冷たい硝子の海を逞しく泳ぐ女たち

@k-shirakawa

第1話 美夏は親友の緑子に相談

 美夏は社内で飛ぶ鳥を落とす勢いで実績を上げ、自身の実力と運だけで、ついに三十五歳で総合職の同期の男性を含めた中では先陣を切って課長に昇進した。営業部から古巣の商品開発部に戻って課長職に就いてから半年を経た二〇十五年の初夏だった。


 美夏は昇進の知らせをメールで受け取った直後から職務が慌ただしくなり、以前から約束していた緑子との飲み会が先延ばしとなっていたが、この時は珍しくその忙殺されていた美夏の方から、「相談したい事があるの……」と、元気のない声で同じ部内に在籍している親友の緑子が連絡を貰った。


 同じ部内に在籍していても、課が違う事から、美夏はいつも飛び回っていて、緑子と会うのは本当に久しぶりだった。待ち合わせの店に現れた美夏は清潔感溢れるオフホワイトのハイネックブラウスに、ネイビーのスーツ姿で、アイシャドーやルージュの色味は抑えながらも、以前は見られなかった、まつ毛エクステや品の良いネイルを施すなど、華やかさが増した印象を受けていた。


 二人は久々に会った事から話しが盛り上がり酒の量が増えて落ち着いた時に、美夏が言い難そうに重い口を開いた。「実はさ……部下たちから、思わぬ嫌がらせを受けていて……」


 緑子は予想していなかった内容にやや戸惑いながらも話しを振った。「辛いだろうけど具体的に話してよ……?」


「――同期入社の女性係長が先導して、課員たちに私を無視させたり、重要案件の情報を報告しないように仕向けたり、直属の上司との会議を私には知らせなかったり、最重要のお取引先の商品開発を勝手に進めていたりなど……」


「そんな事をあの人やっているんだ?」と緑子。


「うん。それでその係長は私よりも偏差値の高い大学を出ていて、親はうちの会社の株を多く持っているとか、貴女は相変わらずの独身で私は結婚しているとか、洋服とかバッグは私よりも高価な物を持っているとか、日頃はそんな低次元で直接的なマウンティングしてくるんだけど、一番は陰で動いて課員を扇動して嫌がらせをするところがね……」と美夏。


「それは、酷いわね。会社の相談窓口に訴えたの?」と緑子は自分の事の様に憤慨していた。


「そんな事をしたら、会社から私の指導力不足を疑われ兼ねないでしょ? それが大義名分のルールだし。同期の彼女の嫉妬から起こっている嫌がらせだし、マウンティングだとしても私がモラハラだと訴えたら、彼女らの思うツボになっちゃうしね」と美夏。


「女性のマウンティングは良く聞く話だけど、余りにも質が悪いし、会社の業務に支障が出るものね」と緑子。


「彼女たちは私が上司に女の武器を利用して出世したと以前から触れまわっていて……でも私は自分の実力と運で上り詰めたつもりでいるし、天に誓ってそんな事をした覚えはないし……」と美夏は歯切れの悪い言い方で言った。


「確かに美夏は私から見ても美人だしスタイルも抜群だから、そう思われてしまうのが辛いところだけど、私は美夏がそんな姑息な事をする女だとは思っていないし、美夏の真の姿を見たら本当に正義感が強くて男前だものね?」と緑子。


「それほどでもないけど……」と美夏。


「うちの課の女性社員だけで飲んだ席だけど本当に『女の武器を使って何が悪いのよ? そう思わない? 男性社員だって上司に対してヨイショしてゴルフや上司が可愛がっている行き付けの高級クラブに行く事もあるじゃない?』っていう女性課長もいるからそう思われるんじゃないのかな?」と美夏。


「たしか……その課長って山下……」と緑子。


「そう、山下夢佳やましたゆめかよ。私たちの二期下の」と美夏。


「私も課長になったのも早いって言われていたけど、彼女は私よりもかなり早かったから、女の武器を使っているのかもしれないわね?」と緑子。


「それだけじゃないのよ。この会社がだいぶ昔に合併したじゃない。あの人の遠い親戚にその相手会社の役員がいたらしいの」と美夏。


「だったらそんな女の武器なんか使わなくても良いんじゃないのかな?」と緑子。


 そんな他人の話しはどうであれ、美夏の状況はかなり深刻な上にポツポツと元気なく語っていた。


 その後は緑子の頬が心なしか紅潮しているように見えて膝を擦り合わせてモジモジした彼女らしくない恥ずかしそうな仕草をしながら口火を切った。「私の話しをしてもいいかな?」


「うん」と美夏。


「実はさ、夫は単身赴任中なんだけど、若いカレが出来て……」と緑子。


「それって不倫じゃないの?」と美夏は驚いた。


「うん。まぁ、そんな所かな。だって以前も話したけど、主人とはずっとレスだったから」と緑子。


「若いってどのくらいなの?」と美夏は羨ましそうに聞いた。


「一回り」と緑子は嬉しそうに答えた。


「えぇ! それって二十三歳?」と驚きを隠せずに美夏の声は裏返った。


「二十六歳で、調理師さん」と緑子。


「どこで知り合ったの?」と美夏。


「出張料理人って知っているでしょ? 今流行りの」と緑子。


「うん。一週間分のお惣菜やパーティー料理を作り置きしてくれるシェフでしょ?」と美夏。


「そう。私は美夏の様に忙しい仕事をしている訳ではないけど、夫の母の具合が悪いから実家に行き来していたの。実家が本社から遠いし飼い犬もいるし植物もあるから家に戻って来て出勤していたの」


「それは大変だったわね」


「もう疲れちゃって夕飯のお買物や作る時間がどうしても取れなかったから夫に相談したら、『出張料理人って今、流行っているじゃない?』って言われて頼む事になって、本当はそのカレではなくて女性の責任者が来るはずだったんだけど、手違いがあってカレが来たの」


「その後のお義母様は?」と心配そうに美夏が質問した。


「うん、お陰様で」と緑子。


「なら、良かったわね」と美夏。


「うん、ありがとう」と緑子。


「それにしてもそのカレと……そんな関係になるとは……?」と美夏は信じられない様子だった。


「そうなの。一週間分の夕食を作ってもらって帰ってもらったんだけど、兎に角、美味しくて、その後の一週間分も作って貰ったら、サービスですって言って二週間分を作り置きしてくれて、そのサービスの一週間分は冷凍保存してくれて電子レンジに入れて温めるだけで食べられるようにしてくれていたから」


「そんなサービスだったのね」


「未だ話は続くの。その後の一週間分をお願いした時にカレの休日に我が家でデートしたの。その後は押し倒されて、ご想像にお任せするわ」と緑子は嬉しそうに話した。


「いいな。私もずっと空き家だから、そんな若いカレが出来たら楽しいのに」


「空き家って言ったって、婚約者がいるじゃない?」


「でもアイツはナルシストだから自分勝手で、連絡不行き届きで中々逢えないから」


「美夏はそんな男性の浮いた話しはないものね。だから出世したんだしね」


「実はさ……とても信頼している、上司がいて……。上司と言っても今じゃ役員ね。仕事に対する考え方や今の仕事で私をとても評価してくれて、その人から色々とアドバイスをもらって、でも変な関係ではないのよ。ただその人と課の会議の後に課内に残って二人で話していた時の姿を見た、例の係長や部下たちが勝手に想像して、その後の嫌がらせやマウントが少なくなっていった事は確かなの」と美夏。


「良かったじゃない」と緑子。


「そう言った意味では私の恩人かもね?」と美夏。


「美夏、その上司って、もしかして執行役員の佐々木さんかな?」と緑子。


「うん、そう……」と美夏。


「プライベートな事だから、詳しくは聞かないけど、既婚者よね?」と緑子。


「そうだけど……」と美夏。


「私が聞く限りでは余り良い情報は入って来ないけど?」と緑子。


「そうなの……? でも私は全くのプラトニックだから」と美夏は明るく言い、続けて「実はうちの課の例の課長の事で課内、いや部内に彼女が女の武器を利用して出世していると吹聴した課員がいたの」


「そんな事があったんだ」と緑子。


「結局、その佐々木さんが、彼女の直属の上司の部長に注意して、『厳格な対処をしなさい!』と指示した事で、ハラスメントやマウント行為を先導した私たちの一期下の男性係長は始末書を書かされて左遷までされたのよ。他の部下たちは口頭だったけど物凄く厳しい注意を受けてハラスメントやマウント問題は収束したの。そう言えば同じ課よね? 緑子は注意されたの?」と美夏。


「私は他人の悪口とか嫌いだし、他人が出世しようがしまいが我関せずだから、課内で私だけは注意されなかったわ」と緑子。


「流石だよね、緑子ねえは!」


「何よ、同い年なのにその言い方は?」


「だって、元ヤンのレディースの総長だっけ?リーダーだもの。極道の妻たちではそんな呼ばれ方されていたじゃない? これからも頼りにしているわよ。姉さん!」と美夏は笑った。


「課内ではその課長に聞こえないように『課長に何かしたら、バックに佐々木さんが居るから倍返しで何をされるか分からないから!』と実しやかに囁かれるようになっているの。だから佐々木さんは本当にヤバイから美夏はくれぐれも気を付けてよね!?」と緑子は心配して言った。


「その山下課長と佐々木さんの噂を聞いたのかな。うちの課員たちが」と美夏。


「そうかもしれないわよ。だからハラスメントやマウントをされなくなったのかもね?」


「今更だけど、会社って怖いわよね?」


「だから美夏はその点が天然で無防備なんだから、本当に気を付けてよ!」


「そういう緑子だって、人の事、言える?」と言って笑った美夏。


「まっ、そうだけど、私は夫に内緒にしていれば済む話だから、それに今回はお義母さんのお世話もして主人からお礼まで言われたしね!」と舌をペロッと出して明るく言った緑子だった。

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