第58話 幸せ

 それが鎌瀬姉見だと最初分からなかったのは、彼女の様子が普段とあまりに違ったからだった。


 赤く充血した目に、無造作に垂れ流した髪。

 犬歯をむき出しにしながら綺羅星を掴む姿は、いつもの美しさを強調する姿と、あまりにもかけ離れていて。

 だからこそ姉見が本気で激怒している、と綺羅星の身体が強ばり動けない。


「っ……」

「ふざけやがって、何だよあれ! お前、お前が噂のオヤジに頼んで、も、モンスターを連れてきたんでしょ!? それともあんたの変装!? じゃなきゃ、あんな、あんな化物っ……!」


 腹部に激痛。膝蹴りを受けたと気づく。

 登校中の女子からどよめきが上がり、誰かが、先生! と悲鳴をあげる。


 綺羅星は、――何がなんだか分からない。

 亀のように縮こまりながら、彼女が何を話してるのかすら理解できない。


 けど、自分にやれることは変わらない。

 突然振るわれた暴力暴言に対し、綺羅星はいつだって亀のように耐え、嵐が過ぎるのを待つしか出来なかった。


 ……今まで、そうやって生きてきた。

 頭を激しく殴られようとも。

 胸ぐらを掴まれ、睨まれようとも。

 それ以上相手を怒らせないようただただ震え、怯え、嵐が過ぎるまでただ待つしかない弱い女。


 逆らうなんて言語道断。

 親。教師。クラスメイトに刃向かえばいつだって酷い反撃に遭い、そもそも委員長とまで呼ばれる綺羅星に暴力なんて似合わない。

 それが綺羅星善子という、どうしようもなく弱い存在であり、自らの生き様――


 だと、自分でも思っていた。




「バレてないと思うなよ! あんたも同じ目に遭わせてやる! 殺す! 殺してやるっっ!」




 姉見のその一言に、――突然、


(……殺す?)


 スイッチが入り、綺羅星の思考がすっと冷たくなる。

 恐怖の感情がまるで波が引くように収まり、台風が一気に晴れたかのように、心が穏やかになり――


 ……え、と自分でも理由が分からず戸惑うなか、世界がスローモーションのように縮まり、視界が星のようにきらめくなか――

 思い出したのは昨夜の出来事だ。



 殺す。

 殺してやる。

 姉見が激しく叫ぶが――昨日、綺羅星は本当に死にかけた。


 氷竜相手に……本当に、殺されかけたのだ。

 氷ブレスの直撃をうけて紙くずのように吹っ飛び、鋼鉄の尻尾に叩き潰され、無様に地面を転がった。

 全身の骨が、筋肉がきしみ、雪と泥だらけでズタボロになりながら、泣きながら必死に逃げまどい、戦ったのだ。


 ……そんな激戦に続き、さらに現れたダンジョンボス。巨獣ベヒモス――

 人の命などゴミのように消し飛ばす存在に、綺羅星の理解は追いつかず――それを遙かに上回る、影一普通という狩人を目の当たりにした。


 綺羅星の命など、いくつあっても足りなかった。

 それくらい彼女は――死というありふれた現象の近くに立っていた。


 自覚していなかったが、彼女は確かに、”死”を理解したのだ。


 それに比べて……


 この子の迫力のなさは、なんだ?


(何だろう。殺す、って)


 少なくとも影一普通は「殺す」と口にしたことはない。

 やると決めた時には無言でやり終えているのが、彼の流儀だ。


 ……対して、この女はどうだ?

 大声をあげ鬼の形相で迫るくせに、首のひとつも締めてこないしナイフで一突きもしてこない。

 ただただ感情任せに殴るだけ。


 ふと思う。

 ……この女は竜にブレスを吐かれ、死に物狂いで逃げた経験はあるのだろうか?

 この女は、象よりも遙かにでかい亀の化物に、焼き殺されかけた経験はあるだろうか?

 兎に首を狙われた経験は。草原ゴーレムに踏み潰されかけた経験は。


 ――落とし穴に突き落とされ、同級生に笑われながら捨てられた経験は?


 本当に殺る気があるなら、ナイフの一本でも持ってこないと意味がないのに。

 なのに何だ?

 この体たらくは……。


 綺羅星は自分でも恐ろしいほど思考が冷めるのを感じ、相手に殴られているにもかかわらず、鎌瀬姉見を冷静に観察する。

 そして、気づく。

 赤く充血した、兎のような瞳が――ひどく怯えていることに。



 ……ああ、そうか。

 この女は、私を殺したいんじゃない。

 怖いのだ。

 ただただ自分が受けた恐怖を誤魔化すために、私に攻撃を仕掛けているんだ。



 昨日のチェーンソー事件がトラウマになったのだろう。その原因を綺羅星に押しつけ、八つ当たりをしている。

 そこに、普段の優雅な姉見の姿は欠片もない。

 大声と苛立ちを隠れ蓑に、ただ、己の弱さに嘘をつきながら吠えるだけの臆病な女――


(なんで私、こんな雑魚にびびってたんだろう)


「ふざけんな、死ね、本気で殺してやるっ!」

「…………」


 両腕でガードしながら、綺羅星はじっと考える。

 あの時。綺羅星がチェーンソーで迫った時、この女を仕留める寸前で邪魔が入ったせいでやりきれなかった――そのことを密かに、後悔していた。

 けど、あの時……本物の刃こそ届かなかったものの。


 綺羅星のチェーンソーは、確かに、彼女の心を切り刻んでいたのだ。


 ……それが分かったのなら。

 やれる。

 狩れる。

 やらなきゃ。

 これは、自分の手で狩るべきモンスターだ。

 ……もちろん影一のように、上手くは出来ないけど――私には、私の戦い方がある。



 綺羅星はあえて両腕のガードを解いた。

 わざと殴られやすく顔をあげつつ、鬼の形相を浮かべる姉見にだけ聞こえるよう、耳元で――


「姉見さん。私が怖いんですか?」

「っ――!!!」

「でも私、何もしてませんよ。…………証拠、ないんでしょう?」

「あ、あんたっ……!」

「でも、姉見ちゃんは私が怖くて怖くて仕方がないんですね……ふふ、オバケをみた小学生の男の子みたいに怯えちゃって、可愛いでちゅねえ。ざぁこざぁこ♪」


 ひひ、あはは! と耳元で囁いてやると姉見が激怒し全力で右ストレートを振り抜いてきた。

 その直撃をわざと受け、綺羅星の身体が吹っ飛ばされる。


 まるでコーナーに追い詰められたボクサーが、無防備にタコ殴りにされてるかのような惨状に悲鳴があがり。

 ようやく駆けつけた体育教師が姉見を羽交い締めにし、暴力の嵐が止まる。


 綺羅星は鼻血を流しながら、ふらついたふりをしつつ周囲を伺い――

 誰かがスマホを向け、きっちり自分を撮影していることに内心「よくやった!」と喝采をあげながら、ずるずると下駄箱によりかかり尻餅をついた。


 誰かが「救急車を」と声をあげ、現場がさらに騒然とする。

 その様をしっかり耳にしつつ、綺羅星は脳震盪を起こしたふりをし、ふらふらと視線を彷徨わせる――私は、哀れな被害者だと強調するように。




 そうして綺羅星は担架に乗せられ、救急車に運ばれる最中。

 密かに外した眼鏡をスカートにしまい、べき、と力強くへし折った。


 だって。

 眼鏡も割れてた方が”可哀想な被害者”らしく、姉身が”横暴な加害者”らしく見えるでしょう?

 ……あとで眼鏡の弁償も迫ろう。

 そしてやることが決まれば、残りのエピソードを埋めるのも容易い。


 ――ダンジョンのバイトを始めた理由は、学校で虐められないために強くなろうと思ったから。

 両親に理由を話さなかったのは、いじめの相談ができなかったから。

 影一に師事したのは、私が虐められてたダンジョンで彼が助けてくれたから……


 偽りのストーリーを組み立てながら、綺羅星は今になって先生の語っていたことを理解する。


 ああ、そうか。これが私の狩り方なのだ。

 影一のように強力な力はなくとも、自分の武器……

 か弱い女子高生に、クラスで虐められた被害者ムーブを組み合わせれば、ムカつくクラスメイトを安心安全なまま、社会的に”排除”することは――決して難しくない。

 痴漢冤罪を仕掛ける、女子高生のように……。




 綺羅星は自分が明白な”悪”に染まりつつあることを自覚しながら、心の底より祈りを捧げる。


 先生、ありがとうございます。

 本当にありがとうございます。


 私に、歪んだ道を教えてくれて。

 私はいま、本当に幸せです――



 ちろりと唇を舐めると、すり切れた血の味がして。

 ああ美味しい、と舌なめずりをしながら、綺羅星は心の中でくつくつと笑い続けた。


 いつまでも。

 いつまでも……




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