ネコの草子(ねこのぞうし)
大村 冗弾
第1話
一
慶長五年の秋、その窪地の辺りで、十五万ともいう数の人間どもが集まって殺し合う大いくさがあった。そのいくさがたった一日で終わると、今までの騒動が嘘か幻であったかのように、京の都は静謐となった。
これには騒ぎを起こした張本の人間はろくに反省もせずに、天下泰平、国土安穏、全くもってめでたき御代である、太古中国の名君、
むろん、人間以外の動物たちにとっても、鉄炮という恐ろしい兵器の放つ煙硝の臭いを嗅がなくても良い時世は喜ばしい。スズメやカラス、トンビ等の鳥どもから、猿、犬、牛馬等々の畜類に至るまで、有り難や、有り難や、と、両翼、両手、両蹄を合わせている。
我らネコ族にとっても平和な世の中は大歓迎である。
まあ、人間どもの間でいざこざがあっても、ネコにとってはどうでもよいことであり、誰が勝とうが誰が負けて死のうが、知ったことではない。
しかし人間どものケンカが長引き、世が乱れてくると、甲冑に身を固めた侍という乱暴者がそこかしこからやってきて、また、足軽などというやくざ者がどこからともなく湧き出でて、京の都に満ち溢れてくる。
その中には公家屋敷、武家屋敷、あるいはあきんどの
でっぷりと太った太鼓腹の、タヌキのような風貌のジジイが、かの大いくさに勝ったのはいささか驚きであったが、とにもかくにも田分け者を駆逐して、安穏な世をもたらしてくれたのは良いことである。
ところが世の中が静かになってみると、人間どもは別の悩みに苛まれることになったようである。
京の町は帝が座します日の本の首都だが、同時に商人職人や数多ある神社仏閣に勤める神職僧侶、生産的な活動に従事せず食って寝て酒を飲んで糞をするだけの存在である公家や、その家来も多数住んでいる、日本第一の消費都市でもある。世が静謐になった今、彼らの腹を満たす穀類や干物・乾物の類が諸国から大量に搬入されるようになり、それらは公家屋敷や社寺、商人の蔵の中に山のように積まれている。
そんなところには当然の如くネズミが集まる。人間の住居やその周辺に巣くうイエネズミには、体長が二、三寸と小型のハツカネズミと、五寸から七寸のクマネズミ、さらに最大で九寸にもなる大型のドブネズミがいるが、いずれも年に二回、春と秋に四匹から十匹の子を産む。一度に十数匹も産むこともあるが、乳首の数が八個ないし十個ほどなので、乳離れまで育つのはせいぜい十匹であろう。
これが蔵の中に住むネズミのように、食い物だらけで暖かい所に住む個体では年に四回も産むこともあるというから、仮に一回の出産で六匹産むとすると、二年程度の寿命のうちに一匹のメスが産む子の数は四十匹以上になる。その子が三カ月後には大人になり子を産むようになるので、まさしくネズミ算的に増えることになる。それらが山に積まれた穀類の俵を破いて中身をを食い散らかし、本や衣類を切り裂いて寝床にしてしまうのだから、人間どもが嘆くのも無理はない。
さて、件の大いくさが終わってから二年が経とうとしていた慶長七年八月の中頃、京都町奉行の板倉四郎右衛門勝重という人物から貴賤僧俗に向けて、
──ネコの綱を解き、洛中に放て。
という沙汰があった。また、時を同じくして室町一条の辻にも次のような高札が立った。
一、洛中においてはネコの綱を解き、放し飼いにすること。
一、同じく、ネコの売り買いは禁止する。
この旨に違反する者は、厳しい罪科に処せられるであろう。よって件の如し。
このお達しに一番喜んだのは、我らネコ族である。
なにせ我らは自由気まま、フウテンの寅さんという的屋稼業の男みたいなもので、あっちに行ったり、こっちに来たり、何となくプイッと旅に出たくなることもあり、居心地の良い場所があればそのまま居つき、恋をすることもある。まあ我らもミニチュアのトラみたいなものである。似たようなところがあるのは、トラ仲間として当然かもしれない。
ところがこの国のネコ族は、吾輩のジイサンのジイサンの、そのまたジイサンのヒイジイサンの、……とどのつまりは数百世代も昔のご先祖さまの頃から、首根っこにひもを付けられ、それを柱に繋がれた状態で飼われるのが常となっていて、動ける範囲と言えばひもの長さの分しかない。おかげで日本放送協会とかというテレビ局の「○○ねこ歩き」という番組に登場する同輩のように、気の向くままにふらりと散歩に出掛けたり、隣町の広場に遊びに行ったりすることなどは夢のまた夢、それどころか庭に降りて砂浴びしたり屋根に登って昼寝をしたりすることも、屋敷の中を駆けずり回ることもできず、先祖代々、何百年もの間ずっと窮屈な思いをしていた。それがにわかに自由の身になれるとなれば、狂喜するのは当たり前であろう。
一方、我が飼い主、……と人間どもは勝手にそう称しているだけで、我らは召使い程度にしか思ってはいないが ──、まあ、その飼い主とやらは青くなった。
お達しの通り、繫ぎひもを解いて放し飼いにしたら、大切なネコ様はどこかにいったまま帰ってこなくなるのではないか。お奉行は迷いネコを捕まえて留め置き、売り買いをしたら、その者はきっときつく罰せられるとおっしゃるが、そんなことはこっそりやれば分かるわけがない。そう危惧したのである。
しかしお上に反抗的な京スズメといえども、お奉行のお申しつけに抗うことはできない。やむなく我が召使い──、いや、飼い主とやらは○○町△△兵衛の飼い猫、虎之介などと書いた木札を作り、神社のお守りよろしく我輩の首にぶら下げて、我輩と柱を繋いでいた鬱陶しいひもを解いたのである。
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