第60話 許さない

 幽霊。幻覚。もしくは夢。

 突然現れた背広男に、鎌瀬妹屋は呆然としながら――口から出たのは、あまりにもつたない質問だった。


「あ、あなた、どうやって」

「手段など大した問題ではありません。目の前に突然現れるのは悪役の特権でしょう? もっとも私はしがない小市民であり、悪役には程遠い存在ですが」


 答えにもなっていない解答の後、さて、と男が妹屋のデスクチェアに腰掛ける。

 その手にスマホを弄びながら、――それにしても、と呆れたように。


「いい立地ですね、あなたのご自宅」

「……は?」

「駅からそう遠くない二階建ての一軒家。母親はいまどき専業主婦、昼は毎日優雅にランチときた。裕福で羨ましい限りです。……もっとも、経済的な豊かさと家庭円満が両立するとは限りませんが」

「…………」

「ああ、いまの会話に深い意味はありません。ただ世の中往々にして、自身が恵まれた環境にいるにも関わらず、不平不満ばかり口にする者も多いので」


 世の中ままなりませんね、と彼がスマホを妹屋に返してきた。

 無言で奪い、ようやく理解が追いつく。

 ……けど、現実だと理解したからこそ、何が起きているのか分からない。


 そもそもこの男、どうやって私の部屋に。

 しかも、家族に気づかれずに……?


「……あなたは、何が目的なの……?」


 冷たい汗をしたたらせ、言葉を絞り出す妹屋。

 理由。まずは、理由を聞かなければ。

 ……もし、私を襲う気なら、すぐにでも悲鳴をあげて……


「目的があるんでしょう? 私に遭いにきた、理由」

「いえ。特には」

「……は?」

「先程コンビニの帰りにふと思い至り、ご挨拶に伺ったまでです」


 両手をあげ、敵意はありませんとばかりにうすら笑いを浮かべる背広男。

 その言い方が逆に、妹屋の苛立ちをかき立てる。


「笑えないんだけど」

「まあ、私があなたの立場であれば強盗の類を疑うでしょう。しかし誓って、害意はありません」

「そんなの、信じられるわけ……」

「冷静に考えて頂きたいのですが、もし私に害意があれば、あなたは既にこの世にいないと思いませんか?」

「っ……!」

「あなたは今、生きて、私と会話している。その事実こそ私に害意がない証拠であり、対話を求めていると推察するのに十分でしょう」


 それは、……確かにそう。

 妹屋はそもそも男の侵入に気づかなかった。ナイフ一本あれば事足りる……。


 悪寒が背筋を走り、呼吸が荒くなる。

 殺しにきた、わけでもない。

 けど、人様の家に……いきなり、無言で現れて……


 この男は一体、何をしに来た……?


「とはいえ、あなたも納得いかないことでしょう。ですので理由らしき理由を語りますと――様子見です」

「は?」

「見学です。親の授業参観です」


 男がリラックスしたように膝を組み、人差し指を立てた。

 いかにも演技めいた仕草で、面白そうに――


「例え話を致しましょう。

 ……あるところに、誕生日ケーキを心待ちにした少女がいます。

 その子は、甘い甘いケーキが大好物。

 大きなホールケーキにロウソクを突き刺し、じりじりと火をつけ、ざくざくとナイフで八等分したのち真っ赤な苺と甘い甘いケーキをゆっくり美味しく頬張りたい。そんな少女がいたとします」

「…………」

「そんな話を聞けば、大人の役目は簡単。彼女がどんなケーキを食べたいのか。事前にリサーチくらいするでしょう?」

「………………」

「私は他人の機微にうとく、理解がありません。しかしそれでも、人様のメインディッシュを横取りするほど無粋な人間ではないつもりです。で、今日はそのための下準備というわけです」

「……何の、話」

「理解する必要はございません。私は最初から、あなたに理解できるように話しておりません。ただ私の矜持として、説明はしておくべきと考えたまでですので」


 男がふっと酷薄に笑い、――妹屋はうすら寒いものを覚え、震える。

 この男が何を語っているのかまるでわからない。

 話が抽象的で曖昧すぎる。まさに馬鹿の話し方だ。


 でもなぜか、妹屋はこの男をヤバいと判断する。

 この男の喋り方は、なぜか、まるで人の命を雑草のようにしか見ていない……感情のこもっていない殺人機械のような印象を受けるのだ。

 ……妹屋の合理的な思想とは、まったく別次元の……


「あなた方姉妹は、姉も姉ですが、私の見立てでは本質的にあなたの方がより悪質なようだ。……姉が性格の悪い粗暴なゴブリンとするなら、あなたは悪知恵を働かせる醜悪な豚、オークといった所でしょうか?」

「な、っ」

「補足しておきますが外見の話ではありません。あなたは客観的にみても可愛らしい容姿をしている。心が小賢しく醜いという比喩表現だとご理解ください」


 あまりの罵倒に呆然とする妹屋の前で、やがて背広男は飽きたように立ち上がり、さて、とネクタイを整えた。


「では私はそろそろ帰ります。夜更かしは健康によくありませんのでね。……ああ、無駄だとは思いますが、あなたがもし五体満足で人生を過ごしたいのであれば、これ以上の深入りは止めておくのが懸命です」

「……なに、それ」

「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている……でしたか?

 人を呪わば穴二つ。裏家業の人間に依頼をするということは、あなたもまた狙われる立場になるということ。もしあなたが真の意味で、安心安全ノンストレスな人生を希望するのであれば、今すぐ手を引くことをお勧めします」

「…………」

「溺れますよ。頭でっかちなだけで実戦を知らない素人では――自分の力で、何かを成し遂げようとしない他人任せな人間では、ね」


 では失礼、と背広男はゆるりと会釈をし……


 消えた。

 本当に、手品のように……

 編集された動画のように忽然と。


 妹屋はぽとり、とベッドにスマホを取り落とす。

 ……なんだ、今のは。

 本当に、現実の出来事だったのか?


 現代に現れた吸血鬼と呼んでも説明がつくような――いや、違う。

 そんな生やさしい存在じゃない。

 アレは……

 もっと恐ろしくおぞましく。人の皮を被った、人でないもの。

 理解してはいけない、何か。


「っ……」


 知らぬ間に、奥歯がカチカチと震えていた。

 見てはならないものを目にしたかのような嫌悪と恐怖に、胃の底からせり上がる吐き気を覚え、身体をくの字に曲げる。

 だめだ。何かが。妹屋の知らない何かが、完全に狂っている。


 ……。

 ……。

 ……そして、今の妹屋があんなバケモノに絡まれる理由は、ひとつしか思い浮かばない。


 ……あれは、もしかして……委員長の仲間、なのか?


 だとしたら、自分は……

 決して喧嘩を売ってはいけないものを、目の当たりにしたのでは?


 本能が警告する。

 逃げろ。逃げろ。今すぐ逃げろ。

 家族に泣きついてもいい。姉のようにパニックを起こしてでもいい。

 学校にいくのが怖いと気が触れた様子を見せ、あの男の視界に入らない遠い地に引っ越したのち、一生目立たないよう隠れてこそこそと生活する。


 誰の記憶にも残らない、地味でごく普通の生き方をすればきっと、あの男は見逃してくれる――

 そんな本能の警鐘を、




「――っざけんな……!」


 妹屋は奥歯を噛みしめ、振り払う。

 冗談じゃない。

 一生見ず知らずの男にびくびくしながら生きていくなんて、冗談にしても笑えない。


 鎌瀬妹屋は昔からずっと”上”にいた。

 普段から無意識に、時には意識しながらいつだって他人に見下されないよう立ち回り、弱いやつのにおいを嗅ぎつけ蔑むことで生きてきた。

 面倒事は姉に押しつけその盾に隠れながら、甘い汁を吸い続けてきた。


 バカな両親も、姉も、クラスメイトも先生もどいつもこいつも全部”下”。

 くだらない世の中を、他人を見下しながらほくそ笑み、社会の弱者共を笑いながら過ごしてきた鎌瀬妹屋にとって。

 他人に見下されたまま逃げ出すなんて、絶対に、あってはならない。


「……許さない。許さない許さない許さない……!」


 なにが深淵を覗く者だ。なにが穴二つだ。

 そこまで言うなら自分から飛び込んでやる。


 その身が呪われようと構わない。

 面倒事はぜんぶ、あのバカな姉やママに投げてしまえば何とかなる。

 最悪、パパに泣きついてお金を出して貰えば解決するのだ。


 私こそがこの世でもっとも安全な場所にいるのだと、あの男にわからせてやる。


 ぐつぐつと煮えたぎる感情を胸に秘め、妹屋はスマホを弄る。

 あの男を。委員長を。この世から確実に始末できる人間を。


 できるなら、あの連中を恨んでるようなヤツだといい――苛立ちながらSNSを検索していた妹屋は、ふと、ダンジョン関連のトレンドにひっかかった妙な単語に気づく。

 ダンジョン界隈にも特定の、隠語、というものが存在する。

 以前、学校の先輩でもあった悪七ナナから噂を聞いていた妹屋はやがて……




 見つけた。

 SNS上で、そういったことを専門にやっている裏業者。


 妹屋ははやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと請負人リストの検索を行う。

 焦るな。慌てるな。でも確実に。

 ――必ず仕留めてやると心に誓いながら、妹屋はうすら笑いを浮かべスマホをじっと睨み付ける。


 自分がその日、はっきりと――安穏とした人生から足を踏み外したとも、知らぬままに。


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