第4話
月末、提出された家計簿は相変わらずの赤字だった。公共料金やそのほかの費用は抑えられているとはいえ、女の三人暮らしで食費六万はやはり掛かり過ぎだ。
「何度も言って申し訳ないんだけど、食費をあと二万抑えたいの」
「だから、無理よ。私ずっと仕事してたから、料理なんかできないもの」
「料理はいいの。ただ惣菜を減らして、私が作って出たものを食べて欲しいだけ。温めるのは桃花に頼んでもいいから」
無理なことを要求するだけで、自分は変わろうとしない。七十に変われとは酷な話かもしれないが、変わってもらわなければいずれは共倒れだ。
「だから無理だって言ってるでしょ。足が出た分は私が払ってるんだからいいじゃない。私の年金なんだから、文句ないでしょ」
母は細い眉間を寄せて睨み、噛みつくように言い返す。確かに四十年近く町役場へ勤め続けた母の年金はそれなりの額だ。しかし資産の殆どをあのアパートに吸い取られた今の母は、もうその年金しかない状態なのだ。
「そのお金は、お母さんが何かあった時のためにって」
「あのね、私はこれまでずっと働いてきたの。あんたが遊んでる間も専業主婦してる時もずうっと社会で働いてたの。あんたに指図されなくたって、お金の管理くらいできるわよ。大体」
ここまでくれば、続く台詞も予想できる。
「あのアパートを売らなきゃ良かったのよ。あんたが帰って来て管理するなら、ちゃんと儲かってたでしょ。それをあんな馬鹿みたいな値段で売るから、大損したって馬鹿にされるのよ。あんたが馬鹿なせいで私が馬鹿だと思われるのよ」
「あのアパート、今の家賃七万だよ。それでも借りたのは転勤してきた県外の人だし、埋まったのはその一部屋だけ。あんな辺鄙なとこに建てて家賃十二万で、借り手なんかつくわけないでしょ。買ってくれただけで」
御の字、と続ける前に、発泡酒の缶が遮った。顔に散った飛沫を拭い、床へ注ぎ続ける缶を手に取る。
「それなら、あんたがもっと稼ぎなさいよ。私があんたの頃は、月四十万は稼いでた。文句があるなら、私と同じだけ稼いでみなさいよ。稼げもしない癖に、偉そうなこと言ってんじゃないわよ、馬鹿が」
恥だの体裁だのと言っている割に、近所へ響き渡るこの罵声は気にならないのだろうか。両隣も後ろも、ああ今月もやってるなあ、と思っているに違いない。
拾った缶をシンクへ置き、退却を選んで居間を出る。目の前に不安そうな桃花がいて、足を止めた。
「大丈夫?」
「ごめんね、大丈夫だよ。気にしないで」
揺れる視線を宥め、頭を撫でる。桃花には親の喧嘩もこんな罵声も、馴染みのない恐ろしいものだろう。聞こえる度に心配で下りてくるが、恐ろしくてドアは開けられない。郁深とは、結局最後まで喧嘩をしなかった。でも作られたあの平穏は本当に、「子供のため」だったのだろうか。
「お風呂は入った?」
「ううん、これから」
「じゃあ、上がったら教えて。部屋で仕事してるから」
少し肩を抱いてさすり、離れて階段へ向かう。また呼ぶ声がして、振り向いた。
「ごめんね」
「桃花が謝ることなんて、何もないよ。大丈夫」
上手く笑えたのか、でも笑うしかないだろう。私が守らなければ、私だけはまともでいなければ全てが崩れてしまう。
部屋へ戻り、赤字まみれの家計簿を閉じる。一息ついて手に取った携帯には、郁深からメールが届いていた。
別に、特別なわけではない。離婚後も一月に一度は、桃花の様子を尋ねる一通を寄越している。なんの約定も交わさないまま別れたが、桃花が望めば面会させるつもりだし、桃花の口座には毎月四万の振込がある。離婚時には、慰謝料と財産分与を合わせた七百万を渡された。おかげで借金も半分近く減らせたから、感謝している。お金で許されるわけじゃないけど、と力なく笑んだ目尻は私の愛した頃のまま、長く影を引いていた。
それでね、と言葉を継ぎながら、手はいつものように私の尻を撫でる。
「親父が君に宅建取らせたらって言ってるんだよ。金がないんじゃないのって言ったら、出してやればいいだろうって」
突然湧いたキャリアアップの話に、視線を擡げる。副社長は気づいた様子で腕を回し、私を抱き締めて衝立の陰へ沈んだ。焦げたようなトナーの臭いに、軽く爽やかな香りが混じる。郁深のものとよく似た、シプレー系の香水だった。
「ああいう頑固な爺さんは、君みたいな健気に働く母親に弱いんだよ。親の借金まで抱えてるのに文句言わず働く幸薄いとことかね」
コピー機の音に時折途切れながら、粘りつくような声は耳元で贔屓の理由を明かす。熱い手が、質感を確かめるように頬を撫でた。少し触れた硬い感触は、薬指に嵌っている。
家庭の話は一切しないが、市内の高校へ通う息子とまだ小学生の娘がいたはずだ。子供達は、父親が職場で女を虐めているなんて考えたこともないだろう。私だって、職場でこんなことをされているなんて桃花に知られるわけにはいかない。
「できれば、僕も同意したいんだけどね」
私の尻に体を密着させながら、副社長はくぐもった息を漏らす。どれほど心が死にそうでも、私にできるのはスカートを引っ張り下ろすことくらいだ。
「そこまでしていただかなくても、今で十分、感謝しておりますので」
「僕は君の、そういうところが大好きなんだよね。怖いのに必死に歯を食い縛ってる感じが。あとどれくらい持つのかなあって」
掴まれた手を思わず振り払うと、下卑た笑いが耳を温めた。
「明日は早く帰っていいから、綺麗な格好で来てね」
首筋にキスをしたあと、ようやく離れる。いつの間にか終わっていたコピーを取り出すが、震える手では上手く揃えられない。滲む涙を拭い、洟を啜る。大丈夫、と胸の内で数度唱えて席へ戻った。
副社長は、全てを含めて言っているのだろう。セクハラも借金も一馬力の不安も片親の心細さも、母との諍いも。それに加えて今は郁深からのメールのこともある。初めて、桃花との面会を希望する一文が添えてあった。しかもこのゴールデンウィークの最中にだ。恐らくぎりぎりまで逡巡していたのだろう。でもこんな直近で、桃花が答えを出せると思っているのだろうか。今夜話すつもりだが、傷つけそうで怖い。先の見えない全てに押し潰されそうで、足を踏み外しそうで何もかもが怖い。
あとどれくらい持つのかなんて、私が知りたいくらいだ。
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