第3話


    三



 程なくして街中のネズミは恐れをなして逃げ隠れ、これまでのように足音を大にして天井裏を走り廻り、壁や櫃を齧って穴を開けることもなくなった。食い物を探す時も忍び歩きに梁を渡り、そっと縁の下に潜り込んで、我らに見つからぬように気を付けている。


 これには、これまで散々ネズミの悪さに悩まされてきた人間どもも喝采した。


 ───さすがネコ殿。あっという間にネズミ小僧は消え去ったわい。


 ───こんなに良いご法度は、天朝始まって以来これまで無かった。願わくばこの御法度はつつがなく続いてもらいたいものだ。


 と、貴賤問わず万民が口々に言っている。


 吾輩としては好物を追いかけ、捕まえて、美味しく頂いているだけなのだが、こう絶賛されると少々気恥ずかしくもあり、一方では、まあ、まんざらでもない気分になってくる。


 ところが好事魔多し、とはよく言ったもので、京洛を闊歩し、自由を謳歌していた我らに、思わぬ強敵が出現した。


 近頃勃興してきた坂東の江戸という街では、「火事喧嘩 伊勢屋稲荷に 犬の糞」という言葉が生まれつつあるように、たいへん野良犬が多いそうだが、我輩の住む京の街中やその周辺にも野犬が大量に生息している。


 いにしえから京に住む人間は、係累が死ぬと化野あだしの鳥部野とりべの蓮台野れんだいのといった洛外の野っ原に遺骸を持っていき、そこに放置して自然に返すのを習わしとしている。


 死体を屋外に放ったらかしにしておけば、当然九相図という仏画のごとく肉や内臓は朽ちて溶け落ち、骨だけになり、それも風化してやがて土に還っていくが、大方の場合はその過程でウジが湧き、肉が腐敗する臭いを嗅ぎつけてやって来たイヌやカラスなどの鳥獣に食い散らかされることになる。


 人間は体が大きいから肉も多く、死肉を漁るケダモノにとってさぞ食いでがあろう。その上、「(遺体を)送る数が多い日はあるが、送らぬ日はなし」と兼好法師という坊さんが随筆に書いている通り、その野っ原には毎日毎日次から次へと亡骸が運び込まれてくるから、京近辺に巣くうイヌは食い物に困ることはない。もし仮に死神が休暇中で死人が発生せず、死体にありつけない日があったとしても、野犬どもは人間の糞便も平気の平左で喰らうから、飢えに苦しむことはない。


 ウジ虫がうごめき気色の悪い臭いを放つ腐肉や、人間がその辺の道端でったクソなどの不潔なものは食わないネコ族にとって、イヌはなんと卑しい獣なのだろうと思う。だが元来他の動物を取って食うオオカミの子孫である奴らは、本質的にハンターである。すなわち腐った人間やクソだけではなく、生きた我らをも本能で襲って食おうとするから、全くもってたちが悪い。


 そんなこともあって我らネコ族とイヌどもは仲が悪い。


 唐国の向こうの塔克拉瑪干タクラマカン砂漠という大砂原の、その向こうの波斯ペルシャ国や奥斯曼オスマン帝国といった国々の、さらにその向こうの神聖羅馬ローマ帝国や佛蘭西フランス王国という国と海を挟んで向かい合っている、英吉利イギリス王国という島国でも、


 Raining cats and dogs.


 とか、


 Fighting like cats and dogs.


 とかという言葉があるくらいなので、不仲というのは地の果ての南蛮国や紅毛国まで共通しているのであろう。


 まあ犬どもが我らに勝るのは走る速さと持久力だけで、基本的には我らの方が運動神経は良く、その上奴らが登れない塀や木の上にも我らは簡単に登れるので、逃げようと思えば何てことなく逃げられる。さらに我らには鋭い鉤爪という武器とネコパンチという必殺技もある。しかし陽だまりでまどろんでいる時などは不意を突かれて食い殺される可能性があり、実際鴨川のほとりでイヌに襲われて息絶えた仲間もいるので、一刻も油断することはできない。


 そんなこんなで、吾輩も外歩きをする時は細心の注意を払わなければならくなったわけだが、我らに取って食われるネズミほどではあるまい。


 もっともネズミの場合は、これまで数々の悪事を仕出かしてきた報いであり、自業自得である。諦めてもらうしかないだろう。


 そんなある日、我輩はネズミの親玉が人間の坊さんに会いに行った、という話を耳にした。



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