家路

二里

家路

 夜遅い住宅街を、急ぎ足で帰る一人の会社員がいた。幼い息子はもうとっくに眠ってしまっているだろう。電車に乗る前に届いた妻からのメッセージには、夜食を用意して待っていると書かれていた。早く帰ってやらなくては。

 あと一つ角を曲がれば家に帰りつくという所まで来て、彼はふと足を止めた。角の小さなアパートの横に、こちらに背を向けてうずくまる人の姿が見えたのだ。白っぽい服を着た、小柄な女性のようだった。急病だろうか、声をかけるべきか。一人で歩けないようなら妻を呼んで手助けしてもらった方がいいだろうか? こんな夜更けに救急車を呼ぶことになるかもしれない。

 心配と、多少の億劫さを感じながら近づいてみたが、彼の表情はすぐに苦笑に変わった。人のように見えたのは、大きなゴミ袋だったのだ。凹凸のある袋の表面に、街灯が複雑な影を落とし、人の姿のように見えたらしい。このアパートでは夜間のゴミ捨てを許しているのか、不用心だし紛らわしいじゃないか。誰も見ていないのに照れくさいような、何か騙されたような気持ちになって、彼はせかせかと自宅のドアを目指した。

 妻が温めてくれた食事を食べるうちにようやく気が緩み、彼は先程の出来事を笑いながら話した。妻もくすくす笑いながら、残業が多いから眼精疲労じゃないの、と言うと立ち上がって台所に姿を消した。

「そうなんだよなあ。最近デスクワークばっかりで目が疲れて。アイマスクってやつは効くのかな、使ったことある?」

 食器を持って立ち上がり、妻のあとを追うように台所に入ったが、そこには妻の姿はなく、ただ大きなゴミ袋があるだけだった。

 蛍光灯の明かりを受けて白々と光る袋の表面を見ながら、彼はしばらく呆然としていた。食卓の方を振り向いても誰もおらず、椅子だけが妻が立ち上がったときのまま、座面を少しこちらに向けて立っている。

 ほんの少し体温が残っている気がするその椅子に座り込み、彼は、妻はきっと、気づかない間に寝室に戻ったのだろう、と考えようとした。妻のすぐ後ろをついて行ったと思ったのは、疲れのせいで何か勘違いをしたのだ。自分も早く休んだ方がいい、とも思った。

 眠る前に、息子が寝ている部屋を覗くのが彼の習慣だった。しかし、ベッドの中にいるのは本当に息子だろうか。それを確かめる勇気が、なかなか出てこないのだった。

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