十二、論理くん、私と将来を語りあう
八月三日。私たちは、もう何度目かになる図書館旅行に出た。今度の行き先は、隣の県の三条地(さんじょうち)図書館。新尾風駅から、鉄道に乗り、菜津宮(なつみや)で乗り換えて、新三条地駅まで来る。電車の中では、図書館旅行の例によって、論理くんが熱い話をしてきて、私たちは何度も覚え立てのディープキスをした。多分まただれかに見られていただろうな。三条地の図書館は、駅からかなり離れていて、十数分歩いたと思う。図書館は、広くてとても静かで、私たちはじっくり勉強に集中できた。今日は、二人とも主に英語を勉強した。ふと、前に論理くんが英語の授業のときに、ノートに何も書いていなかったことがあったなあと思い出した。
「ねえ、論理くん。論理くんって、英語苦手なんでしょ?」
「うん、まあ苦手だよ」
「そうだよね。前に、わからなくてノートに何も書いてなかったことがあったもんね」
私がそう言うと、論理くんは、ばつが悪そうに目を逸らした。
「あれは…」
論理くんは言い淀んだ。
「え?違うの?」
「あれは…わからなくてノートをさぼってたわけじゃないんだ」
論理くんはたどたどしくそう言った。
「え?じゃあなんで?」
「女子の…」
論理くんが、とてもつらそうにうつむいている。さっきからずっと、私と目を合わせない。こんなことは珍しい。
「女子?」
「女子の…襟足とうなじを見てた。池田さんみたいにきれいに揃った、カットラインを」
え…そうだったんだ…。ズキリと心が痛んだ。もやもやとしたものが、私の中に渦巻く。なにこれ、私、もしかして嫉妬してるの?
「ふーん。例えば、誰を見てたの?」
私が出した声は、自分でも驚くくらい冷たいものだった。論理くんを前に話をしているのに。
「向坂さんとか…鬼頭(きとう)さんとか…水谷(みずたに)さんとか…」
向坂って…優衣⁉︎みんな、髪型がおかっぱだ。私は、それほどの女の子じゃないけど、どうしてこの三人で、私には目を向けてくれないの?私だっておかっぱだし、この艶やかな黒髪は、私の唯一の自慢でもあるのに…。
「どうして、私を見てくれなかったの?寂しい…」
私は、少し泣きそうになった。その私の前で、論理くんが怖ず怖ずと口を開く。その顔は、出会ったときの、気弱な論理くんに戻ってしまっていた。
「だって…」
「だって?」
論理くんは、言葉を絞り出した。
「真横だもん…見られないよ…」
あ、そっか…。私、論理くんの隣の席だった。でも、それでも…。
「論理くんが、他の人の襟足やうなじを見るのは、私、嫉妬しちゃう…。私だけ見ててよ…」
「池田さん…」
論理くんは、懸命に言葉を出す。
「あのときはそうだったよ。でも、定規で架け橋をしたときは、俺、ノート全部取ってた」
あ、そういえば…。
「他の人の襟足とかうなじとか、もう見る必要がなかったもん」
論理くんの目が、私のもとに戻ってきている。相変わらず弱気そうだけれど、私から目を離す気配はなかった。
「そう…、ごめん。私、忘れてた。嫉妬で頭がいっぱいになってた」
「いや、向坂さんたちを見ていたのは事実だから、嫉妬されて当然だと思う」
私は、手をもじもじさせた。
「嫉妬する女の子って、重いよね…。でも、それくらい論理くんが好きなの。好きでたまらないの!」
思わず、声が大きくなった。周りの人たちの鋭い視線が一気に刺さる。ここは図書館だった…。
「あ、すみません…!」
頭を下げる。
「池田さん…」
論理くんの目と表情に、今までの力強さが戻っていく。
「ありがとう。そこまで俺を愛してくれて、なんて言っていいかわからない。俺も、池田さんが好きでたまらない。俺、池田さんの襟足とうなじだけを見てる。他の人のには、もう興味が無くなっちゃった。たとえ、池田さんとまったく同じ髪型の人がいても、俺の目には入らない」
長い台詞を一生懸命言ってくれる論理くん。そんな論理くんが愛しくて、私はその手を握った。論理くんも、強く握り返してくれた。お互いに目を見つめ合う。
「ありがとう。論理くん、愛してるよ」
「池田さん、愛してるよ」
「大好きだよ」
「大好きだよ」
私たちは、お互いにずっと手を握り合っていた。なんかまだ、視線が刺さっているような感触がある。でも関係ない。論理くんと付き合い始めてから、人の目がどんどん気にならなくなってきている。論理くんと私の世界は、織田信長と、豊臣秀吉と、徳川家康が三人束になってかかってきても、ひとかけらも壊せやしないんだ。
ふと気付くと、もう夕暮れ時でびっくりした。
「ええー。私たち何時間勉強してたんだろう」
「途中でちょっと空いたけど、正味五時間は確実だな」
論理くんは時計をちらりと見て、言った。
「これは普通列車を使っていると、帰るの八時を過ぎてしまう。こりゃ特急だな。池田さん、お小遣い大丈夫?特急料金が九百円余分にかかるけど」
「うん、大丈夫だよ」
「よし、それならもう帰ろうか」
図書館から新三条地駅までは、長い長い一本道だった。もう夕闇が迫ってきていて、遥か遠くに、新三条地駅の明かりがポツンと浮かんでいる。道は広いけれど、車の影はまったくない。深々とした静けさの中、私たちは歩き出した。
「あいつはあんなこと言ってるけどさ、俺は、今の成績のまま進学したい。青島(あおしま)とか、秋田(あきた)とか、…やっぱり青島がいい」
「え?どうして?青島って、遠いじゃん」
「それは…」
論理くんは、口ごもる。でも、きっぱりとこう言った。
「青島の制服を着た池田さんと、三年間過ごしたいんだ」
「青島の制服ってどんなのだっけ?」
「夏服が独特なんだよ。背ボタン開きの白いブラウス。タートルネックで、胸にギャザーが入ってるんだ。Aの青い刺繍が胸元にある。おばさんっぽいって言う人もいるけど、そのおばさんっぽさが、あえていいんだと思う」
「へえ~。なんか変わってるね!なんで、その制服を私に着せたいの?」
「俺、背ボタン開きとか、背中ファスナー開きが大好きなんだ。だから、池田さんがそういう服を着ているのを想像すると、心がとても熱くなる」
へえ、そうなんだ。背ボタン開きと背中ファスナーか、家にあったかな、今度見てみよ。なかったら、栄穂(さかほ)か広谷通り(ひろやどおり)で探してみよう。
「そっか、でも、明立に行かないといけないんじゃないの?」
論理くんは、ぶすっとした顔をする。
「俺は、人非人の見栄を満たすために勉強するんじゃない。池田さんと美しく過ごすために、勉強するんだ」
「でも、条件で出されたじゃん」
「あの養女が言ってただろ。あんな条件なんて、所詮赤ちゃん大魔王だ。俺たちは、俺たちの道を進めばいい。池田さんを、俺の家の醜いごたごたに巻き込んでたまるか」
論理くん、やっぱりこの話題になると怖い顔をするな。論理くんのそんな顔は見たくなかったので、私は話題を変えた。
「青島って、内申点どれぐらいいったっけ?」
「三十くらいだって聞いた。二十台かも」
「そんなに低いの?」
「新設校だからね。なんにしても、今の俺たちの内申点なら楽勝だ」
「青島に行って、論理くん、将来何やりたいの?」
「将来?そんなこと…」
論理くんは、言葉に詰まる。
「私は、将来教員になりたいの。親が教師だし、小学校のときに、担任の先生がすごくいい先生で、私もこんな先生になりたいと思ったから」
「へえ、教員か。考えてみれば、俺、将来何をするかなんて、今まで思ったことなかった」
「漠然とでもいいから、何がしたいとか、何が好きとかある?」
「んー…」
論理くんはしばらく考え込む。日はさらに暮れて、街路灯の明かりが眩しくなってきた。背後から、車が一台勢いよく私たちを追い抜いていく。新三条地駅の明かりは、まだまだ先。随分歩いたように思えるけど、全然近づいてないようにさえ見える。
「俺は、ああいう家庭に生まれ育って、こうして歪んだ人間になった。もし、俺のようなやつが他にもいるのなら、俺の力でなんとかしてやりたい。どんな職業で、どんなことをやればいいのかわからないけれどね」
「お父さんの知り合いの先生で、そういうことしてる人いるよ」
「教員でそんなことする人いるのかよ。少なくとも、俺らの担任の倉橋藍造は、俺には何にもしてないぞ」
「そこまで生徒の家庭に入っていくかどうかは、先生によるよ。この前お父さんが愚痴ってたけど、教員というのは、たくさん仕事をしようと思えば、どこまでも忙しくなるし、とことん怠けようと思えば、何もしなくても通っちゃう仕事ならしいの」
「じゃあ、池田さんの小学校のときの先生は、どこまでも忙しくなる先生だったの?」
「私、実は…」
と、私は、過去の記憶をたぐりつつ、「すはあああっ」と夏の夜気をお腹に吸い込む。
「小学校五年生のときに、一時期学校に行かなかった時期があったの。お父さんもお母さんも忙しくて寂しかったんだけど、弟はまだ二年生で私に甘えてくる。私だって甘えたかったのに、小さなお母さんみたいなことをするのがとてもつらかったの。だから、私は不登校になった」
「お父さんお母さんの気を引きたかったわけ?」
「うん」
私は、小さく溜息をついた。少し近づいてきた新三条地駅の明かりと、昔の思い出が重なって見える。空はもうとっぷり暮れて、相変わらず車は通らない。静けさの中で、私は語り続けた。
「そんなとき、担任の先生が家に来てくれた。私がぽつぽつと話すのを、辛抱強くじっくりと聞いてくれた。そしてそのあと先生は、お父さんお母さんの三人の教員どうしで話をして、お父さんお母さんが、私を寂しがらせないように行動する指針を決めてくれた。おかげで、私たちの家族は、明るくて温かくなったの。先生がいなかったら、私たち一家はどうなっていたかわからないと思う」
論理くんは、しばらく無言でゆっくり歩いた。大きな瞳に、駅の明かりが星のように宿っている。
「先生で、そこまでする人っているんだな。俺も、池田さんの先生に巡り会いたかったよ」
「論理くん、『俺のようなやつが他にもいるのなら、俺の力でなんとかしてやりたい』と思うなら、そんな先生を目指してみてもいいかもしれないよ」
私たちは立ち止まった。もうすっかり夜なのに、どこからか油蝉の声が聞こえてくる。論理くんは汗を拭って、今まで歩いてきた道を振り返った。
「この道、ほんとにまっすぐだよな。俺今まで、こんなまっすぐな道を歩いたことが無かった。でも池田さんが、俺をこの道に連れてきてくれた。俺も池田さんと一緒に先生をやって、苦しむ子たちを、この道に連れてきたい」
「論理くん、テスト勉強をしてたとき、私に国語を教えてくれたことあったでしょ?すごくわかりやすかった。人を教える力があると思うよ」
「ありがとう」
論理くんはそう言って、今度は、少し早足で歩き始めた。
「なんか今日ここで、すごく大事なことがわかった気がする」
論理くんは私に微笑みかけた。私も微笑む。駅のほうから風が吹いてきた。静かな夏の夜に、風が運んで来たのだろう、新三条地駅のアナウンスや発車ベルが微かに聞こえてきた。
「ねえ、論理くん。自慢するわけじゃ全然ないんだけど、私のお母さん、尾風教育大学なんだよ」
「えっ、すげーじゃん。じゃあ、お父さんは?」
「尾風大学。工学部だよ」
論理くんは、目を剥いて驚いた。
「ええ、すごいじゃん!そんなすごい人たちだったんだ!」
「でね、もちろん教員になる道はいろいろあるけれど、お父さんお母さんと同じ道を進むんだったら、正直、青島に進学したら、不安かもしれない」
「うっ…」
論理くんは、唇を噛んだ。
「そっか、内申点が三十なら、それなりの連中しか来ないってことだよな」
「うん。思うんだけど、青島から尾風大学や尾風教育大学に行くなら、三年間、学年一番を通すくらいじゃないといけないような気がする」
「そうなるよな…」
論理くんは項垂れた。でも、拳を握りしめて、私に向き直って言う。
「でも、池田さん。俺は、池田さんに、それでもあの背ボタン開きの夏服を着てほしいんだ。それに、レベルの低い連中の中にいることは、悪いこととは限らない。鶏口牛後とも言うじゃないか」
「着てほしいの?」
論理くん、相変わらずだな。と、私は笑った。
「じゃあ、着るよ。鶏口牛後って、この前国語で習ったよね。確かにそういう考え方もあると思う」
そう言っているうちに、私たちは新三条地の駅に随分近づいた。もう、構内アナウンスもベルも聞こえるし、発車していく特急もはっきり見える。私たちは、このまっすぐな道を歩き終えようとしていた。
「じゃあ、ひょっとして、池田さんと俺は、この先同じ高校で、同じ大学で、同じ職業に進むんだね」
「ひょっとしてじゃないよ。絶対だよ」
私は、論理くんを抱きしめた。論理くんの顔を見上げる私の目に、プラットホームの明かりが流れ込む。玉都行きがどうこうというアナウンスと共に、論理くんはこう言った。
「うん、そうだね!高校も一緒、大学も一緒、仕事も一緒、ずっと一緒!」
「うん!」
私は、論理くんを強く抱きしめた。
「池田さん」
「論理くん」
「愛してるよ」
「愛してるよ」
「大好きだよ」
「大好きだよ」
「ずっと一緒だよ」
「ずっと一緒だよ」
私たちは唇を重ねた。三条地か。銀水と同じくらい、忘れられない街になりそう。
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