第15話 神様、人間になる
完全に日が没していた。
空は黒く、雲はほとんどない。宝石が散りばめられているような星空だ。
「全身痛てぇ……」
意識を取り戻した丈一は全身の痛みに不快感を覚えて、言う。
「目を覚ましたか」
二人は堤防にいた。
浬は家に帰ろうと思っていたのだが、海の前で立ち止まった。少し、考えたかった。
「…………ん?」
堤防の上に寝ているというのに丈一の頭には柔らかな感触があった。数秒ほどの思考の後、丈一は自分がどういう状態にあるかを理解した。
これは膝枕だ。
「…………っ!」
起きあがろうとして、頭を上から押さえつけられた。
「落ち着け。よく一緒に寝てただろう?」
「な、何年前だよ」
諦めて、膝枕の体勢のままでいる事にした。
「……すまなかったな、丈一」
浬は優しい手つきで丈一の頭を撫でながら謝罪を述べる。
「……何で浬が謝るんだよ」
意味が分からない。
「あれは、私が居たからだ」
早くに、海に戻っていれば今回のようなことにはならなかった。丈一が不当な暴力を振るわれることはなかった。
早くに、穂波家での日常から抜け出していれば、誰も傷つかずに済んだ。
「丈一はずっと、私にもう戻って良いと言っていたのに」
丈一の言葉を信じれば良かったのだ。
「私が、帰らなかったから」
罪悪感で歪んだ顔が丈一からはよく見える。
浬がこれほどまでに苦しんでいるのを見るのは彼には初めてだった。
「浬」
いつも笑っていたから。
「……あれ、嘘だよ」
丈一は浬から目を逸らして、独り言のように語り始めた。
「帰っていいっての……嘘なんだよ」
気恥ずかしくて、目を合わせられない。本音だからこそ、余計に。
「いつも浬が、嫌だ、帰らないっていうから……安心してた。浬がまだ、ここに居てくれるって」
浬に甘えていた。
帰らないだろうと分かっていたから、言い続けていたのだ。
「でも、俺は……浬が海に帰るって言ってたら、引き留めてる」
だから。
「……今、必死に引き留めてんだよ」
まだ行くな。
寂しいから。自分はまだ孤独なままだから。だから、帰らないでくれと。
「今帰ろうって、思ってるよな?」
彼の問いかけに、浬が優しげな声で言う。
「丈一なら『大好きなおねえちゃん』はもう大丈夫だろう?」
彼女は儚げに微笑む。
「俺は……俺はっ、お前に居て欲しいんだよ!」
丈一は上半身を起こして、浬の青い瞳をまっすぐに見つめて声を張り上げた。
「おねえちゃんじゃないんだよ……浬は、浬だからっ」
代わりなどではない。
もう、そういう話ではなくなっている。
幼馴染が欠けて生まれた寂しさを埋めてくれた彼女は、もうその場限りの存在などではない。
気がつけば、穂波浬は穂波丈一にとって欠かせない唯一無二になっていた。
「……私は海に戻らんとな。今回みたいにこれからも、お前に迷惑をかける」
力なく笑う彼女に「まだやりたいゲームあるんじゃないのかよ!」と少年が叫ぶ。
「観たい映画だってあるだろ!」
読みたい漫画も、他にもたくさんあるはずだ。
「……仕方ないから」
浬は怪物だ。海の神だ。島にいるべきではない。一緒に居たくとも、居てはならない。人間ではないから。
「諦めろ、丈一」
この言葉はきっと彼女にも向いていた。
自分自身にも言い聞かせる言葉であった。
人間ではないのだから。
こうして六年もの間、人間のふりをして生活できていただけでも充分だ。これ以上を求めてはならないのだ。
「よし……私は直ぐにでも帰ろうと思う」
堤防で彼女は立ち上がった。
「覚悟ができた」
思い立つ日が吉日。
引き延ばしては覚悟が鈍ると、浬は考えた。
「俺は、できてないよ……」
どうして勝手に一人で納得しているのか。丈一も立ち上がって、耐えるように拳を握る。
「
浬の言葉に丈一が被せる。
「見つけらんないんだよっ!!」
彼の声が静かな海辺に響いた。
「俺は! 俺はっ……
喉の奥はひくついて、声はしゃくりあがる。まるで子供が泣き言を言っているように聞こえる。
「一緒にゲームやって、アニメ見て、漫画読んで。くだらない話して! 俺は、ずっと一緒に居たいのにっ」
どうして条件を変える。
「…………仕方ないだろ」
浬は怪物だったから。神なんてモノになってしまったから。
自由に生きられない。人間であったなら、こんな事で悩まなくても良かったというのに。人間として生まれていたのなら。
「仕方ないってなんだよ!」
「私、だって……」
数百年の中でのたったの六年。
それでも色濃い鮮やかな記憶。
海底で暮らした何百年よりも華やかで、楽しくて、この生活が続けたくて。
人間として生きられたなら、この記憶は些細な物ではなくなっただろうに。
神の長い長い、終わりのない記憶の中で、この短い、丈一に関する記憶が消えていくかもしれない。
「私は海の神だから」
それでも、諦めるしかないのだ。
このままではならないから。
『────なんだ、海の神。お前……人間になりたいのか』
浬の耳に、声が届いた。
「何の話だ!」
突然に入ってきた声に、浬は大声を上げた。
『お前は儂の一部だ』
何を思っているか。
どうしたいのか。
『儂には分かっている。お前は、人間になりたいんだろう? その小僧と一緒に居たいんだろう? 海の神としての役割が煩わしいんだろう?』
なら代わってやる、と語りかける。
「何が目的だ」
『目的か。まあ、そうだな。分かりやすく言えば、お前の信仰を全て儂が奪えるというのが利点でな』
海の神が神である事を投げ捨てれば、同一視されている島の神に全てが流れ込む。
『悪くない話だろう? 儂は信仰が手に入り、お前は人間になれる』
互いに利益がある話だ、と島の神が持ちかける。
「浬……?」
何かあったのかと心配そうに見つめる。
『さあ、どうする? ここで人間になればお前は二度と海には戻れない。寿命も人間のものになる』
利益はないように思えて。
『だが、ここで人間になればお前が望むように、共に生きられるかもしれんぞ』
あまりにも神の言葉は甘美にすぎて。
『選べ』
浬に人間になりたいと思わせる。
「なあ、丈一」
呼びかける。
「私と一緒に居たいと言ったな」
「うん」
「……私が神でなかったとしてもか?」
「当たり前だろ。俺は、浬が浬だから……一緒に居たいんだ。神だからとかじゃないよ」
「でも。私、弱くなるぞ。丈一の事、守れなくなるぞ」
「……なら、その分俺が強くなるよ。浬の事守れるように」
浬は右手の小指を立てる。
「ほら、丈一……指出せ」
「ああ」
小指同士を絡ませる。
「神様との約束だぞ。絶対に強くなるんだ」
少女は笑みを浮かべて、叫ぶ。
「島神! 私はお前の誘いに乗ってやる!」
『くははははっ! 決断が早いな。後から神に戻してくれと言っても聞かんからな!』
劇的な変化は起きない。
眩い光が発せられる事もない。
「……人間だ」
当事者である彼女は自らの身体が完全に人間のものになっている事を理解していた。
「丈一!」
「おわっ、浬!」
勢いよく浬が抱きつく。
丈一は海に落ちないように何とか支える。
「私は、人間になったぞ!」
神から人間に。
明らかなスケールダウンだというのに。彼女は幸せそうな顔をしていた。
「人間だ! 人間! 島神のおかげで人間になったんだ!」
「一緒に……」
「ああ、一緒にいられるぞ。丈一!」
少女と少年は抱きしめ合う。
少年は良かったと涙を浮かべた。
『……お前も、この島にいる以上は儂の
神の声はただの人間の二人には届いていない。
きっと二人は島の神への感謝を忘れる事はないだろう。
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