銀の滴降る降る

鷹羽 玖洋

1.狩り

 目よ、耳よ、鼻よ、獣の肉体よ――本能の声を聞け!

 それはおまえを夜空に吼えさせ、血潮を熱くし、駆けさせるもの。爪牙を血塗らせ、飢えを満たし、多くの仔を孕ませるもの。

 おまえのけして知りえぬ過去、細胞のひとつひとつに刻みこまれた狩人としての形質が、血への渇望を焚きつけるのだ……。


 夜半、空には迫るような月と星ぼし。大地はおぼろの闇に包まれている。露のびっしり降りた茂みに身を伏せ、辛抱づよく隠れた彼は獲物のようすをうかがった。息を殺し、心臓の鼓動すら抑え、揺れる草葉の隙間に――見えた! 夜霧の水辺に影が蠢く。柔らかい、生えたての新芽を貪る鹿の群れだ。

 騒々しい鼻息と、多くの蹄が踏みしだく軟土が濡れた音を立てる。満足げなげっぷのあいまに、むしゃむしゃと夢中の咀嚼音。彼はそっと顎をもたげ、弱い風脈に鼻先を浸す。草原の夜気は生ぬるい。かぐわしく生気にあふれ、多くの情報に満ちている。

 汗と糞、発酵した草、乾いた乳と発情した雌のにおい。そこに膿んだ腐肉の香気を嗅ぎわけると、彼の毛は興奮でわずかに逆立った。けがをした者がいる。のったりと甘く、鮮烈なイメージ——やつらの血のにおい。

 だが彼が開始の合図をかける前に、背後で低い唸りが漏れた。気の逸った未熟な若者の失敗だ。とたんに鹿たちはバネのように弾ける。両耳をレーダーそこのけにくるくる回し、優美な首を高く差しあげて大気を嗅いだ。折悪しく風向きが変わる。鹿は差し迫った危険に気づく。地響きを立て、いっせいに逃げ出す、その寸前に彼は跳び出していた。

 固まって走る群れの真横にぴったりと張りついた。巨大な歯列を剥き出しにして、一頭の脇腹へ噛みつく構えをみせてやる。ガチッ、ガチッ! 空を咬む音に脅えながらも、鹿もまた天性のスプリンターだ。自慢の健脚で大地を蹴りつけ、しなやかに彼を避け逆方向へ――けれど、それこそが狙いだった。彼は駆けながら鋭く吼える。丘を跳ね登る鹿の真正面から、いくつもの影が湧き出てくる。あらかじめ反対斜面に潜んでいた、彼の群れの仲間たち。

 狩られる者たちは恐慌をきたし、土煙をあげて四方へ散った。惜しくも転倒する鹿はいない。だが刹那、彼も標的を絞っている。まごつき、群れから遅れた親子。仔鹿が前脚をひきずっていた。猛烈に追いあげ、吼えたて、恫喝して、彼は二頭を群れから孤立させる。賢い母親は襲撃者の嫌う水場へ一散に走ったが、運悪く窪みは浅い水たまりにすぎない。周囲をかこみ退路を断てば、あとは時間の問題だった。

 一頭が母鹿の鼻先を挑発し、一頭が無防備な尻に齧りつく。撹乱のすきを逃さず、彼も仔鹿の横腹に突撃した。牙はやすやすと子供の柔皮を引き裂き、華奢な肋骨を小枝さながら噛み砕く。息漏れの悲鳴も短く仔鹿が泥に突っ伏すと、怒り狂った母親の後脚が目にもとまらぬ速さで飛んだが手遅れだ。狩人たちが仔鹿を土手へひきずりあげ、首に腹に群がって、瞬く間に息の根を止めた。

 齢若く、まだ経験の浅い母親なら、普通はこの段で諦める。逃げて生きながらえ、遺ったを育てるか、また新たな命を産みだすために。だが今夜の獲物は違ったようだ――憎悪に駆られた老鹿は火山のごとく鼻息を噴き、動かぬ我が子のもとへ突進。棹立ちになるや、逃げ遅れた敵一頭に向かい鋼鉄の蹄を振り下ろしたのだ。

 彼は勇猛にして仲間思い、また誰よりも傲慢な恐れ知らずの賭博師だった。一瞬のうちに身をたわめると、ひるむ仲間たちの隙間から悪魔的な跳躍をしてのけた。

 並より図抜けた巨体が大砲のごとく衝突する。たまりかねた母鹿は大きくよろめき、必殺の前蹄は虚しく宙をかき乱した。一方、彼の鋭牙は狙いあやまたず、獲物の気道を押さえてのぶかく打ちこまれていた。

 悲鳴がわりに歯を噛み鳴らし、勇敢な母鹿は暴れに暴れた。筋肉質の四脚が生みだす狂った舞踏は致命的だ。腰の引けた彼の仲間は遠巻きにして手を出せず、彼は嵐の日の木っ端のごとく全身を振り回された。だがたとえ肋を砕かれかけても、噛みついた顎の力はけして緩めはしなかった。

 前脚二本の指を広げ、獲物の首を抱きこんだ。血の味の濃い牙の隙間から荒い息を音立てて吸いこむ。後ろ脚が大地に触れる。爪を土中深くに突きこむ。転瞬、万力をこめて身体をよじった。母鹿の四脚が天を向く。

 地震、転倒――それから、仲間たちの殺到。

 泥水に半身を沈めながら、彼は鹿の気道を締めあげつづけた。群がる狩人たちに押し潰され、なおもつづいた鹿の最期の抵抗は見事なものだった。たとえ彼女の命運が、とうに尽きていたとしても。

 ばくばくと開閉する母鹿の唇じゅうに、次第に泡が盛りあがっていく。間欠的な全身の痙攣。やがて首すじから伝わる鼓動も弱く、はかなく――命の灯が完全に絶えてはじめて、彼は牙を引き抜いた。

 眸を黒く潤ませたまま、大小二頭の鹿は泥濘の底に絶命していた。

 暴力の興奮と達成の満足の狭間に生じる、哀悼の沈黙。それも束の間で、舌を垂らし息を荒げたまま、仲間たちが彼をじっと見つめてくる。

 ――さあ王よ、我ら狩人の一族、狼の王よ。今こそ我らの勇気を讃え、勝利と力を謳う時!

 応えて、見事なたてがみの胸を反り、彼は尖った鼻面で天を指した。

 咆哮は低く太く、長く引っ張って朗々と大気に響きわたる。みっしりと夜空にひしめく無数のシリウスすら震わせて。追従して仲間たちの唱和。彼にとっては、己と仲間の勇気と誇りを讃える歌。今夜は運よく逃げおおせた鹿たちにとっては恐怖と苦痛、そして危難を生き延びた安堵の歌……。

 調子に乗りすぎた若者がさっそく肉にありつこうとして、恐ろしげな彼のひと唸りにたしなめられる。狼の魂に受け継がれた太古からの掟があるのだ――最初に獲物を食らうのは、群れを束ねる王だけである。仲間たちの尊重を受け、彼は悠然とまだ体温を残す母鹿の腹に牙を立てた。

 噛み、舐め、毛をむしって皮を剥ぎ、筋を千切って鼻面を肋骨のあいだに分け入らせる。栄養が濃くまだ熱い臓物を引きずり出して塊を囓り取り、ろくに味わいもせず丸呑みにした。荒々しさこそ野生の作法だ。王が満足したあとで、仲間たちが順繰りに食事にとりかかった。

 ——この大地には、約束がある。

 この地に生まれいでた命は、すべて無駄にされるところがない。

 大きな鹿はあっという間に解体され、筋繊維の一本、血のひとしずく、骨の髄まで食べ尽くされる。狼たちに処理できなかった鹿の被毛や骨片だとて、死骸漁りの鳥どもに喰らい尽くされ、残りは土へと還る。巡り巡って土は草を育て、草が再び鹿たちを育てるのだ。

 そして狼たちの食欲は底なしだった。

 土手の上では、まだ手つかずの死んだ仔鹿が虚ろな眼差しで横たわっていた。その裂けた腹から血の流れがひとすじ、窪地に流れ落ちると、新たに立った香りはまだ満足せぬ若者たちの首を上げさせる。勢いよく肉に群がった狼たちの足元から流れ下る血の道が、しずしずと太さを増した。そのときちょうど夜霧が晴れて、月光が音もなく差しこんできた。

 二つの冴えた月に照らされ、血は冷ややかな銀色に反射した。

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