第5話:お姫様は見ていた

 鞄を回収するために小学生、中学生時代から数えても過去一早く学校に行くとやはりというか誰もいなかった。

 一度帰るわけにもいかないので渋々着席して始業まで時間を潰すことにする。窓から教室に差し込む朝日が何とも言えない風情があって感慨に耽ってしまった。


「よし……あとは全力で知らないフリをするだけだな……」


 独り言ちながら俺は鞄を枕代わりにして机に突っ伏した。

 布団に包まれているような心地の良い日差しと何事もなく目的の物を回収することができた安心感から急激に眠気が襲ってきた。

 こういう時に屋上が解放されていれば優雅に横になって日向ぼっこもできたのだろうが、実際にそんなことをすれば一日を学校で寝て過ごす羽目になりかねない。そんなことをすればみこ先生の終日お説教コースだ。


「まぁ新が来たら起こしてくれるだろう。それまでは───」


 寝ていよう。そういって身体のスイッチをオフに入れようとした瞬間、ガラリと教室の扉が開いた。理由もなく朝早くに来るなんて奇特なクラスメイトもいるんだなとぼんやり考えながら瞼を閉じようとしたら、


「珍しい。今日は随分とお早い登校なんですね、庵野君」

「───ッツ!? 四ノ宮さん!?」


 頭の上から降って来た声に思わず顔を上げる。眠気も一瞬でどこかに吹き飛び、その代わりにブワッと冷や汗が噴き出る。


「おはようございます、庵野君。今日も実にいい天気ですね」

「お、おはよう、四ノ宮さん」


 いつもと変わらない可憐な笑みを浮かべながら話す四ノ宮さん。昨日と何も変わっていないはずなのにかえってそれに得体の知れない恐怖を覚えて、俺の心は一気に不気味な真っ黒な雲に覆われた。


「どうされましたか、庵野君? 顔色が悪いですよ?」

「そんなことない。俺はいたって健康だ」


 嘘である。不安と緊張で呼吸は乱れているし脈が速くなっている。その反対に体温は急激に下がっており寒気すら覚える。


「もしかして寝不足ですか? 週末はまだ先なのに夜遅くまで何かして起きていたとかですか?」

「あぁ……まぁそんなところだな」


 噓は言っていない。ただ徹夜をするきっかけを作ったのが他でもない、目の前にいる四ノ宮さんなのだが。


「無理はいけませんよ? 若いうちから無理をしていると歳を取ったときに身体に来ますからね」

「肝に銘じるよ。似たようなことを知り合いに言われたばっかりだしな」


 あれ、普通に会話ができているぞ。これはもしかして許されたのではないか。実は目が合ったのは俺の勘違いで気付かれていなかったのでは? なんてぶ厚い雲の隙間から一筋の希望の光が降り注いだ瞬間、


「いくらびっくりしたとはいえ、学校に鞄を忘れたりしたらいけませんよ? 大事なものが入っていたら盗まれてしまうかもしれませんからね」

「貴重品は鞄の中には入っていないから大丈───ちょっと待て。今なんて言った?」

「やっぱり調子が悪いみたいですね。まぁ無理もありません。隠し撮りをしていたら相手に気付かれて目まで合ってしまったら誰だって動揺してしまいますよね」


 そう言ってニコリと笑う四ノ宮さん。傍から見れば天使が浮かべる微笑みだが、俺にはそれが死刑宣告をする直前の悪魔のそれに見えた。さながら今の俺は蛇に睨まれた蛙というやつだ。


「あらあら。本当にどうしたんですか、庵野君? 額から汗が噴き出ていますよ?」

「……ハハハ。気のせいじゃないか? お、俺はいたって普通ですよ?」


 じわじわと真綿で首を締めるかのように圧をかけてくる四ノ宮さんに、俺は最後の抵抗をするべく言葉を絞り出す。だが獲物の首元にガッチリと嚙みついた肉食獣にとっては悪あがきにすらならなかったようで。


「目的? ウフフッ……何のことでしょう? 庵野君は何を言っているのかさっぱりわかりません。説明していただけませんか?」


 緩やかに死に近づいている様子を観察して何が楽しいのか。ただどんなに甚振られても俺には120%勝ち目がないので白旗を挙げるしかない。


「……俺が悪かった。昨日見たことは誰にも言わないし写真も消す。何なら墓場まで持っていく。だから───!」


 立ち上がり、ガバッと頭を下げる。どうして放課後の空き教室で制服を半脱ぎしながら自撮りをしていたのか、その真相が知りたくないと言えば嘘になる。だがこれ以上踏み込んでもその先に待つのは地獄であると本能が警鐘を鳴らしているのも事実だ。


「───何を勘違いしているんですか、庵野君? 写真を消してくれなんて私は言うつもりはありませんよ」

「……え?」


 予想だにしていなかった四ノ宮さんの発言に俺は思わず頭を上げる。写真を消さなくていいなんて何を考えているんだ。困惑する俺に四ノ宮さんはすぅと顔を近づけてきて耳元で甘い声で囁く。


「それでは改めて。昨日はありがとうございました、盗撮魔さん。いい写真は撮れましたか?」


 背筋にビリビリッと電流が奔る。同級生とは思えないくらい大人びた蠱惑的な声にドクンと心臓が大きく跳ねる。


「……お、おかげさまで。今まで撮ってきた写真の中でも一、二を争うくらい良い絵が撮れたよ」


 この美女が何を考えているかわからないので俺は開き直ることにした。もちろん我ながら最低だという自覚はある。


「それは何よりです。あっ、参考までに見せていただくことはできますか?」

「何の参考にするんだよ……って聞いても教えてくれないよな?」


 俺の質問を四ノ宮さんは笑みを浮かべてスルーする。俺はため息を吐きながら胸ポケットに手を伸ばした。


「わかった。どうしてもって言うならどうぞご覧ください」

「ありがとうございます。庵野君が素直な方でよかったです」


 さぁ、早くと手を差し出して催促してくる四ノ宮さん。俺は渋々スマホを操作して昨日撮影した写真を画面に映し出して手渡した。


「なるほど。庵野君から私はこう見えていたんですね……やっぱり自分で撮るのと人に撮られるのとでは違いますね」

「あの構図で自撮りをするならせめて三脚を使わないと上手くは撮れないと思うぞ」


 最近のスマホのカメラの画質は安いカメラより遥かにいい。何ならスマホで撮影した映像が大作映画の一部に使われたりもする時代だ。

 とはいえそれは外側のレンズの話。自撮りをする内側のレンズは画質が落ちる。加えて慣れないと画角の中に身体全体を納めるのも難しい。


「へぇ……知りませんでした。そういう便利なグッズもあるんですね」


 まさかそんなことも知らずに自撮りをしていたのかと内心で呆れそうになるが、四ノ宮さんは俗世に疎そうなところがあるから仕方ないかと納得する。


「あと夕方の薄暗い教室での撮影だったせいでいまいち陰影がはっきりしていないんだよな」

「これでも十分綺麗に撮れていると思うんですけど……写真って奥が深いんですね!」


 スタジオでも教室でも、撮影にはライティングは不可欠だ。光を制するものは写真を制するなんて言われるくらいだからな。


「せっかくいいシチュエーションだったのに……これじゃ台無しだよ」


 自分がプロのカメラマンである自負する気はさらさらないが、それでも数え切れないくらいシャッターを切ってきたというプライドはある。だから最高の被写体が目の前で披露している〝永遠に残したい美しさ〟を撮影できなかったことがただただ悔やまれる。


「それでは……ちゃんとした設備があればもっといい写真が撮れる……そういうことですしょうか?」

「ん? まぁ少なくともその写真よりいい一枚を撮れる自信はあるかな?」


 ユズハさんといつも行くスタジオとかでなくとも、それこそ自宅でも十分撮影は可能である。俺の家なら設備もあるのでなおさらだ。まぁ天地がひっくり返ったとしても提案する気はないが。


「……なるほど。それはいいことを聞きました」

「なぁ、四ノ宮さん。あんた一体何がしたいんだ?」

「そうですね。今ここでお話してもいいのですが……そろそろ皆さん登校される時間になるので続きは放課後にしましょう」

「……俺に拒否権はないんだな?」

「えぇ、残念ですが庵野君には拒否権はありません。放課後、昨日の場所で待ち合わせしましょう。逃げたらどうなるか……わかりますよね?」


 四ノ宮さんはペロリと舌なめずりをしながら妖しく微笑む。心臓をギュッと鷲掴みにされたような錯覚に陥り、まともに呼吸ができなくなる。


「聡明な庵野君のことです。私が何かお願いをしても証拠がなければ何とでもいいワケができる。そう考えているのではありませんか?」

「ハハハ……そんなことかんがえているわけないだろう?」


 図星を突かれて思わず片言な返事になる。というか日中と比べて今の四ノ宮さんは別人だ。聖女の顔はなりを潜め、今や完全な小悪魔である。このギャップは反則だ。


「深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいている。有名な哲学者の言葉なんですが、この場面で使う時はどんな意味があると思いますか?」

「ま、まさか……!?」


 言われた瞬間、俺の頭の中に昨日の映像が鮮明に蘇る。

 四ノ宮さんと目が合ったと思って逃げ出したあの時。背後から微かに聞こえた音があった。非現実的な光景を目の当たりにし、それを記録に納めることに成功した興奮と罪悪感で気にも留めなかったが、あれはシャッター音ではなかったか。


「思った通り察しがいいですね。咄嗟のことでしたが、キョトンとしている庵野君の可愛い顔や慌てて走って逃げる背中が私のスマホに収まっています」


 その意味がわかりますね、と言われて俺は黙って首を縦に振って恭順の意思を示す。どうやら俺の高校生活、いや下手すれば人生はここで終了だ。


「フフッ。素直で従順でよろしい。それでは続きは放課後に。二人きりでまたお話ししましょうね」


 そう言い残して四ノ宮さんは教室から出て行った。それからほどなくして生徒たちが登校してきて学校全体に活気が出始める。


「自業自得、身から出た錆……とはいえ最悪だ」


 それとは対照的に俺は再び鞄に頭を突っ込んで独り言ちる。こんなことになるなら校舎を散歩しないで即帰宅すればよかったと心の底から後悔するのだった。

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