男はそんな若葉を見て、微かに笑った。この男が表情を変えるのを見るのははじめてだった。こういう顔をしていれば、真面目な好青年に見えることに、若葉は驚いた。真面目な好青年は、ストリップバー通ったりなんかしないと頭では分かっているのだけれど。

 「台所、狭いし誰もいないですよ。」

 男が言う通り、台所はごく狭く、シンクと冷蔵庫でいっぱいだった。それでも男はここで料理をするらしく、玄関やリビングに比べて、台所には生活感があった。

 「どうぞ。」

 笑みを引っ込めた男が、一人暮らしサイズの冷蔵庫を開け、中から取り出したビールを若葉に手渡す。若葉は18でまだ酒を飲める歳ではなかったし、見た目もそんなところにしか見えないのだけれど、男にそのあたりに頓着する様子はなかった。

 「茉莉花姐さんのこと、知ってるでしょ? 店に来てるんだから。」

 ビールのタブを開けもせずに、若葉が前のめりに問うと、男は自分の分はマグカップに2リットルペットボトルから緑茶を注いだものを持ち、視線でリビングの方を示した。

 「お話があるなら、座りましょう。」

 若葉は自分の余裕の無さを自覚し、右手でくしゃりと自分の前髪を掴んだ。

男は若葉の動揺に構わず、先に立ってリビングへ戻った。

 「そっち、座ってください。」

 男は若葉を座椅子に座らせ、自分はテーブルを挟んでフローリングの床に胡坐をかいた。

 「お名前、なんていうんですか?」

 「若葉。」

 「あなたも、本名なんですね。」

 何気なく男が言って、若葉はその場に飛び上がりそうになった。

 「なにそれ、やっぱあんた、茉莉花姐さんのこと知ってるじゃん!」

 若葉が芸名と本名を変えていないのは、茉莉花の影響だった。芸名をなににするか考えとけ、とオーナーに言われ、考え付かなかったので茉莉花に相談しに行ったのだ。茉莉花はあっさり、私は本名よ、と言った。今更知られて困る名前でもないし、使い分けられるほど器用でもないから、と。若葉は彼女のその物言いに納得し、自分も本名で舞台に立った。

 男は、警戒心の強い野良猫みたいに毛を逆立てた若葉を見て、またちょっとだけ笑った。

 「確かにあのひとはここにいないって言いましたけど、知らないとは言ってないですよ。」

 「なに、その言い方。」

 若葉はかっと腹を立てかけたけれど、なんとか収めた。茉莉花にいつも、すぐ感情を動かすのは悪い癖だ、と言われていたのを思い出したのだ。なにを言っても暖簾に腕押し、みたいな目の前の男に対し、怒ってみても仕方ない、と悟りつつあったとも言える。

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