第3話

 過去に覗かれている。

 霧のようにもやもやとした実態のない過去が、鍵盤の隙間から這い出して来てはニヤニヤとした顔をして、私を憐れむように覗き込んでくる。それはともすれば強烈な不快感を伴って神経を逆撫でするから、鍵盤を叩く指には自然と力がこもる。

 しなやかさを忘れた指先が打ち鳴らす音は不快だ。音楽ではない雑音の羅列。こんなものを生み落としたってどうにもならない。演奏にはならない。

 だからこそ、私はやめなかった。

 這い出してくる過去を細く頼りない指で叩き潰して、少しだけマシな今へと塗り替える。潰しては塗り、また潰す。そうするうちに過去はどんどんと小さくなって、三日もすればもうほとんど力を込めずとも潰せるようになった。少しだけしなやかさを思い出した指先が、やっと音を響かせ始めた。

 『夏になる』を練習し始めたのは、週明けの月曜のこと。昼休みの音楽室。栗花落さんが「今週から、頑張ってみようか」と言って楽譜を広げた。伴奏用だからか、音符と音符の間がかなりスカスカに見える。小学生の時に練習していたクラシックの方がよほど難しそうだ。

 これくらいなら、今の私にもすぐに出来そう。そう思って弾き始めてはみたものの、やはり上手くいかない。初めて弾く曲はやっぱり指先の戸惑いがそのまま出てしまう。目で楽譜は追えても、指がその命令を聞いてくれない。指同士が絡まり合うようにもつれて、隣の鍵盤まではみ出してくる。ドを出したいのにシドになる。ひどい時はシだけになる。

「焦らなくていいよ、ゆっくりやろう」

 栗花落さんに言われるまで、自分が焦っていることにすら気が付かなかった。曲のテンポをぐっと落として、もう一度最初から練習する。パソコンを初めて触る人が恐る恐るキーボードをタッチするように、のそのそと歩くようなペースで一音ずつ確実に打鍵する。

 正直、この練習は好きじゃない。前に進んでいない気がする。同じ場所でずっと足踏みしている気がする。でもその足踏みが地盤を確実に固くしているのも確かだった。

 そうして『夏になる』の昼休み練習を始めてから五日目の金曜日。今週最後を飾る今日、六限目はホームルームの時間――つまり、授業時間五十分をまるまる使っての合唱練習だ。今頃はもう各パートに分かれて練習が始まっているだろう。

 そんな中、もはやすっかり通い慣れた音楽室でひとり、私はピアノと向き合っていた。ピアノを通して過去と向き合っていた。

 あの日――ここで栗花落さんと一緒に初めてピアノを触った日から比べると格段に良くはなっている。あれから毎日、お昼ご飯をすぐ食べてから一日に三十分は練習して来た。練習時間としては短すぎるけれど、栗花落さんが付いてくれたおかげで質としてはかなり良かったと思う。その証拠に昨日の時点で、遅めのテンポではあるものの『夏になる』を最後まで弾き切ることには成功した。あとはテンポと精度を上げれば、伴奏として本当に必要最低限のレベルはクリアできる。

「……大丈夫」

 ちゃんと上手くなっている。少しずつ上達してる。

 そう自分を奮い立たせるように呟いて、私は今日もこのトムソン椅子のクッションへと腰を落とした。

 栗花落さんはまだ来ていない。きっと他のパートリーダーや紫陽里との打ち合わせをしているんだろう。でも今は少しでも弾いておきたい。ちょっとでも練習しておきたい。

 だって紫陽里が、私の伴奏を待っているから。

 指をそっと鍵盤に這わせる。大きく深呼吸をする。

 少しテンポを落としたベースラインの音が鳴る。まだ硬い。音に柔らかさがない。でも今はまだ、それでいい。ミスタッチに気を付けながら、一音ずつ丁寧に鳴らしていく。

 続けて右手も合流させた。高い音が加わると、なんだか曲としての片鱗が見えてくる。

 さあ、前奏はここまでだ。ここからはついにみんなの歌と合わせるパート。集中していこう。大切な入りの第一音は、特に。

 指につい力がこもりそうになる。それを意識的に抜いて柔らかくしなやかに、だけれどもしっかりとその鍵盤へと、指を――

「おっつかれー!」

 朝の森のような静けさの中に、忽然と嵐が巻き起こる。思わず肩がびくんと震えて、叩く鍵盤を盛大に間違える。どがしゃーん、とけたたましく崩れた騒音をピアノが苦しそうに吐き出す。

 唖然とした。台無しだ。ミスタッチで済むレベルではない。だから私は反射的に指を止めて、そうさせた原因の方へと向き直る。

 そんな私を、なぜか驚いたように見つめ返す二つの瞳。

「び、びっくりしたぁ……」

 いや、こっちのセリフだよ。口には出さずにじとーっとした湿っぽい視線でそう訴えかけてみる。けれど歩み寄ってくる腐れ縁はそれを分かってか分からずか、すでに表情の信号を笑顔へと切り替えていた。

「どう、練習は順調?」

「うん、いい感じだったよ。紫陽里に邪魔されるまでは」

「あはは。またまたー」

 紫陽里が悪びれもなく笑う。だから私も負けじと満面の笑みを浮かべる。

 そうしたらさすがに、彼女の表情が少しだけ陰った。

「……もしかして、ちょっと邪魔した?」

「どう思う?」

 貼り付けたような安っぽい笑顔を絶やさずに、目の前に立つダイスキな幼馴染を見つめた。彼女の眉がぴくっと動く。笑顔がだんだんと引き攣っていく。だめだ、ちょっと面白くなってきた。

「それで、何しに来たの? まさか邪魔しに来ただけ?」

「あぅ……練習の、付き添いに」

「付き添い?」

 首を傾げる。そうしたら今度こそは私の訴えが伝わったらしい。紫陽里はこほんと喉の調子を整えると、

「今日はね、千明と交代してもらったんだ。千明が各パートを回って、私が舞桜のサポートなの」

 そう言い切って、少し笑顔を取り戻す。

「サポート……?」

 対する私は、傾いた首の角度をキツくする一方だ。

 サポート、というからには、栗花落さんの代わりに来たんだろう、たぶん。代わってもらったとも言ってたし。

 いや、だけど……

「紫陽里、ピアノ弾けるの?」

「やだなぁ、弾けるわけないじゃん」

「何かテクニック的なことが分かるとか?」

「分かるわけないでしょ、弾けもしないのに」

「じゃあ何、栗花落さんから伝言でもあるとか?」

「ううん。別に?」

「え、ほんと何しに来たの???」

 頭の中がパニックになる。目の前できょとんとする幼馴染が「だから、サポートだよ」って繰り返すから、ついに頭上でハテナが踊り出した。

「千明から、舞桜が通しで弾けたって聞いたからさ。指揮者として様子を見に来たってわけ」

 ああなるほど、そういうことか。だったらサポートなんて回りくどい言い方せずに最初からそう言えばいいのに。まあとりあえず紫陽里の意図は分かった。

 そういうことなら、心おきなく断れる。

「別に見てもらうほどじゃないよ。まだ未完成だし。私はいいから、他のパート回ってあげれば?」

 あしらうようにそう言う。でも決して意地悪で言ったんじゃない。

 通しで弾けたとは言ってもテンポを遅くしてという条件付き。それにミスタッチだってまだ多い。とてもじゃないけれど、まだ伴奏と呼べるレベルじゃない。紫陽里に見せられるレベルじゃない。

 それにクラスのみんなからしたって、紫陽里には各パートをちゃんと見て回って欲しいはずだ。自分たちの歌を聴いてもらって、指揮者の意見を聞かせて欲しいはずだ。それがクラスと合唱のためだ。

 だけど、

「そうはいかないよ。未完成でも何でも、私にもちゃんと聞かせてもらわないと」

 どうやら彼女に引く気はないようだ。でもその頑固さに私の心はささくれ立つ。

「いいから、早く行ってよ。私なんかに構っている暇ないでしょ」

「うん? なんで?」

「なんでって……あなたの今の仕事は、各パートのサポートでしょ。パートの音を聞いて、意見を言ってあげることでしょ」

「そうだよ? だから来たんじゃん」

「なに、どういう――」

「だって伴奏も、合唱のパートの一つでしょ」

 咄嗟に言い返そうとして――でもその口から、言葉が出てくることはなかった。

「未完成でも、失敗してもいいからさ。私に、今の舞桜を聞かせてよ」

 あまりにも真っすぐな瞳で紫陽里は私に向き合う。私の胸を透き通って心の奥底まで覗き込んでくるような、それなのに嫌な気持ちが全然しなくて、むしろなんだか心地良い気さえしてくるような不思議な感覚を覚えてしまう。

「……分かった」

 だから、もう一度ピアノに向き直る。紫陽里の視線を受けながら、もう一度鍵盤に指を置く。

 伴奏も、合唱のパートの一つ。

 そう考えたことなんて、今までに一度もなかった。

 私はみんなのパートを補佐する側で、みんなの輪の中から一歩引いたところにいて、だから自分自身がパートの一つだんて、そんなこと思いもしなかった。

 ああ、なんか今日なら弾けそうだ。

 根拠もないのに、どうしようもなくそう思った。

 左の指を動かす。さっきと同じ鍵盤を抑える。並んだ白黒の線を見ながら素早く、連続的なステップを踏むように軽やかに叩く。あの日見た紫陽里の指揮、そのリズムを思い出しながら指の速度を合わせる。そのテンポに置いて行かれないように一生懸命、力を抜いてしなやかに、必死で追いすがるように走る。速度は落とさない。本番と同じ速さでただひたすらに指を走らせる。

 テンポを抑えた時よりミスタッチは増える。ラじゃなくてソが、レじゃなくてミが鳴り響く。

 だけど止めない。それくらいのミスで止まっていられない。紫陽里が見ているんだ。だから私は、紫陽里の指揮のテンポで弾くんだ。 

 だって伴奏も、パートの一つだから。

 ソプラノ、アルト、男声と同じ、私自身もパートだから。

 だからせめて紫陽里の前では、パートとしての私を見せるんだ。


 紫陽里に、今の私を見せるんだ。


 気が付けば、もう最後の音だった。

 四分三十五秒の終わりを告げる最後の音が、音楽室を満たしていく。

 名残惜しさを感じながら鍵盤からそっと指を離した。ペダルからも足を離すと、そこで音が途切れた。

 いや、途切れてはいなかった。別の音が響いていた。拍手だ。紫陽里の拍手が、私の演奏を引き継ぐようにして音楽室に響いていた。

「いいじゃん! すごいよ!」

 拍手の音に紫陽里の声が混じる。突き抜けるように無邪気で、感情をむき出しにしたようなその声音が、私の心に響いていく。

 ただ弾いただけなのに。こんなみっともないミスだらけの演奏を、いつもの音楽室で弾き切っただけなのに。なのにどうして今、私はこんなにも満ち足りているんだろう。どうしてこんなにも嬉しいんだろう。

「ありがとう」

 そう発した口元が、知らないうちに綻んでいた。

 それからもう一回弾いた。それが終わったらもう一回弾いた。時間いっぱいまで紫陽里の前で『夏になる』をひたすら弾き続けた。

 ミスがゼロだった回はない。強弱の表現もまだまだだ。ペダルの使い方だって下手くそで、音に色だって載っていない。理想とする演奏の輪郭すらも見えてこなくて、ただただ気が遠くなる。

 だけど、私のピアノだって気がした。過去に覗かれて指を動かすだけじゃない。私自身のピアノになってきているって思った。

 だからどうしても、やってみたくなった。

「紫陽里」

 全体練習前の最後の一回。その最後の音が響き終わった瞬間、思わず口にする。

「この後の、全体練習だけどさ――ここでやろうよ」

「え? 音楽室で?」

 私は頷く。

「弾いてみたいんだ。紫陽里の指揮で」

 その申し出に彼女は驚かなかった。ただ満面の笑みで頷いて、一目散にドアから飛び出して行った。



 黒板前に整列した三十八人を見て、ただわくわくした。伴奏に自信があったわけじゃない。いきなりミスなく弾けるわけない。でもみんなと、紫陽里と一緒に私も参加できる。パートの一つとして合唱に混じることができる。そう思ったらわくわくしないわけがなかった。

 下手でもいい。間違えてもいい。とにかく楽しもう。紫陽里の指揮の元での伴奏を、ただ楽しもう。

 鍵盤に指を置き、紫陽里の合図を待つ。指揮台に上がった彼女はふわっと微笑んで私を見る。手を胸の前に構え――そこからさらに振り上げてから、一拍目。

 私のわくわくが続いたのは、そこまでだった。

 開始早々に私はミスをした。ラを弾こうとしてソになった。なんてことはない、よくあるただのミスタッチ。

 でもこれが致命的だった。このたった一つのミスタッチのせいで、私の伴奏はぐずぐずに崩れた。

 私が外したのは、ゆったりとした曲調で始まる前奏のベースラインの一音。つまり一つ一つの音が主役で、それをゆっくりと丁寧に響かせる必要がある箇所だった。

 曲が激しく盛り上がる箇所のミスと違って、ゆったりとした箇所――とりわけ歌がない前奏でのミスというのはものすごく目立つ。誤魔化しが効かないからだ。次々と鍵盤を叩いて音を重ねていく個所や合唱が盛り上がる箇所では、多少のミスタッチは他の音や歌に紛れてしまって意外と気にならない。でもゆったりとした前奏では、外した音がそのままストレートに鳴り響いてしまう。休み時間に鉛筆を落としたって誰も気にしないけれど、テスト中に落としてしまったら全員が気が付く。同じミスタッチでもそのくらい質が違う。私がやってしまったのはもちろん後者。

 だからその音が響き渡ったとき、クラスメイトの何人かがばっとこちらを見たのが分かった。紫陽里の指揮に集中していたつもりだったのに、どうしたって視界の端にそれが映りこんでしまう。

 でもそれだけなら、きっとここまで動揺することもなかった。一番問題だったのは、練習の時にこの部分でミスしたことなんて今まで一度もなかったということだ。

 本当に一度たりともなかった。苦手な右手のメロディラインでのミスタッチならまだしも、単調な左手のベースラインの前奏なんて今まで外したことがない。だから完全に油断していた。何度もミスするだろうとは覚悟していたけれど、まさかこんなところでミスをするなんて思いもしなかった。

 だから私は動揺した。激しく焦った。肩に力がこもり、指先がぎゅっと固まって、ピアノの吐き出す音が濁る。それを何とかしようと指先ばかりに意識を遣って、紫陽里の指揮が見えなくなる。いつの間にかテンポが先走り気味になっていたのに気が付いてその修正に意識を持っていかれる、だからまたミスタッチが増える――

 そこからはもう、その悪循環だった。その渦の中から抜け出せなかった。足掻けば足搔くほどペースが乱れて、増幅した焦りと後悔だけが心に残る。

 あの時みたいだった。グラウンドに一人取り残されて、全校生徒の注目を集めてしまったあの時。自分のペースを見失って、ひとりで勝手に焦って、そうしてただひたすらに惨めな苦しさだけが胸を貫いたあの日の記憶が、鍵盤の隙間から這い出して来て笑い声をあげているようだった。

 歌の一番目が終わったとき、紫陽里が不意に指揮を止めた。本来なら今日は最後まで通してみる予定だったはずだ。どうしてそうならなかったのかは、誰の目にも明らかだった。

 紫陽里がみんなに向けて何やら話している。私は鍵盤を見つめたまま顔を上げられない。開いたままのはずである耳に声が言葉として入ってこない。何て言っているのか分からない。

 紫陽里の声が止まる。みんなのざわざわとした声と足音が聞こえる。私は伏せたままだ。ただ顔を俯けたまま、縮こまった小さな肩をわなわなと震わせているだけだ。

「まお」

 顔を上げられなかった。上げられるわけなんてなかった。折角の今週最後の練習を、私が滅茶苦茶にした。私が調子に乗ったせいで、出来るかもなんて思ってしまったせいで、みんなの合唱をぐちゃぐちゃにしてしまった。

「舞桜」

 肩にそっと手が置かれる。びくんと身体が跳ねあがって、視界がさらに深く沈む。規則的に並んだはずの鍵盤が、不規則に歪んで揺れている。波打つように揺れ動いて、私を嘲っている。

「顔、上げて?」

 ひどく優しい声だった。ずっと昔から聞き馴染んだ、大好きな声音だった。

「大丈夫だよ。もうみんな、帰ったから」

 その言葉でやっと、私はゆっくりと顔を上げる。

 彼女の言うとおり、もう誰も残ってはいなかった。目の前で私を穏やかに見つめる紫陽里以外、もうここには誰もいなかった。

「ありがとう、弾いてくれて」

「……やめてよ」

 微笑んだ紫陽里に、思わず声を刺してしまう。弱々しくて棘のある声を何も悪くない紫陽里へと差し向けて、たまらなく虚しくなる。

「ねえ、舞桜」

 紫陽里が何か言おうとしている。聞きたくなかった。今はどんな非難の言葉も、あるいはどんな慰めの言葉だって心に入れたくはなかった。だからせめて、目だけをきゅっと瞑った。

 紫陽里の柔らかい手が指先に触れた。鍵盤の上の指先に重なるように置かれて、それがきゅっと握られる。

 息を吸う音、その直後。

「特訓、しよっか!」

「え……?」

 あまりに予想外な弾む声音に、思わず視界が開けた。


 ***


 土曜日の校舎の顔を、私は今日初めて知った。

 陽の高くなる十二時四十分、グラウンドからは野球部の雄叫びと打球音、校庭には走り込みの掛け声が響く。校舎に入れば運動部の音は少し鳴りを潜めるけれど、軽音部のギターと低いドラムの振動がよく響いてきた。音楽室に行くまでに何人もの生徒とすれ違い、静かなはずなのに妙な活気がある。

 もっとひっそりとしているのかと思っていた。少なくとも、中学の時はそうだったと思う。

 音楽室の厚いドアを閉めるとそれらの音は一気に遠のいた。あれだけ人の気配を感じた世界から、私だけが切り出されてしまったみたいに思える。窓の外から微かに響く打球音と雄叫びだけが、私を現実に繋ぎ止めてくれているような気さえした。

 約束の時間まではまだ少しある。だったらやることは一つだ。

 部屋の隅で息を殺したように佇む黒い三つ足へと歩みを進める。屋根を開いて内部にずらりと並んだフェルトのハンマーと張られた弦を外気へと曝け出す。前へ回り込んで椅子に着き、目の前の蓋を持ち上げて、閉じ込められていた八十八本の鍵盤たちを解き放つ。

 そうしたらやっと、ピアノが呼吸を始めた気がした。

 こいつでの昨日の失敗の記憶は――まだ、鮮明に残っている。焦り、惨めさ、後悔。鍵盤に指を置いてみただけで少し呼吸が、鼓動が荒くなるのを感じる。

 だけど――

 その時。ガチャリという音がして、思わず指を引っ込めた。

「あっ!」

 入り口から中を覗き込むようにして顔を見せた紫陽里が、私を見つけるなり溢れそうな笑顔を振りまいて駆け寄ってくる。かと思えば突然はっとした表情に切り替わり、わざとらしいくらいの忍び足。

「お邪魔しま〜す……」

 細々とした声でそう言いながら、そろりそろりと近寄ってくる。私が練習中だと思って、音を立てないように気を遣っているつもりだろうか。

「まだ弾いてないからいいよ」

 そう言うと、紫陽里は抑えていた息を大きく吐きながら「なんだよー、そうならそうって言ってよぉ!」と表情を緩めた。いや別に、誰もそこまでしろとは言ってない。

「おつかれさま、秋川さん」

 見れば彼女の後方に栗花落さんもいた。ゆったりと歩んでくる彼女に挨拶を返す。

「二人とも、休日なのに制服なんだ。真面目だねー」

 何気ない様子で紫陽里が言う。確かに彼女は我が校指定の体操服に身を包んでいる。トムソン椅子のクッションを思わせる臙脂色のそれ。私は個人的に、あんまり好きじゃない。

 でも私が今日制服で来たのは、何も体操服の色が気に入らなかったからじゃない。休日に登校するみんながどんな格好で来ているのかよく知らなかったからだ。

「合唱部はね、休日もみんな制服なの」

 私と同じ白の夏服に袖を通した栗花落さんが可愛らしくはにかむ。でも入学してから同じ期間だけ着ているはずなのに、彼女の方がずっとそれを着こなしているように見えるのはどうしてなんだろうか。

「文化部って確かにそうかもね。いやー、体育館にいるとどうしても体操服ばっかりだからさー」

 そう口にして意味もなく笑う紫陽里に、栗花落さんも自然と笑みを返す。とりあえず制服でも変ではないらしい。そう分かって私はひとり、隠れて胸を撫で下ろしていた。

「さっ、じゃあ揃ったことだし、ちょっと早いけど特訓しよっか!」

 場を仕切り直すかのような指揮者の合図で、唐突にそれは始まる。

 特訓――すなわち休日練習。昨日の失敗を糧に、と言うとカッコつけすぎだが、紫陽里曰くそういうことらしい。

 まあ理由はどうあれ、私も休日練習の必要性については以前から感じていた。昼休みだけの練習じゃどうしても限界があるけれど、放課後は音楽室も体育館も部活で使われている。そもそも合唱コンクールがもっと近くなれば、他のクラスだって昼に音楽室を使い始めるだろう。そうなれば自由にピアノを練習できる時間は大きく限られることになる。

 だからこそ休日、だからこそ今。昨日の失敗があってもなくても、これは必然なんだ。必要なことなんだ。そう自分に言い聞かせるように、胸の中で言葉を並べていく。

「じゃ、舞桜。早速だけどいける?」

 小さく頷いて、私はピアノに座り直す。譜面台に楽譜を広げて、小さく息を整える。じっと見つめてくる鍵盤たちを睨み返すようにして、そっと指をその上に重ねた。

 思わず目を閉じる。二人の視線を感じる。見守るように向けられた視線が、私の心にやわらかく刺さる。

 二千メートル走、あるいは初めての伴奏。

 あんな思いはもう二度としたくなかった。ピアノなんてもう二度と弾きたくなかった。やっぱり私に伴奏者なんて無理だって、そう言って逃げ出してしまいたかった。

 だけどそう思うたびに、あいつの顔が頭に浮かんできて仕方ないんだ。

 舞桜のピアノと合わせるの、すっごく楽しみにしてるんだから!

 どこまでも無邪気に透き通るようにそう言った、あの声音が忘れられない。指揮台の上から私を無条件に信じるように見つめてくる、あの真っ直ぐな瞳が忘れられない。

 だって伴奏も、合唱のパートの一つでしょ?

 どれだけ振り切ろうとしてもダメだった。弱音を吐こうとするたびに、頭の中にはっきりと彼女のイメージが浮かんできてはそれを塗り替えていってしまう。

 だからもう弾くしかないんだと思った。必死に練習を重ねて上手くなるしかないんだと思った。だって私はあの紫陽里に目を付けられてしまったんだ。あいつの頑固さじゃ、今更辞めるって言ったって辞めさせてくれないだろう。

 だからもう、やるしかない。

 弾くしかない。

 指が動いた。鍵盤を押した。音が鳴った。低く響くベースラインの音が音楽室に鳴り響いて、その音色に突き動かされるように私の指がまた動く。テンポを落としてゆっくりと、そろりそろりと忍び歩くような『夏になる』が前へと進みだす。

 昨日ミスしたところに気を払いながら確実な打鍵を心がける。鍵盤の位置を指に覚え込ませるように、ゆっくりと丁寧に弾いていく。隣で見守ってくれている二人に示すように、ただひたすらに打鍵を続けた。

 そうして曲の一番を弾き終わったら、今度はテンポを少し上げてもう一回弾いた。さらに普通の速度でもう一回、今度は曲の最後まで。昨日と同じ速さだ。だけど演奏をやめたくなるほどのミスは、今日はしなかった。

 鍵盤から指が離れた時、二人から拍手が送られる。温かい拍手だ。紫陽里のは少しオーバーすぎるけど。

 そのあとはいつも通り栗花落さんからアドバイスをもらう。

「うん、すごく上達してると思う。ミスも減ってきたし、曲の速度にもちゃんと付いていけてるよ。強弱とか起伏とか、課題もまだあるけど……とにかく今は、たくさん弾き切ることが大切かな。そういうことは練習を重ねるうちに、見えてくると思うから」

 その言葉に頷いて、ありがとうと返す。最近栗花落さんはかなりはっきりと話してくれるようになった。良いところも悪いところもちゃんと言ってくれる。なんだか距離が近くなったようで、ちょっぴり嬉しかった。

 たくさん弾き切ること――とにかく、練習あるのみか。

 多少は滑らかに動くようになった指をもう一度鍵盤に這わようとした時。

「舞桜っ!」

 突然呼ばれて、ふと目を向ける。紫陽里が指揮台の上に立っていた。

「練習、せっかくだから」

 そう言いながら、右手を胸の前に構えている。一体何が折角なのか分からないけれど、彼女が何をしたいのかだけはちゃんと分かった。

 じっと紫陽里の目を見つめる。目の奥が優しく光っている。ふわっと顔の手前まで振り上げられた右手がすとんと落ちる瞬間、それに合わせるように動いた私の左指が鍵盤を捉えた。

 前奏が優しく始まる。紫陽里の指揮に、彼女のテンポに合わせた音色がピアノからするすると伸びていく。その仲間に右手も加えた。なんだか軽やかな気がする。紫陽里の指揮があるというだけで、何かが違う気がする。

 

 きみとすれ違ってもいいように


 歌声が聞こえた。どこからだろう、そう思うよりも先に、耳が紫陽里だと教えてくれた。紫陽里が指揮をする手を止めずに、大きく口を開けて歌っていた。


 約束の場所を決めておこうよ


 そこにもう一つ声が混じる。いつの間にか私から少し離れて、紫陽里に向かい合う場所に立った栗花落さんのアルト。二人の歌声は手を取り合うように響き合って、絡み合うようにして波打って、音楽室という空間の隅々にまで溶け込んでいく。

 

 何があっても私は そこで待っているから


 二人のハーモニーが美しく共鳴する中に私のピアノが飛び込んでいく。

 二人の歌は完璧だ。栗花落さんはともかく、紫陽里のソプラノも驚くほど美しい。

 いつだったか彼女が、指揮者だって歌ってみたいと言っていたことを思い出す。あの時はダメだって返したけれど、今もう一度同じことを聞かれたらダメだと言える自信がない。確かにこの歌声を閉じ込めておくのはもったいない、そう思ってしまうくらいに美しい歌声だった。

 対して、私のピアノはまだまだだ。完璧な二人の間に飛び込んで、だけど行き先を見失ったみたいにうろうろとしている。本当は伴奏が歌を引っ張って――いや、歌と一緒に歩いて行かないといけないのに、二人に支えられてなんとか地に足がついているって感じがする。

 でもそれでも、私は自身のピアノに確かな変化を感じていた。なんだかさっきまでより音が優しくなった気がする。角張って固かったのが丸くなって、紫陽里と栗花落さんとの間に引かれた見えない線の上をころころと転がるようだった。二人に支えられながらも、その道筋の輪郭をはっきりと浮かび上がらせるように、確かな音を響かせている。

 こんなにも違うんだ。指揮があって、歌がある伴奏は。

 私は昨日、これがしたかったんだ。

 昨日覚えた不安や焦りはない。恥をかきたくないとか、笑われたくないとか、ピアノなんて弾きたくないって気持ちすらもなくて、ただ噛み締めたくなるような楽しさがあるだけだった。


 それから何回も三人でコーラスを繰り返した。時間が過ぎるのも気にせずに、ただひたすらに指を動かし続けた。やればやるだけ上手くなっている気もするけれど、でも正直もうそんなことはどうでも良かった。こんなに楽しい時間を過ごせることへの喜び、私の中にあったのはそれだけだ。

 そうしてもう一度、最初から弾こうとした時。

「あっ、やばっ!」

 咄嗟に紫陽里が声をあげて、指揮台からぴょんと飛び降りた。

「時間、部活!」

 彼女が指差した先、壁掛け時計を見れば時刻はもう十五時手前。練習を始めてから二時間が経っている――ああそういえば、バスケ部は十五時からだったか。

「ごめんっ! 片付けとか鍵返すの任せちゃってもいい?」

「え? あ、うん。やってお」

「ありがとっ!」

 栗花落さんが言い終わるのも待たずに、紫陽里はスポーツバッグをそそくさと担ぐと「おつかれー!」と言い残して部屋を飛び出していく。残された私たち二人はすっと顔を見合わせると、どちらからともなく声を出して笑った。

「紫陽里ちゃん、忙しいね」

「ほんと、嵐みたいなやつ」

「うん、ちょっと分かるかも」

 栗花落さんが口元を隠してくすくすと声を零す。こんなに笑ってる栗花落さん、初めて見た気がする。

「どうする? キリもいいし、私たちも今日はここまでにする?」

「うん」

 首を振って、鍵盤蓋を閉めようと手を伸ばす。それが黒くツヤツヤした感触を確かめた瞬間、ふとその手が止まった。

「秋川さん?」

 動きを止めた私に栗花落さんが眉を顰める。

「あの、さ」

 歯切れの悪い声が出た。でもそれを気にせず、私はじっと彼女を見つめ返す。

「今日の最後にさ、ちょっとお願いがあって」

「お願い?」

 ことんと首を傾げた栗花落さんに、

「聞かせて欲しいんだ。栗花落さんのピアノ」

 そう言ったら、彼女のおっとりとした瞳が丸くなった。


 私に足りないものはなんだろう。その答えはあまりにも多すぎて全部答えるのは難しい。むしろ、私に足りているものを答える方がよほど簡単に思える。譜面を読めること、ピアノのどこを叩くとどの音が出るか知っていること、左右の指で別々の動きが出来ること、以上。つまり、それ以外の全部が足りない。

 その足りないを潰していくにはやはり練習しかない。でも闇雲に練習することには限界がある。だから栗花落さんはたまに、私の前でお手本を弾いてくれていた。曲の難しい部分や私がミスしやすいワンフレーズだけ局所的に弾いて、目標を示してくれていた。

 だけど私はまだ、彼女が弾く『夏になる』の全部を聞いていない。

 だからいつか聞いてみたいと思っていた。彼女の『夏になる』の全部を聞いて、それを参考に練習したいと思っていた。だから今、頼んだんだけど――正直言って、栗花落さんのピアノは私の想像を遥かに超えていた。

 まるで別物だった。同じ曲のはずなのに、栗花落さんは明らかに私と違う曲を弾いていた。

 ゆったりとしているのに、ちゃんと土台を築き上げるようにどっしりと安定感のあるベースライン。それに対してどこまでも明るく、海原を吹き渡る青い風のように爽やかなメロディライン。

 歌の始まりへと向けて昂るように盛り上がっていく前奏。歌が始まる部分からはすっと落ち着きつつ、だけれどもわくわくするような楽しさが表現されていて、サビでまた気持ちいいくらいに盛り上がる。

 間奏でもぐんぐんと前に出てくる。二番目に差し掛かったらまた奥へと引っ込んで、そしてサビでまた前へ――

 まるで生きているみたいだった。

 伴奏自体が一つのパートって、こういうことなんだと思った。

 同じピアノとは思えないほどに音色が桁違いに澄み渡っている。一体どうやったらこんな音が出せるんだろう。美しくピンと伸びた背筋、足での的確なペダル操作、しなやかな指先の動き、楽曲に対するはっきりとした理解度――多分、どれかというわけではない。どれもだ。そのどれもが私に足りないもので、栗花落さんの生きたピアノとの違いなんだ。

 演奏が終わった時、思わず拍手していた。このピアノをすごいとか上手とか、そんな安っぽい言葉で終わらせたくなかった。

 私にはもう、必死に手を叩くことしかできなかった。


 

 音楽室のドアに鍵をかけると、やっと日常に戻ってきた気がする。さっきまでは音楽だけが『夏になる』だけが世界の全てだった。それが今や何気ない音があちこちに溢れてその辺を漂っている。そんな中を私たちは、鍵を返すために職員室へと向かう。

「秋川さん、今日はおつかれさま」

 隣で栗花落さんが微笑む。細く開いた唇から白い歯が覗く。やっぱり笑っている方が栗花落さんは可愛い。もっとみんなの前でも笑えばいいのに。

「私の方こそ、ありがとう」

 そう返して、なんだか物足りない気がした。

「――本当に、いつもありがとう」

「え……?」

「私なんかのために、時間を割いてくれて」

 柄にもなく微笑んでみる。ピアノみたいに下手くそな笑みだったと思う。

 でも彼女にはちゃんと言っておきたかった。毎日昼休みを費やしてくれて、上達の遅い私に根気よく付き合ってくれて、休日まで潰してくれた彼女には。ちゃんと感謝の気持ちを伝えたかった。

 栗花落さんは一瞬驚いたように目をぱちぱちとさせていたけれど、すぐに和やかな笑みを浮かべて、

「ううん。私の方こそ、ありがとう」

 そう言った。

 今度は私が目を丸くする。私が感謝することはあれど、栗花落さんに感謝されるようなことをした覚えなんてない。

 その考えが伝わったのか、彼女は歩く速度を緩めながら「体育祭のね」そう切り出した。

「二千メートル走、代わってくれたよね」

 そう言われてはっとした。

 確かにあの時、立候補しようと震えながら手を上げた栗花落さんを助けた。でもそんなつもりなんて全然なくて、ただ紫陽里のためにと思ってやったことだった。だからそうなったきっかけの部分のことなんて、すっかり忘れていた。

「体育祭の日ね、実はちょうど――重なりそうだったんだ」

 何が、そう言いかけて口を噤む。

「私、ちょっと重くて。だから走り切れるか、すごく心配で」

 そう言えば、たまに栗花落さんが体育の授業を休んでいたことを思い出す。自分は生理痛がそんなに酷くないからあんまり意識したことはなかったけれど――大変だな、と素直に思う。

「秋川さんが代わってくれた時ね、すごく嬉しかったんだ……だからいつかね、恩返ししたいなって思ってた」

「別に、恩返しだなんて」

 そう返した口元が自然と綻んでいた。栗花落さんはその言葉に首を振って、

「ううん、させてほしいんだ。優しい秋川さんの――」

 一度、言葉を詰まらせる。ちらっとこちらを見た視線が足元に落ちて、つま先が地面に当たる音を三回数えた頃。

「――舞桜ちゃんの、力になりたい」

 思わず、足が止まった。一歩先で止まった栗花落さんがくるりと振り向いて、慌てた様子で手を顔の前に持っていく。

「ご、ごめんなさい! 変だよね、急に――」

 ぱーに開いた手をぶんぶんと振る。彼女の頬がみるみる染まっていく。

「ありがとう、千明」

 自分でも驚くほどすんなりと言葉が出た。まるでずっと前から当たり前にそう呼んでいたみたいに、その名前がしっくりと唇に馴染む。

「そういうことなら、明日からも遠慮なく頼らせてもらおうかな」

 冗談っぽくそう言うと、千明が朱くなった頬を持ちあげて笑った。

 やっぱり全部、繋がっているんだなと思った。体育祭であんな思いをしたことだって、無駄じゃなかったんだ。

 紫陽里に感謝されたこと、千明と仲良くなれたこと。その二つを手に入れるための代償が、全校生徒の前で大恥をかいて惨めな思いをすることだったんだとしたら――そんなの、安すぎるよなって思う。

「せっかく登校したから、ちょっと自習室寄っていくね。鍵は返しておくから」

 そう言って千明とは途中で別れた。階段を降りていく千明に手を振って、その背中が消えるのを見送る。そうして職員室に向けて廊下を進もうとして――足が止まった。

 まだやるべきことが、残っている気がした。


 音楽室に『夏になる』が響く。硬くて、頼りなくて、外れた音が混じる私のピアノが響く。

 千明の演奏は、言葉では言い表せられないほどにたくさんのことを教えてくれた。弾くときの姿勢とか指の運び方とか、技術的なことももちろん勉強になったけれど――一番私の胸を打ったのは、恐れないことだ。

 今までずっと、とにかく正確に音を取ろうと頑張って来た。一音一音正確に、ミスタッチしないよう意識して。もちろんそれは大切なこと。でもきっとそれだけじゃ良いピアノにはならない。

 強弱を付けて弾くこと、曲の中で起伏を意識すること。ピアノレッスンに通っていた時にも、とにかく口うるさく言われたことだ。だけどそれに意識を割いてしまうと、どうしてもミスタッチが増えてしまう。『夏になる』だってそうだ。とにかく今はミスタッチを抑えること、正確に弾くことが最優先。だからあえて強弱を意識しないようにして練習してきた。

 でもそれじゃダメなんだ。まずは完璧に弾けるようになってから次のステップへ、なんて悠長なことを言っていたら、いつまでたっても私のピアノは死んだままだ。例えミスが減ったって、中身がなくて空っぽなままだ。音合わせという外側の形を整えるのだけが上手くなったって、それは単なる音の羅列を生み出しているに過ぎない。単なる音の羅列を音楽たらしめるには、曲として完成させるには、演奏に想いを込めてやらないといけないんだ。

 ミスを恐れないこと。曲の中での強弱や起伏を意識して、とにかくやってみること。少しでも千明のピアノに、生きた演奏に近づこうと努力すること。それに挑戦しないうちはいつまでたっても、私のピアノは死んだまま。

 何回も弾いた。ひとりで何回でも弾いた。さっきの千明の演奏を思い出しながら、盛り上がりに向けてゆったりと貯めるところ、あえて弱く弾いて注意を向けさせるところ、思い切り音を響かせるように弾くところ、その全てを意識してひたすらに弾いた。ミスは増えた。指が絡まった。だけれども気持ち良かった。楽しいと思った。なんだかすごく懐かしい気持ちになって、まだピアノを弾くのが楽しいと思っていた、あの頃みたいで。

 そうしてなぜか、紫陽里の顔が思い浮かんだ。

 今日何度目になるか分からない、最後の音を弾き終わる。踏み込んだペダルからゆっくりと足を離して音を切る。ふっと音楽室に音の余韻が漂って、それがすんと遠のいて消えていく。消えていくさなか、ふと声が聞こえた気がした。さんさんと明るいのにどこか落ち着く心地良い音色が、私の名前を呼ぶ声。

「舞桜」

 今度はあまりにもはっきりと聞こえて、ふと譜面から目を離す。

 いつの間にか、目の前には彼女がいた。

「こんな時間まで、お疲れ様」

「え……?」

 見ればもう時計は十七時半を回っている。千明と別れたのが十五時過ぎだったから――そうか、もうそんなに経っていたのか。

「演奏、素敵だったよ」

 紫陽里が笑う。柔らかそうな唇をきゅっと持ち上げて、細めた目の奥から優しいブラウンの眼差しを覗かせる。小さく作ったえくぼが魅力的過ぎて、思わず心がぴょんと跳ねた。

「練習、続ける?」

「……ううん。ちょうど終わろうと思ってたところ」

 嘘じゃない、今そう思った。だってそう返したらきっと、

「じゃあ、一緒に帰ろっか!」

 やっぱり、言ってくれた。

 紫陽里の言葉に頷いて、鍵盤蓋をそっと閉じる。屋根や譜面台も畳んで元来た時の佇まいに直し、私たちは音楽室を後にした。

 そうして職員室へと向けて歩き始めた頃。

「ねっ、この後どうする?」

 紫陽里に突然そう言われて、少し首を傾げる。

「どうするって……帰るんじゃないの?」

「うーん、まあそうなんだけど……」

「だけど?」

「いや、せっかく休日に舞桜に会ったのに、練習だけして解散っていうのはちょっとなぁ」

 何がちょっとなのか分からないけれど、ちょっとらしい。

 紫陽里はとんとんとステップを踏むように前に出ると、くるりと振り返って私の進路を塞ぐように立ちはだかる。

「というわけなのでっ!」

 なんだ、まさか決闘でも申し込まれるんだろうか。反射的に身構えた私へと向かって、彼女はすっと穏やかな表情を浮かべると、

「デート、いこっか」

 少ししおらしい声音で、そう言った。

 

 ***


 吹き抜けた初夏の風を追いかけるように、青と赤の群れが一斉にそちらを向いた。びっしりと花びらを携えた重たげな頭たちが、ゆらゆらと傾くようにして揺れる。その様はまるで波が立つ海原に夕陽が差したようで、ベンチに座ってそれを見つめる私の心を奪い去っていく。

「おまたせっ!」

 紫陽里が合流したのは、そうして揺れるアジサイをぼんやりと眺めていた時だった。差し出された缶コーヒー、いやカフェオレを受け取って「ありがとう」と小さく返す。そうして少しベンチの端へ寄って、彼女に座るよう促した。

「よいしょっと」

 隣に彼女が座る。色白で長い足をすっと組んで、アイスココアをくいっと煽る。栗色の髪を風がふんわりとつかんで、さらさらと優しくほぐしながら通り過ぎていく。その視線が揺れるアジサイの群れを捉えて、横顔がやんわりと綻んだ。

 その何もかもが絵になりすぎて、油断するとつい見惚れてしまいそうになる。だから「ここ、久しぶりだね」と誤魔化すように声をかけた。

「ほんと。一年ぶりくらいかな」

「多分そのくらい。中学に上がってからは、ほとんど来てなかったから」

「そうそう、部活が始まるとどうしてもねー。小学校の頃はさ、週に一回は来てたっていうのに」

 懐かしむような目線を投げかけながら、紫陽里は「薄情だったかな、私たち」そう言っていたずらっぽく笑った。

 彼女の言う通り、昔はよくここに遊びに来ていた。それは咲き誇るアジサイが美しかったから――ではなくて、奥の広場にそびえ立つ遊具の群れが魅力的だったからに他ならない。何種類ものアスレチックとでかい滑り台が融合した複合遊具に、ブランコ、うんてい、それからよく分からないぐるぐる回るやつ。そのどれもがキラキラと輝くように魅力的で、私たちは暇さえあればここへ遊びに来ていた。

「紫陽里さ、あれ好きだったよね。なんかロープに捕まって、グイーって行くやつ」

「ターザンロープ?」

「そう、それそれ」

「いやぁ、あれみんな好きだったでしょ。舞桜だって順番待ちきれずにさ、代わって代わってって言ってたじゃん」

「そうだっけ?」

 忘れたよ、そんなの。

 そう返したけれど、本当はちゃんと覚えてた。

 このベンチからは、遊具のある広場は木々の陰になって見えない。だけど子ども達の元気な声はしっかりと響いてくるから、今も愛されてるんだなって分かる。

「ふふっ」

 その声に釣られるようにして、紫陽里が小さく息を漏らした。

「久々にさ、遊んでいく?」

「……遊具で?」

「そっ! 楽しいかもよ?」

「いや、いいって。私たちもう高校生だよ?」

「えー、そんなの関係ないよ。だってほら、中学の時にもさ、一回だけ遊んだことあったじゃん」

「そんなこと――」

 あったっけ。そう続けようとして、思い出した。

 あれは中一の時か。バスケ部を辞めるって紫陽里に打ち明けた日だった。学校でそんな話はしにくくて、帰りながら話す勇気もなくて。

 だけど、ここなら――紫陽里との思い出がたくさんあるこの場所でなら、何だか素直に言いたいことが言える気がして。

 あの時も、このベンチだったな。このベンチでアジサイに囲まれながらそんな話をして、なんとなく落ち込んだ私を紫陽里が遊具の広場に連れ出したんだ。久しぶりに全部忘れて、パーっと遊ぼうぜ、とかなんとか言って。

 もちろん恥ずかしかった。中学生がブランコだの滑り台だのなんて、同級生にでも見られようものなら死にたくなるほど恥ずかしい――だけどあの時、紫陽里は全力だった。本当に小学生に戻ったみたいに全力で遊んでて、だからなんだか、私も昔に戻った気がして。

「ここに来るとね」

 ぽつり、と紫陽里が言葉を漏らす。

「なんだか、落ち着くんだよね」

「……分かる」

 そう返したら、紫陽里が満足げに微笑んだ。

「昔を思い出すってほど、年取ってないつもりなんだけどね。でもやっぱりさ……思い出すよね」

 小さく頷いた。少し会話が途切れた。でも気まずさなんて微塵もない。紫陽里と並んで、ただ肩を寄せ合って、風に揺れるアジサイの花を見ていた。

 ふわっと、風に乗ったアジサイの香りが鼻腔をくすぐっていく。少し土臭くて、でもなんだか爽やかで優しい匂い。

 本当はアジサイって匂いがしないらしい。でもここのアジサイだけはいつもこの香りがするから、ずっとこれがアジサイの匂いなんだって勘違いしてた。後になってこれは雨の匂い、湿った大地の放つ匂いだったんだって知ったけれど――でも私にとっては、これがアジサイの匂いだ。湿っぽくて、じめじめして、だけど心がすっと落ち着いていく匂い。私の弱さを全部受け止めてくれるような、おおらかで大好きな匂い。

 落ち着く。この場所はやっぱり、すごく落ち着く。一年前、ここで紫陽里と高校の進路相談をしたあの日から、この光景はずっとそのままみたいだ。何も変わらない、あの時のまま。

「紫陽里もさ。変わらないよね」

 ふと、言葉がこぼれ落ちていた。

「昔からずっとみんなに頼られて。いつも真ん中にいる」

「あはは……別にそうしたくて、してるんじゃないんだけどね」

 はにかんだように笑って、紫陽里はココアの缶の淵をそっと撫でた。そのまま両手で持ったそれを、柔らかそうな唇へと近付ける。

 昔から可愛かったけれど、なんだか最近は輪をかけて可愛くなっている気がする。幼かった顔立ちはいつのまにか大人っぽくなって、バスケのせいかスタイルだって良くなった。本人は邪魔なだけだって笑うけど、私なんかと違って、胸だって。

 紫陽里はどんどん大人になっていく。どんどん可愛くなっていく。だけど根っこは紫陽里のままだ。明るくて、頼られて、自然と周りに人が集まって――出会った時からずっと、紫陽里の魅力は変わらないままだ。

 そんな彼女を、私はいつまで繋ぎ止めておけるんだろうか。

「舞桜はさ、最近変わったよね」

 思わず目を見開いた。その反応が面白かったのか、彼女はくすりと笑って、

「昔から、舞桜は素敵だったけどさ……最近はなんか、とーっても素敵になった」

 そう言って、ぱあっと笑顔のアクセルを踏んだ。

「……揶揄わないでよ、面白くもない」

「なにそれ。こんなこと、わざわざ冗談で言うと思う?」

 逸らしてしまった視線をもう一度向ける。笑っているのに、真剣で真っ直ぐな瞳だった。

「舞桜さ、もっと自分に自信持ちなよ。大丈夫、舞桜はすごいよ。みんなだって舞桜のこと知ったら、絶対に素敵だって思うよ」

 またこいつは根拠もなくそんなことを言う。大丈夫だとか絶対だとか、そんなこと。

「そんなわけ……」

 でも、言葉が続かなかった。だって私は知っているから。紫陽里が強い言葉を使うのは、心の底から本当にそうだって信じている時だけだってことを。

 紫陽里は私を信じてくれている。これもきっと、ずっと前から変わらない。それが不思議でならない。こんなに空っぽで自分に自信がない私なんかのことを、どうして――

「じゃあさ、私を信じてよ」

「え……?」

「自分が信じられないんならさ、代わりに私のことを信じてみてよ」

 向き直って正面から、紫陽里が言葉を飛ばしてくる。

「私はさ、舞桜のこと信じてるよ。舞桜がとっても優しいってこと知ってる。頑張ってる舞桜は、すごく素敵だってこと知ってる。だからそんな舞桜のことを、みんなにもっと知ってほしいって思ってる」

 言葉の一つ一つが、心の殻にとんとんと杭を打つようだった。風に運ばれた紫陽里の声が扉をこんこんと叩いて、一緒に行こうと手招きするようだった。

「それにさ、別に舞桜だけじゃないよ。自信がないのは」

 声音がすっと変わる。いつもの元気で明るい声音に、ほんの一握りだけ影が混じった。

 風が吹いて、紫陽里の髪が揺れる。楽しそうに踊る艶やかな栗色の髪、その合間から覗き見えた笑顔は少し穏やかになって、それがなんだか儚い弱々しさを感じさせる。

 ああ、そうだったんだ。

「指揮、不安なの?」

「そりゃもちろん。だってやったことないんだもん」

 そう言って困ったように笑う。

「正解が分かんなくてさ、毎日不安ですよ。他のクラスに中学の時に吹部で指揮やってた子がいてね、もうびっくりするくらい上手なんだ。私なんか、足元にも及ばないくらい」

「……そうなんだ」

「それに家で一人で練習しててもさ、見よう見真似だし。反応もないから手ごたえもないし。パート同士の音のバランスとか、そんなのだって全部感覚でやってるから、本当に私の判断が合ってるかとかも分かんないし」

 もう分かんないことだらけで、自信なんてとっくに吹っ飛んじゃったよ。そう冗談っぽく付け足すように言って、ぺろっと舌を出して微笑む。でもその言葉に、謙遜や自虐の色は感じられなかった。

 これが彼女の本心なんだと思った。

「そっか」

 紫陽里も不安なんだ。そう思ったら、何とかして支えてあげたいと思う。でも同時になんだか嬉しくもある。紫陽里も私と、同じなんだと思ったら。

「大変なんだね、指揮者ってのも」

「お互いにね」

 そう言い合って紫陽里と目を合わせた。ぱっちりとした大きな瞳が少しずつ細まっていって、目尻がちょっと下がる。一体何が可笑しいのか、紫陽里は笑いを堪えるようにして唇を揺らし、その端からぷぷっと吐息を漏らした。

「やっぱ好きだな、舞桜のそういうとこ」

「なに、そういうとこって」

「安易に大丈夫だよとか、言っちゃわないところ」

 紫陽里がココアの缶をくいっとあおった。もうその表情や声音に、さっき見せた影は見受けられない。

「あーあ。やっぱりこんなこと、舞桜にしか言えないや」

 うーんと背伸びしながら紫陽里は上を向く。頭上を覆う緑のカーテン、その隙間から差し込む木洩れ日に対して、代わりに声で返すようにそうひとりごちる。

 返事なんて、いらないかもしれないと思った。

 だから私も紫陽里を見ずに、木陰が彩る地面に向けて声を投げてみる。

「そのくらい、みんなにも言えばいいのにさ」

「嫌だよ。だってさ、不安がってる指揮者の元で歌いたいなんて思う? みんな萎縮しちゃうでしょ、こんなこと言ったら。変な心配だってかけたくないしさ」

 今度は独り言じゃないようだった。

「へぇ、じゃあ私には心配かけてもいいんだ」

 だから私も今度は、彼女に顔を向けてそう言った。少し意地悪するみたいに、わざとらしく声を弾ませる。

 ちょっと狼狽えるかなと思った。でも紫陽里は全然動揺した様子なんてなくて、

「舞桜にはいいの。だってちゃんと受け止めてくれるでしょ、私のこんな弱音くらい」

 自信満々な笑みを浮かべて、そう口にした。

「なに、それ」

 そう返した口元が綻んでしまう。頬が丸みを帯びて、目元が少し下に引かれる。なんだか気持ちがふわふわして、気を抜けば紫陽里に傾いていってしまいそうになる。

 くっと堪えてカフェオレを飲み干した私を初夏の風が撫でて行く。口いっぱいに広がるほろ苦い甘さと、控えめに香るアジサイの匂いが、私の心を落ち着けてくれる。

「あっ!」

 その瞬間、紫陽里が突然声を上げて立ち上がった。

「…………っ!!」

 あんまりにもいきなりだったから、カフェオレが変なところに入り込んで咽せてしまう。

「な、に、急に」

「練習しようよ、一緒に!」

 そう言いながらこっちを振り向いた紫陽里に、不意に手を握られた。ひんやりとしたカフェオレの缶と温かい紫陽里の手に挟まれて、私の手がパニックになる。

 そんなことなど露知らず、紫陽里は「一緒に練習すれば、お互いに感想も言い合えるし」とか「指揮をする手応えも感じられるし」とか「舞桜だって、合わせて弾く練習になるし」とかなんとか言っている。

 そのうちにやっと息が整った私は、一旦大きく深呼吸。そうして喉の調子を戻してから口を開いた。

「練習って……だから明日もするじゃない、休日練習」

「じゃなくて、平日! 月曜から!」

「月曜? 昼休みってこと?」

「うーん……昼休みはちょっと、行けない日も多いからなぁ」

 確かに、彼女の昼は忙しい。バスケ部のメンバーに呼ばれることが多いし、最近はパートリーダーとのミーティングもやっていたりする。私と合わせられるのなんて、週に一回が限度だろう。

 そんな私の考えでも読んだのか、紫陽里はブンブンと首を振りながら「じゃなくて!」と前置いて、

「朝だよ!」

 そう叫ぶ。

「朝練、しようよ!」

 その声に呼応して、風が吹き抜けた。色付いたアジサイたちが頷くように一斉に頭を振って、嬉しそうに踊っているのが見えた。


 ***


 公園を出た頃には、町はすっかり紅く染まり始めていた。傾いた日差しが強く差し込んで、道路沿いに並ぶでこぼこな建物の群れへと長い影を貼り付けていく。

 私の白い夏服が紅葉色に色付く。幼馴染の体操服が夕陽を吸って臙脂色の輪郭をぼやけさせる。そうやって空の色の影響を受けながら、私たちは暗がりのアスファルトの路面を二人、他愛もない話を振り撒きながら進んでいった。

 あの公園は私たちの思い出の場所だ。だから当然、そこからの帰り道にも思い出が溢れてる。ヘンテコな形のオブジェが乗っかったビル、秋にたくさんの実を落とすイチョウの街路樹、こっそり買い食いをしていたスーパー――

 あったはずのお店がなくなったり、知らない家が立っていたり、変わってしまったところもある。でもどうしてか、その変化は街並みにすごく自然に溶け込んでいるように見えて、やっぱりここは変わらないなぁって思った。

 そうして私たちは、気が付けば駅の前にいた。あの公園から家までは線路を越えないといけない。この近くに踏切はないので、一番楽なのは駅の中を突っ切ってしまうことだ。

 エスカレーターで二階にあがって、改札から流れてくる人波に逆らうように進んでいく。昼光色のライトがずらりと並んだ天井が、壁や床を真っ白に染めながら人々を追い立てるように睨んでいる。壁にずらりと並んだイベントポスターの威圧感も、キンキンと鳴り響く構内放送も、やっぱりどうにも好きになれない。どうしても、ここを通り抜ける時は足が早くなってしまう。

 また早く、夕暮れの街並みに戻りたい。その一心で足を動かす私の隣で、ふと紫陽里が止まった。

「あ……」

 ちょうど改札前を通り過ぎたあたりだった。立ち止まった彼女の視線が一点に注がれる。いや視線じゃない、耳だ。彼女の耳が、構内のたった一点から発される音に捕まって足を止めさせたらしかった。

 私の耳もさっきからずっとその音を捉えている。ピアノだった。改札前の待合スペースに設置されている、一台のストリートピアノ。『どなたでもご自由にお弾きください』その看板が立てかけられた前で、きっと名もなき誰かが座って演奏をしていた。

 アメイジング・グレイス

 私の大嫌いな曲。レッスン最後の課題曲で、嫌というほど弾かされて、その度に先生に怒られたあの曲だった。

 演奏はすごく上手だった。まあ、こんな人通りの多いところで堂々と弾けるくらいだ、上手いに決まってるんだけど。『どなたでもご自由にお弾きください』なんて、こんな皮肉があるだろうか。下手な人は、自信がない人は、ご自由になんて弾けるはずない。

 こんなところのピアノを弾けるのは、自分に自信がある人か、よほどの身の程知らずだけだ――小学生の時の、私みたいな。

「きれい」

 そう呟いた紫陽里に目を向けられない。

 彼女は覚えているだろうか。ここで一度だけ二人で演奏したことを。私が弾いて、紫陽里が歌って。あんな大それたことをやらかしたのを覚えているだろうか。

 いや、私にとっては相当大それたことだったけれど、きっと紫陽里にとってはなんでもないことだったろうな。いつも陽が当たっていて、目立ち慣れている紫陽里には、あのくらい――

「あの人終わったら、弾いていく?」

 その言葉に顔を上げる。

 ふと、アジサイの香りが漂った気がした。

 私はその申し出に首を振る。

「今日はいい」

 自分で言って驚いた。今日は、なんて、まるで他の日ならいいみたいじゃないか。

 そんな日が来るわけなんてないのに。こんなところで堂々と、ピアノなんて弾けるわけ――

 でも、彼女と一緒なら。

「帰ろ」

「うんっ!」

 また歩き始める。紫陽里が軽やかな足取りでついてくる。手と手が一瞬ぶつかって、そこから彼女の確かな熱が伝わってくる。

 エスカレーターを降りる。ふと振り返る。改札が、人波が、ピアノを弾く彼女の背中が、エスカレーターの地平線に呑まれていく。後ろに並んだ紫陽里が不思議そうな目でこっちを見つめてくる。だからまた前を向いて、もう振り返りはしなかった。

 エスカレーターを降りて再び夕暮れの中を歩き出す。そんな私たちを送り出すように、アメイジング・グレイスの美しい旋律が遠く、でも確かにそこに響いていた。

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