5
男はそんな若葉を見て、微かに笑った。この男が表情を変えるのを見るのははじめてだった。こういう顔をしていれば、真面目な好青年に見えることに、若葉は驚いた。真面目な好青年は、ストリップバー通ったりなんかしないと頭では分かっているのだけれど。
「台所、狭いし誰もいないですよ。」
男が言う通り、台所はごく狭く、シンクと冷蔵庫でいっぱいだった。それでも男はここで料理をするらしく、玄関やリビングに比べて、台所には生活感があった。
「どうぞ。」
笑みを引っ込めた男が、一人暮らしサイズの冷蔵庫を開け、中から取り出したビールを若葉に手渡す。若葉は18でまだ酒を飲める歳ではなかったし、見た目もそんなところにしか見えないのだけれど、男にそのあたりに頓着する様子はなかった。
「茉莉花姐さんのこと、知ってるでしょ? 店に来てるんだから。」
ビールのタブを開けもせずに、若葉が前のめりに問うと、男は自分の分はマグカップに2リットルペットボトルから緑茶を注いだものを持ち、視線でリビングの方を示した。
「お話があるなら、座りましょう。」
若葉は自分の余裕の無さを自覚し、右手でくしゃりと自分の前髪を掴んだ。
男は若葉の動揺に構わず、先に立ってリビングへ戻った。
「そっち、座ってください。」
男は若葉を座椅子に座らせ、自分はテーブルを挟んでフローリングの床に胡坐をかいた。
「お名前、なんていうんですか?」
「若葉。」
「あなたも、本名なんですね。」
何気なく男が言って、若葉はその場に飛び上がりそうになった。
「なにそれ、やっぱあんた、茉莉花姐さんのこと知ってるじゃん!」
若葉が芸名と本名を変えていないのは、茉莉花の影響だった。芸名をなににするか考えとけ、とオーナーに言われ、考え付かなかったので茉莉花に相談しに行ったのだ。茉莉花はあっさり、私は本名よ、と言った。今更知られて困る名前でもないし、使い分けられるほど器用でもないから、と。若葉は彼女のその物言いに納得し、自分も本名で舞台に立った。
男は、警戒心の強い野良猫みたいに毛を逆立てた若葉を見て、またちょっとだけ笑った。
「確かにあのひとはここにいないって言いましたけど、知らないとは言ってないですよ。」
「なに、その言い方。」
若葉はかっと腹を立てかけたけれど、なんとか収めた。茉莉花にいつも、すぐ感情を動かすのは悪い癖だ、と言われていたのを思い出したのだ。なにを言っても暖簾に腕押し、みたいな目の前の男に対し、怒ってみても仕方ない、と悟りつつあったとも言える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます