第20話 昨夜はあんなに我を求めてきたくせに
僕は半開きになった扉から顔を覗かせ様子をうかがうリンに話しかけた。
「なあリン……僕が料理を残したことでトニアさん怒ってないよな?」
「メグル、なぜそう思うのじゃ?」
「だってほら、何を言ってるかまでは分からなかったけど、二階のこの部屋にまで聞こえるって普通じゃないだろ」
「ふむ、半分正解で半分不正解じゃな。トニアは食事のことで怒ってはおらぬよ、別のことで怒ってはおるがの」
「うん……どういうことだ?」
「そちは自分の感情に鈍感というか無頓着というか、まあそれがそちの良いところでもあるんじゃがの。我がいま言えることは、そちは我と一緒にここで大人しく待っておれば良いのじゃ」
それ以上は僕が何を言ってもリンはのらりくらりとかわして話そうとはしなかった。
暴風が過ぎ去ったかのように静かになると、また誰かが階段を上がってくる足音が聞こえた。その足音は時間が経つにつれて徐々に大きくなっていた。
僕はその足音に戦々恐々としていた。
リンは『トニアさんは食事のことで怒ってはいない』と僕にそう言ってくれたけど、壁一枚で廊下越しにドスドスと大地を踏みしめるように、こっちに近づいてくるのは心臓に悪い。
大丈夫だとは思うけど、万が一ということもある。その一抹の不安が僕の思考を鈍らせ曇らせる。
部屋前で足音が止まり、扉が勢いよく開くと同時に僕は目をつむった。自分でも理解できないのだが、見てはいけない、見たくないと反射的に拒絶したのかもしれない。
「メグルにリン、本当に申し訳なかった。この通りだ、許してほしい」
「先に申したように我は何一つ気にしてはおらん。の、メグルも我と同じ意見じゃろ?」
会話を聞く限りトニアさんは最初から怒ってはいなかった、それどころか僕に謝っているように聞こえる。
僕はリンの質問に答えるべく目を開けると、眼前に首を垂れるトニアさんの姿が見えた。その隣ではニーナがお盆を回収しようとしていた。
「はい、僕もリンと同じで気にしていません。ニーナもありがとう……。それはそうと、どうしてトニアさんが僕に謝っているんですか? リンはまだ何となく予想はつくのですが、僕の場合は何もないような?」
「……あんた、それ本気で言ってるのかい? 私らが一番謝りたいと思っている相手は、誰でもないメグルあんたなんだよ」
「そう言われても、謝れるようなことを僕はされていないし……」
「いや、今日猫泊亭で嫌な気持ちになっただろ? 昨日あれほどおかわりしてくれた旦那の料理が喉に通らないほどにさ」
「嫌な気分……ああ、あの視線や呪詛的なやつですか。あれはあの人たちが悪いわけじゃないですよ、リンが可愛すぎたのがいけないんです。で、それとトニアさんが僕に謝罪するのと、どうつながるんですか?」
もしかしてあれか、看板猫じゃなくて招き猫としてリンを採用したことに対して謝罪しているのか。でも、あれはリンが暇つぶしにやっているだけだし、トニアさんが心を痛める必要なんてない。
トニアさんは「あれ……私がおかしいのか?」と独り言を言いながら困惑しているようだった。この場合、いきなり謝罪された僕の方が困惑するべきだと思うんだけど……。
二人そろって頭を悩ませている間に、いつの間にかお盆とニーナが消えていた。僕たちの前を通らないと部屋を出ることはできないはずなのに、猫泊亭の給仕……恐るべし。
「にゃははは! 諦めよ、トニア。これ以上何を言ったところで押し問答なのじゃ。メグルはそういう男だと思って受け入れるのじゃ。で、件の成果はどうじゃった?」
「私がリンの域に達するまでには何十年とかかりそうだよ。あ~そっちはもう大丈夫さ。明日どころか今この時から、あいつらがあんたらに構ってくることもないし、列ができることもないさ」
「メグルのためとはいえ、本当にそちは良かったのか? 我が言うのもどうかとは思うのじゃが、こんな大行列はもう二度と拝めぬかもしれんのじゃぞ?」
「かもしれないね。でもさ、私は思うんだよ。どれだけ繁盛しようが、客一人満足させることができないようなら、畳んだ方がマシさ。それにさ、私らは宿屋であって食事がメインじゃないしね」
「そうか、意地悪な質問をして悪かったのじゃ。トニアよ、心より感謝する。我が主のために行動してくれて、ありがとうなのじゃ」
「気にしなさんな、これは私らのためでもあるのさ。あの状態が続いていたら、私らは確実に倒れていたさ。店には店ごとの許容範囲ってのがある。私らにあれは過剰過ぎた、今までどおりの程よく忙しいのが一番さ。そういうわけだから、リンあんたはクビだ」
リンたちの会話がただ耳を通り抜けていく、トニアさんは最後に衝撃的な言葉を発していた気もするが、全くもって頭に入ってこない。
僕は部屋を出て行くトニアさんの背中をぼんやりと眺めるぐらいしかできなかった。
半日足らずの間に色々な出来事が起こり過ぎて、普段に比べて頭が働いていない気がする。
張り詰めていた緊張の糸が切れたのだろうか、猛烈に眠気が襲ってきた。
まぶたが重たい……何も考えたくない……リンを抱き枕にして寝たい……あ~今日は疲れた。
肩が痛い……首が痛い……腰が痛い、最悪の目覚めだ。
少し動いただけでポキポキと関節が鳴るし、体中のあちこちが痛い。
僕は重たい身体を起こして周囲を見回した。窓からは月明りが零れ部屋を照らしている。目を細め注視しながらであれば、その明かりを頼りに視認することができそうだ。
見覚えのある天井にベッド、窓の前には棚が一つ……このシンプルな内装、僕が泊っている部屋だ。
「僕はまた気絶してしまったのか……外暗いな、もしかして丸一日寝てたのか? だとしたら、身体がガチガチなのも納得だな」
どうやら僕はベッドにたどり着く前に力尽きてしまったらしく、床の上でそのまま寝てしまったようだ。部屋の中ということもあって、今回はナルガスさんのサポートはなかったらしい。
彼の仕事を増やさずに済んだことに、ほっとしたがほんの少しだけ残念に思ってしまった。ベッドの上で目を覚ますと床で目の覚ますとでは、天と地ほどの差があったからだ。野宿をした時でさえも、これほど身体を痛めることはなかった。寝る時には何か敷いて寝るべきなのだと、その身をもって理解した。
「そういえばリンの姿が見えないな……どこ行ったんだ?」
「おはようメグル。我ならここにおるぞ、昨夜はあんなに我を求めてきたくせに、そちは冷たいやつじゃの」
声に導かれて視線を落とすと、足元の影に隠れるようにリンが座っていた。
何やらリンが興味深いことを言っているけど、全くもって記憶にない。
僕は眠っている間に何をしでかしたやら……なんで、どうして何も覚えていないんだ。
「おはよう……リン。何の話をしている、僕は昨日何かしたのか?」
「本当に何も覚えておらぬのか……ふむ~まあ良いのじゃ。それでメグルよ、食事はとれそうかの?」
リンの口から『食事』という言葉が聞こえた刹那、僕の代わりにお腹の虫がぐう~と鳴り肯定の意を示した。
「ふむ……身体は正直というやつかの。では行くとしようか、メグル」
「さすがにこんな時間だと、どこも開いてないんじゃないか?」
「何を寝ぼけておるのじゃ、そういえばそち『昨日』がどうとか言っておったの……ああそういうことか。それなら大丈夫じゃ、まだ全然夕食に間に合う時間じゃぞ」
リンはそう言いながら扉を開けて先に部屋を出た。食堂に到着するまでの間、僕が一歩進むとリンもまた数歩進んでいた。僕を先導するかのように、着かず離れずの一定距離で移動していた。
廊下を歩き階段を下ると、そこには昨日ぶりの懐かしい光景が広がっていた。
カウンター席が残り数席しか空いてない賑やかな食堂。あの目を疑うほどの大行列も大量の貢物に溢れた番台もリンのファンらしき人、そのどれもが最初から存在しなかったかのように消えていた。
僕は昨夜と同じ席に座り、同じ料理に舌鼓を打ち……そしてまたドカ食い気絶をするのであった。
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