神戸の初夜 ①

 ――新大阪駅で山陽新幹線に乗り換えて一駅、わたしと貢は神戸市の高台に位置するJR新神戸駅に到着した。

 時刻は夕方六時半過ぎ。夏至げしも近いので、この時間でもまだ日が高く、辺りは明るい。


 わたしは改札を出ると、スーツケースを彼に任せて再び川元さんの番号をコールした。


「――もしもし、川元さん。たった今、新神戸駅に着きました」


『そうですか。お疲れさまでした。では、これからお迎えに上がります。あと十分ほどでそちらに着くかと』


「分かりました。お待ちしてます」


 神戸支社は三宮さんのみやの市街地にあり、そこから車でそれくらいかかるということだろう。

 それなら、わたしたちの方が三宮まで下りていった方が早いのかもしれないけれど、彼の立場ではあくまでわたしたち夫婦はゲストで彼がホスト役。わざわざ出向いてもらうのは申し訳ないということなのかしら。


「――川元さん、これからこっちに向かうって。あと十分くらいで着くらしいよ」


「そうですか。……で、どうやって時間潰します?」


「十分くらいなら、その辺ブラブラしてたらあっという間に過ぎちゃうんじゃない? お店もたくさんあるみたいだし。それか、先にホテルにチェックインしちゃうか、かな。その方が楽だろうし」


「そうですね」


 というわけで、わたしたちは川元さんが迎えに来る前に、予約してあった駅前のホテルにチェックインしてしまうことにした。


 手続きを済ませ、先に荷物をスイートルームに運んでおいてもらうと、駅前に戻った頃にはすでに川元さんがタクシーで迎えに来てくれていた。タクシーにはそのままわたしたちも乗せるようで、ドライバーさんがドアを開けて待機してくれている。


「会長、桐島さん――いや、貢さんってお呼びした方がいいですかね? お待たせしました」


「ああ、いえ。桐島でいいですよ。もうややこしいんで、呼び方はこれからも旧姓のままでいいんじゃないかって、新幹線の車内で絢乃さんと話してたんです」


「……そうなんですか?」


「ええ。会社やグループの関係者から呼ばれる時や、わたしも仕事の時は彼のことをそう呼ぼうと思って。いきなり変えられても、彼も混乱するでしょうし」


 これはわたしの望みだった。夫婦だからといって、ビジネスの時に下の名前で呼ぶのはいくら何でも公私混同だ。それならちょっと他人行儀かもしれないけれど、旧姓で呼んだ方がけじめにもなっていいのではないかと。真面目な彼も、その提案を受け入れてくれたのだ。


「分かりました。では、僕もそう呼ばせて頂くことにしましょう」


「今日と明日泊まるホテルは、もうチェックインを済ませましたから。お腹もすいたし、行きましょう」


「そうですね。――それで、お二人は何を召し上がりたいですか?」


 ……そうだ。食事するお店を決めなきゃ。わたしと貢は、その場で「どうしようか?」と相談を始めた。


 神戸には美味しいものがたくさんある。南京町や元町もとまち方面へ行けば中華料理のお店が、北野方面ならインド料理やスイス料理など各国の料理店がズラリ。

 でも、やっぱり神戸まで来て一番食べたいものは……。


「わたし、お肉がいいです。神戸ビーフ! 去年来た時は食べられなかったから」


「ああ、そうですね! 僕も食べたいです」


「神戸ビーフか……。ああ、それなら三宮に、僕もよく利用させてもらってる神戸ビーフのステーキが美味い店がありますよ。じゃあそこにしましょうか」


「やったぁ! ぜひ、そこでお願いします!」


 行先が決まったところで、川元さんはわたしたち夫婦をタクシーの後部座席に乗せてくれて、彼自身は助手席に収まった。どうやら道案内もしてくれるらしい。


 ニコニコ顔の中年のドライバーさんがドアを閉めてくれて、彼の運転するタクシーはわたしたち夫婦と川元さんを三宮方面へ運んで行った。



   * * * *



 ――神戸支社長が連れてきてくれたステーキハウスは、三宮の裏通りにある小洒落た雰囲気の隠れ家的なお店だった。

 大手の格安ステーキチェーンとは違って、店内は落ち着いた感じの照明に照らされた空間で、ゆったりとした気持ちで食事が楽しめる。……もっとも、こういうお店にまだ慣れていない貢は、どこか落ち着きなく店内をキョロキョロ見回しているけれど。

 でも、わたしは彼のこういう飾らないというか、気取らないというか、そういうところが好きだ。慣れてもいないお店でカッコつけて恥をかく男性よりもずっと魅力的だと思う。


「――では改めまして。絢乃会長、桐島さん。ご結婚おめでとうございます!」


「「ありがとうございます」」


 三人はこの街での再会と、わたしたち夫婦の結婚を祝して炭酸入りミネラルウォーターの入ったグラスを合わせた。


「でも、お二人から結婚式の招待状を頂いた時はビックリしましたよ。昨年いらした時は、すでにお付き合いされていたということですか?」


 喉を潤してから、川元さんがそう言った。

 実は彼も言ったとおり、昨年夏に出張で神戸に来た時には、わたしたちはすでに恋人同士だったのだ。


「ええ。驚かせちゃってごめんなさい。わたしたちの関係は、婚約するまでは秘密にしようって決めてたもので」


「『仕事にプライベートを持ち込んだら、公私混同になって他の社員に示しがつかないから』って、絢乃さんが気にされてたんです。彼女、真面目な女性ひとなんで……」


 わたしに続けて、貢もそう言った。

 今思えば、コソコソする必要なんてなかったのだ。わたしたちの関係は、世間的にも何ら問題がなかったのだから。


「――ところで川元さん。しつけで申し訳ないんですけど、貴方に一つ伺いたいことがあって。食べながら答えて下さって構わないんですけど」


 運ばれてきたお料理にしたつづみを打ちながら、わたしは思いきって、去年の夏には訊けなかったことを川元さんに訊ねた。

 そういえば、わたしは彼のプライベートなことは何も知らないのだ。


「何でしょうか?」


「川元さんって確か三十七歳ですよね? ご結婚は?」


 本当に不躾な質問に、彼は目をみはった。気を悪くされたらどうしよう……と、わたしはちょっと反省したけれど。


「結婚はまだしてませんよ。今のところは独身です。彼女はいますけどね」


「そうですか。彼女、いらっしゃるんですか……」


 彼はあっさり答えてくれたので、わたしは脱力した。


「……でも、どうしてそんな質問を?」


「それは……、川元さんさえよければ、母の再婚相手にどうかなぁと思って」


「再婚? どういうことでしょうか?」


 わたしは母の再婚話に至った経緯を、川元さんにも順を追って話した。

 今日の結婚式のブーケトスで、未亡人である母がブーケをキャッチしてしまい、困っていたこと。父のことを気にしている母に、わたしが再婚を勧めたこと。誰よりも母の幸せを願っているのは、天国にいる父のはずだということ――。


「……というわけで、義母ははとも年齢が近い身近な男性として、川元さんが義母の再婚相手だったらいいなぁと絢乃さんは思われたようです」


 貢が最後にそうまとめてくれた。


「でも、独身だったらともかく、お付き合いなさってる女性がいらっしゃるんじゃ……ムリです……よね」


「……そうなりますね。僕も、彼女と別れるなんて考えられませんし」


 川元さんなら、母の再婚相手として非の打ち所がない人だと思ったのだけれど……。仕方ない、諦めるとしよう。


「まあ、加奈子さんは魅力的な女性ですから。絢乃さんたちがヤキモキしなくても、きっといい方に巡り合えますよ。恋なんてそういうものでしょう?」


「そうですね」


「僕もそう思います」


 わたしと貢だって、周りがどうこうしなくてもきっとこうして恋に落ちていたはず。どういう形で出会っていたとしても……。


「――ところで、彼女さんとはどうしてご結婚なさらないんですか?」


「あ、絢乃さんっ! それは」


 何気なく疑問を口に出すと、貢からたしなめられた。


「ああ、いいんですよ桐島さん。――それは、今の関係がいちばん心地いいから……ですかね。結婚という形に拘らなくても、僕は彼女と一緒にいられるだけで幸せなんです。今日び、三十路で独身の男なんて珍しくも何ともないですし。ま、彼女が妊娠したら、その時はちゃんと籍を入れようと思ってますが」


 川元さんはあっけらかんと話して下さったけれど、わたしはようやく貢にたしなめられた理由を理解した。


「……何だか、野暮なことを訊いてしまったみたいで。ゴメンなさい」


「いえ、大丈夫です。僕は気にしてませんから」


 心なしか、食事中の雰囲気が気まずくなった気がする。もちろんわたしが原因だ。砂を噛むような気持ちでお肉を頂きながら、わたしは猛省していた。


「――ところで、お二人は神戸に二泊されるんでしたっけ」


 川元さんが機転を利かせて話題を変えて下さったので、わたしは少しホッとした。


「ええ。明日は一日、神戸市内の観光スポットを回ってみようかと思って。本当は貴方に案内役をお願いするつもりだったんですけど、明日は平日だし、ムリでしょうね」


「……ですね。ああ、市内観光をされるんでしたら、シティループという周遊バスを利用されるといいですよ。一日乗車券というのを買っておけば、その日一日何度でも乗り放題になりますから。僕はご一緒できませんが、観光を楽しんでいってください」


「へえ……、そんな便利なのがあるんですか。ありがとうございます」


 さすがは地元民ジモティー。わたしたち東京の人間が知らなかった情報を、川元さんは親切に教えて下さった。


「明後日からは淡路島に泊まるんですよ。わたし、行ってみたい場所がたくさんあって」


「淡路島ですか。僕は淡路島の南あわじ市出身なんです。本当にいいところですよ。残念ながら、ご一緒できませんが……」


「ああ、そういえば去年そうおっしゃってましたよね」


 その事実を始めて知った時、わたしも貢もビックリしたものだ。だって、川元さんがあまりにも都会的な人なんだもの!


「なんか意外でした。川元さんはてっきり、神戸市内のご出身かと思ってたので……。南あわじ市っていうと、うず潮クルーズの船が出ているふく港のある市ですよね? わたしたちも明後日、うず潮クルーズを申し込んであるんですよ」


 あと、動物と触れ合ったり、農業の体験ができたりするテーマパークもあるらしい。これはガイドブックからの情報だけれど。


「それはいい。自然の神秘に触れるいいキッカケになりますよ。食べ物でいうと……、今の時期じゃ三年トラフグは旬じゃないか。でも加工品が土産物として売られてますし、鯛なんかの海の幸も名物ですね。島全体で言えば、あとは玉ねぎかな」


 淡路産の玉ねぎは有名で、加熱すると甘みが引き立つのだとか。インスタントの玉ねぎスープは、淡路島のお土産の中では大人気だとわたしもTVやネットで見たことがある。


「わぁ、スゴ~い! それだけ名物があれば、お土産には困らないですね」


 少なくとも、母や会社の人たちへのお土産にはいいかもしれない。甘いもの好きのわたしたち夫婦とは違って、母はお酒が好きなので、おつまみになるものの方がいいかなと思っていたのだ。


「南あわじ市だけじゃなく、淡路島には観光スポットがたくさんありますからね。国生み伝説にまつわるパワースポットや、テーマパークや、洲本すもと温泉も有名ですね」


「洲本温泉なら、わたしたちが淡路島で泊まる宿もそこに取ってあるんですよ」


 淡路島にも二日間滞在することにしているので、二日かけてあちこち回ってみよう。プライベートな旅行だと、のんびり過ごせるからそういうこともできそうだ。

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