬふりをしておった……。軍は軍。己の預かり知るところではない、とな」

 デリングは窓を見据える。


「今や誇りや栄光は、無用の長物と化した。我等はせめて、失われた数多の魂に報いなければならない。そうではないか、ドミトリイ」

 スヴェントは何も言わず、否、何も言えず、黙り込んでいた。



 グレンセラ城近くの大病院。

 此度の戦いでの傷病者が多数入院している。

「セシル卿。怪我の調子はどうだ?」

 朗らかにヒースに話しかけたのは、ケントだった。戦いの後、ケントは毎日欠かさず皆を見舞っている。

「大分、良くなりました」

「そうか、それは良かった、引き続き養生してくれ」

 ケントが去ろうとすると、ヒースは遠慮がちに引き止める。

「あ、あの」

 ケントが振り返る。

「どうしたんだ?」

「そ、その……殿下が、戦いの後からずっと気を落としておられるのです。いや、戦いの最中から、ずっとお辛そうで……僕には……なぜなのか、分からないのです」

 瞳に涙が溜まりそうな勢いで、唇を震わせる。

「そうか……。勝利したとはいえ、多くの犠牲を出してしまったからな。殿下はその事で、責任を感じておられるのだろう」

「殿下は何も悪くありません。ラスヴェートが仕掛けなければ、犠牲は生まれなかったのです。なのにどうして……殿下が背負わなければならないのですか、」

 力を込めたヒースの拳を見つめ、ケントは尋ねた。

「セシル卿。君は、なぜ我が軍がラスヴェートに勝ち得たと思う?」

「それは、ラデガスト司令官の愚行ゆえです。自軍を恐怖によって支配し、虐殺を行い、挙句の果てに保身の為、部下達を見殺しにしました」

「ふむ、そうだな……それはある意味正しく、またある意味では間違っているかもしれない」


 ケントは椅子に座り、語り始める。

「ラデガスト総司令官一人に、この戦いの責があるとは言えない、と私はそう思う。……そして恐らく、殿下も」

「どういう、ことですか。ラデガストは独裁者で、悪人で、彼の所為で、グレンセラもラスヴェートも、傷ついたのに……」

 眉を下げるヒースに、ケントは、少し難しい話をするが、と前置きをして話を続ける。

「多くの人間は英雄を、否、支配者を欲する。誰か一人に、偉大な誰かに、責任を一手に担ってもらい、無思考のままに生きたいと願っているのだ。結果として、その誰かが独裁者になったとしても、殺戮者になったとしても、それを一個人の責任と捉え、自分達の知ったことではないと切り捨て、責任逃れを自覚しようともしない。この世界では、それが幾度となく繰り返されている」

「無思考……」

「ラデガスト司令官を悪人と捉えるのは、簡単だ。彼の人格が、彼の気質が、悪と捉えられるものと化したのは、否むことのできない事実だ。……だが、彼に権力を握らせたのは、そうだな。大多数の思考放棄と言うべきか。それが、強大なラスヴェート軍の欠陥だったのだと私は思う」

 ケントは続ける。

「きっと、グレンセラは皆、自分の頭で考えた。自分が為さなければならないことは何であるのかを。アルスノ殿下もそうだ。御自分がなさるべきことを、懸命にお考えになった。だからこそ、我らグレンセラはラスヴェートに勝ち得たのだと思う。……ヒース。きっと君は、殿下のお役に立ちたいと思っている。そうだろう?」

「はい……お役に立ちたいです」

「ならば、あの方のお考えを、心の底にあるお思いを、汲み取れるように、理解できるように務めるんだ。自分の尺度のみで捉えてはいけない。考えて、考え続けなさい。それが、君の為にも、あの方の為にもなる」


 ケントはヒースの肩を叩く。

「……はい」



 数週間が経った。


 グレンセラ城の応接間に、ドミトリイ・スヴェント、ニコライ・デリング両人の姿があった。

 扇形穹窿ファンヴォールトの天井に、ステンドガラスで出来た半円の窓、古典的な装飾品の数々。この空間だけ時代が遡ったような、そんな感覚さえ湧き上がる。

 到着から数分、王子の姿が見えた。歳は十代半ばだと聞いている。漆黒とまでは行かない、黒髪。喩えるならば、夜空の色だろうか。そして、開かれたのは青い、揺るぎない瞳。


 ――なるほど、我々が負けたのは、彼だったのか。


 と、スヴェントは思った。

 妙な納得感があった。普通、敗北すれば悔しい、という感情があるはずだ。不思議とそれがなく、腑に落ちていた。


 ニコライに続いて、王子に敬礼する。

「ラスヴェート帝国軍総司令官、ドミトリイ・スヴェントであります」

「アルスノだ。よく参られた」


 椅子に座り、ひと息つき、彼は口を開いた。

「一つ、訊いておきたい。ラスヴェート軍は、何故、我が国に攻め入ったのだ」

 その問いに、驚いた。何故か。それは、ラスヴェート側に十分な口実があったからだ。

「……御言葉ですが、最初に動きがあったのは、其方では? 此方としては突然のがあったために、開戦へと事を運んだのです」

「布告……?」

 彼の顔色が変わった。というより、青ざめたような、そんな表情。


「そんなものは、我が軍は送っていない……」

「……えっ?」


◇◇


 俺の人生が変わったのは、ある男との出会いだった。


 その男の名は、バルバロッサといった。

 長髪で顔貌が見えない、隠者のような装い。どっかの教祖でもやってるのかと俺が言うと、奴は笑った。年齢不詳で、結局、終始分からなかった。まるで、不老不死のような、そんな振る舞いをしていた。


 奴との出会いは、士官学校。誰もいない、昼下がりの陽が差し込む廊下。唐突に、すれ違いざまに耳元に近づき、

『――悔しくないのかい』

 と、優しく囁いた。

 悔しいとは何だ、と俺が問うと、にんまりと奴は笑い、持論を説き始めた。

『生まれついての地位に溺れるのは滑稽とは思わんかね? 君なら解る……痛いほどに、実感しているだろう? ラデガスト君』

 激しく心が揺れた。覚えが、余りあるほどに在ったからだ。

『力……権力は相応しき者の手に在るべきだ。弱者風情が虚構の地位名誉に縋り着いている……この世は異常だ。そうは思わないかね?』


 途端、心臓を打ちつける鼓動。それは恐怖ではなく――高揚感。


『私に協力してくれるのなら、全て、此方で上手くやっておくぞ』

 声色は朗らかだった。が、その顔は、その眼は、まさに悪魔だった。人を誘惑し、欲望を刺激する悪魔。悪魔と契約した者は、破滅を逃れられない。虚栄心に塗れた若さ故に、甘美で魅惑的な悪魔の囁きにアスラン・ラデガストはまんまと釣られてしまったのだ。



 ――だが、俺は少しも悔いていない。


 ある者は、俺を、欲深い人間だと言った。ある者は俺に、自己中心だと言った。

 またある者は俺を――『異端』だと言った。


 一体何が悪いというのだ?


 欲望とは生だ。欲望なくして生を全うすることは不可能だ。俺には、それが人並み以上に豊かであっただけだ。寧ろ、稀有な存在ではないか。

 自分を中心に置いて何が悪い? 俺は中心に立つべき人間であり、現に多くの者が俺を認め、支配されることを願ったではないか。

 異端で結構だ。愚者が俺を理解出来ないのは至極真っ当だ。


『今この時から、権力は――君の手に』


 権力を手にした時の、快感が忘れられない。人生で初めて自分に似合しい何かを手に入れられた。込み上げる充足感。やっと、渇きが満たされ、望みが叶ったのだ。あれを手放すなど、俺には考えられないことだ。権力は俺にのみ相応しい。俺は力を死守すべき義務がある。


 その為なら、どんな人間も踏み潰す。


 俺は間違っていない。潰される方が悪い。力無き者は害悪だ。それが――この世の理だ。





「がっ……」

 アスランは突然首を押さえつけられて呻いた。次の瞬間、突き飛ばされ、背中が机と衝突した。もたれ掛かりつつ、見上げると、若い男が自分を見下ろしていた。

「ラスヴェートの総司令官がこの程度とは。これだから努力を止めた高慢な人間は」

 男が誰なのかを悟ると、呆れたように哂った。

「はあ……わざわざ足を運んだのか。直々に。律儀なお坊ちゃんだな」

 アスランの嘲笑に、その若者は鋭く睨む。

「……フェルヒュートとか言ったか? バルバロッサが昔言っていたような気もせんでもないな」


 その男――フェルヒュートは、バルバロッサが後継として指名した若者だった。


 それを聞いて最初は馬鹿げた冗談だと思った。こんなガキに何が出来るかと、バルバロッサにもとうとう焼きが回ったかと思ったほどだ。だが、此奴は案外やり手だったようだ。バルバロッサ亡き後、組織の導き手として見事に暗躍している。俺も認めるほどだ。まあ、バルバロッサは昔から見る目はあるようだったからな。


「で、どんな気分だ? バルバロッサの後釜に収まった気分は」

「ああ?」

 アスランは嗤った。

「まったく回り諄いことをする。お前達だろう? ――我が帝国に、グレンセラをかたって宣戦布告してきたのは」

「貴様……気付いていたのか」

「何年の付き合いだと思ってる。それくらい筒抜けだ。その処理の為に、俺がどれだけ労力を使ったと思ってる」

 不敵に笑みを浮かべるアスランに嫌悪を隠せないフェルヒュート。


「で……俺を殺すのか?」

 言いながら、アスランの瞳孔が揺れた。

「お前らの目論見は失敗。それならば、再び火種を作ればいい。さしずめ、俺を殺せばいいと思ったのだろう? 大事な戦争犯罪人が勝手に死んだとなれば、グレンセラはまたラスヴェートに楯突くと……まあ、そんな筋書きか」

 アスランは口端を吊り上げ、畳み掛ける。

「ふっ、さて。そんな上手くいくものか……。それにしても、生温くなったもんだな、マルファも。一言も喋らせることなく一撃で殺す、それがバルバロッサのやり方だった。見たことないのか?」

 あの悪魔の所業を。

「お前は俺を、欲に塗れた傲慢な人間だと思っているのだろう。……ああ、結構だ。だが、その臆病さに免じて教えてやろう」

 アスランはフェルヒュートの眸を捉えた。


「お前の敬愛してやまないバルバロッサは、俺よりずっと欲深く、傲慢な男だったぞ」


 アスランは立ち上がろうとする。

「流石の俺も最初は慄いたさ。あれは人間が持ち得る冷酷さの、極限を突破していたからな。まあ、直ぐに慣れたが」

 フェルヒュートは少しも表情を変えない。

「早く殺せ。どちらにしろ殺すなら今のうちにしておけ。俺は今気分が良いんだ。ああ、それともあれか。バルバロッサと違って焦らすのが好きなのか? ははっ、奴も奴だが、お前も変わり種のようだなあ」

「口の減らない人間は嫌いだ」

「もっと上手く立ち回れ。でないと、生き残れないぞ。まったく哀れなもんだな、いつまで歴史に拘泥るつもりだか。マルファは因縁やら過去やらそういうくだらないものに振り回」






 破裂音と共に、アスランの言葉が断たれた。


 すうっ、と赤い眼から光が消え、血のように黒味を帯びていく。双眸と口が開けて、力を喪っている。

「……無様な」

 フェルヒュートの手には、歯輪式ホイールロックの銃が強く、強く握られていた。



「フェルヒュート様、意外でしたね。ラスヴェートが負けるなんて」

「ラスヴェートは最強だと言われていたのに」

「最強だろうが、無敵だろうが、所詮ただの人間の集まりだ。感情に囚われれば、敗北する」

「感情、かあ」

「私情は捨てろ。――全ては、赤い烏ラウムのために」


 フェルヒュートは、昔から繰り返してきた言葉を慣れた口振りで紡いだ。

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