そんな関係性で夜中の海に行くな
@88oki
南港
今日の夜は散歩に行かないの?と聞かれた。行かない、と答える。ならツーリングに誘えば良かった、それってお伺いなんだろうか。
夏だから海がみたい。そう思って、どこに行きたいか聞かれたら「南港とか」と答えようと考えながら、今から行けばいいじゃん、と相手が期待していた答えで返す。いいの? いいよ。寧ろ明日月曜日だけどいいの?
アプリで出会ってから別れるまで、二週間と保たなかった元彼氏はとても分かりやすい。行く気で既に気持ちは固まっているのに、お互い相手の真意を計りかねて親切な催促の無駄撃ちをする。そんな関係性で、夜中に海を見に行く。
はじめて跨ったバイクの後ろは風が心地良かった。ビルばかりの空の余白が狭い街並みを抜け、夜更けに帰宅する人々を追い越していく。
いくつかのインターチェンジを通り過ぎて停止線で止まる度、都心だから信号が多くてよく捕まるね、と言う彼はバツが悪そうで私も居心地が悪い。はしゃいだテンションで高速に乗るの?と聞いたせいだ。いちいちバツが悪いのだろうと少し申し訳なくなる。
彼の肩に片方の手を置く力がなるべく自然なものになるように意識した。手を置いた肩は丸まっていて、緊張したように張っている。何かあっても大丈夫なくらいで手を置いた。あまり気にならないように。猫背だから数字の身長よりも低く見える、と自己申告した彼の猫背はバイクに乗っているからこそかもしれない。そう感じた。
信号が遠い道でエンジン音が大きく響く。スピードを出す彼は、私を楽しませようとしているのだろうか、そんなことを思う意識が悲しい気がした。頭上に高速道路が重なりはじめ、微かに磯の香りがする。ジャンクションの隙間から近付いてくる工場群の、普段見かけない造形を眺めるのは刺激的で楽しい。
コンビニの駐車場ならバイクを止めて海を見に行くくらいの時間滞在できるだろうと思って目的地にしたのだが、コンビニの広い駐車場スペースには、遠くからでも分かるほど車とバイクが並んでいた。はじめはツーリング集団かと思ったが、車種もあまり揃っておらず、近づいてみると休憩というよりは、集まる事を目的としているようだった。二十歳も超えていなさそうな若年特有の筋肉質な細身、男女が複数の集団を作り、大変賑やかだった。
派手な髪色とタイトなデニム、白いTシャツ。少し前に流行っていた、文化祭の出し物に使われていそうなテンポの良い音楽があたりに響いている。遠慮なく私たちを見るその目には嫌な感じがしない。純粋な好奇心と、中高生の頃にカップルを囃し立てる賑やかしをしようと考えているような、そんな懐かしい表情を思い出して重ねた。
カラフルな頭髪の隣を抜けてコンビニに入る。既に零時を過ぎていてお互いお腹は空いていなかった。とりあえず入ったコンビニ内で飲み物を買うのもバイクで来ている分躊躇われて、アイスを買うことにした。燃料代や、平日の真夜中にバイクを走らせてくれたことに対して何もできていないので、せめてアイスくらいは奢らせて、と言って携帯で払う。三百円にも満たない価格に申し訳なさと情けなさが募る。自己満足、の四文字が浮かんだ。
コンビニから離れた、海の近くの駐車場に着いた後、地元にいた派手な子達って夜はこういうところに居たんだね、と呟く。それに対して、まだいたんだね。ああいうの。と言っている彼はいつも通り遠い。はじめてこの人と出会ったとき、いくら言葉を尽くしても理解されないだろうと思った。その刹那の直感を今更裏付けるようで嫌な気持ちになる。
袋を開けようと両端を掴んだ。アイス溶けてない?と、そう私にはにかみながら聞いた彼は、多分アイスが溶けようと気にしていない。
海が見える場所に移動しよう、と言って遠くを見つめている。猫背の彼が遠くを見ているのは分かり易く、器用にアイスを食べながら歩き出す彼を追った。
木の棒を伝う液体が指に届いて、彼に借りたジャケットが汚れたらどうしよう。と反射的に物事が上手くいかない可能性に神経が張った。これ以上彼に迷惑をかけたりするのは嫌だった。
腕の方に垂れないよう、地面と水平にしたバニラアイスの四隅からぽつぽつと駐車場にシミができる。"駐車場にベタつく砂糖水を落としている、公共性を意識できない自分"のことを考えた。先程からのすれ違いに心が移ろっている。神経質かもしれない。蒸発した水分と残った砂糖。わざわざ想像して苛つくのは馬鹿馬鹿しいが、暑さで溶けたアイスの汁は確実な汚れになり、海を見るために車を停めた誰かが嫌な気持ちになるかもしれないことが嫌だった。そして、彼がそんな私を置いてさっさと前を行ってしまう。私が出発前に「夏だから海が見たい」と言ったから。 それを叶えようとしてくれているのだろう。
ここまでの道のりでの優しさを、私は何も返せていない。その対等ではない関係性が、今の自分を見てほしいと我儘を言えないことに繋がっていて、苛立ちが募る。身勝手な気持ちに、また苛立つ。 目の前の人が望む自分像よりも、公共が求める最低限のデリカシーを優先する自分が今一緒にいる矛盾に腹が立つ。 少し振り返って立ち止まってくれた彼の姿に悲しくなった。ちょっと待ってほしい、と言えない関係性なのに、どうしてここまで来てしまったんだろう。
駐車場から海に面する遊歩道に出るまで続く道はちょっとした林のようになっていて、地面が土になったところで少し気が楽になった。
レンガを敷き詰めた遊歩道と海を隔てる鉄柵が見えてきたとき、棒を中心に2センチ程残ったアイスの輪郭がツヤツヤと光を反射していた。地面に落ちるのがもったいなくて、冷たいことを覚悟でアイスを全て口に放り込み、彼の隣に並ぶように早歩きをする。
隣に並んだ私の方を向いて目を細めて、口角をこわばらせるようにはにかみながら言う。手を繋ぎたかったけどアイスでベトベトだ、と躓いたら指先が触れそうな距離に自分の手のひらを表にして握手の形で持ってきた。私もいま海に手を漬けたいくらい!こうしてと言いながら海側に手を持って行って沈めるジェスチャーで返す。彼は残念そうな顔をして、私も胸が痛む。来たことをもう一度後悔した。
黒々とした水面を反射する工場群の赤と白と黄色の光の蠢きが水の力強いうねりを感じさせた。幼い頃に観た昼間の海の中に泳ぐ大量のミズクラゲの、柔らかな輪郭の四葉の形は探せそうにもなく、夜の海がこんなに黯いものだとも思っていなかったことで今初めて夜の海辺で海を見たのだと気づく。
しばらく海を見ている私の隣で足元の海を見ることはやめて、下向きの視界の端で鉄柵からはみ出すように肘をついている。工場群の光と、首を傾けた麒麟のように見える巨大なクレーンが綺麗で珍しく、海を見に来たって感じでは無いけど、工場群がとても綺麗だね、と言う。周囲に視線を向けて、大きいが住宅ではないのか窓に明かりの灯っていない高層のタワービルをなんの建物だろうね、と指差す。マップを開いて検索していると、必要以上に顔を寄せてきて、ふんわりと別の建物を探すふりをして顔を遠ざけた。
帰りのマップは必要か聞くと、帰りは自宅までで良いんだっけ、と聞かれて、近くのコンビニまで送って貰えたら嬉しいと返す。停止線の度に彼の猫背とヘルメットが私にしなだれかかってきて、帰りは遠くの信号機ばかりを探した。楽しい時間を共有するだけで満足して欲しかった。甘い雰囲気を期待して行動しているようなそれらに、苦々しい気持ちになる。もうそんな関係ではないのに。
コンビニの駐車場まで送ってもらったあと、「今日は遅くまでありがとう。楽しかった。じゃあ、気を付けて帰ってね」と切り出して、ジャケットを返した。背中を軽く叩く。私に待っていたのは「うん。また、おやすみ」の前のしばらくの沈黙と眼差しで、それこそ私と彼がそれぞれ望んだ関係で行動した結果だった。
コンビニではいつもの同い年くらいの年齢の店員が入ってきた私を一瞥してからフライヤーに目線を戻した。ガラス張りのドアを開けて強炭酸のソーダ水を左手に抱え、棒状のチーズとキャベツの千切りを取ってにレジに向かった。手を拭く店員に煙草もお願いしてもいいですか、と伝える。いつもの8ですか、と聞かれて、そうです。すみません。と言った。
コンビニから出ると既に彼の姿はなく、コンビニの喫煙スペースでタバコのビニールを剥きながら、いつも手捌きが良いので先に煙草も頼むつもりがあると伝えようとしたのだが、逆に確認の手間を増やしただけだったと反省した。
炭酸水のペットボトルを地面に置く。乗り慣れないバイクで変な風に筋肉を使ったのか、勢いよく置いてしまったペットボトルの水平線に泡が立ち上った。予期しなかったことに一瞬強張った上体を起こして何事もなかったかのように取り出した煙草に火をつけ、当たり前のようにじりじりと赤く短くなっていく火口を眺め、何処となく首を傾けて狭く小さな空を見て息を吐き出した。暗いが雲があることだけが分かる空だった。何も思うところのない、力強くもない空を見て、今日はペットボトルを開けずに寝ようと思った。火を付けたばかりの煙草をゆっくりと吸うことに決めた。
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