🪤お隣さんの事情🦌
「そうですか。兵太郎さんはこの近くで喫茶店を」
ふんわりした長めのボブを風にそよぐ草のように揺らす遠いお隣の女性は、名を
「あらいけない。私ったらこんな格好で」
凪紗は何かの何かで赤黒く汚れたエプロンの前を恥ずかしそうに隠しました。
「それにさっきはすいません。お隣さんを泥棒扱いしてしまって」
「いやあ、突然お邪魔したのはこっちですから」
「そんなお邪魔だなんてとんでもない。お隣同士今後ともよろしくお願いしますね」
「こちらこそ。お隣って言ってもかなり離れてますけど」
「まあ、兵太郎さんったら」
あっはっはっはっは。
ご近所同士、他愛もない会話で二人は笑います。
突然お邪魔して庭先まであがりこんだ非常識で迷惑極まりない兵太郎。なのに凪紗というこの女性は随分と好意的な対応です。
「紅様、この方……」
「わかっておる。皆まで言うな」
クロの言葉に紅珠は眉間のあたりを軽くつまんで首を振りました。
「しかし弱りました。鹿の肉ですか……」
「はい。ぜひ譲ってほしいんです。きっとみんな喜んでくれるんです」
ぺこりと頭を下げる兵太郎。猟師であるらしい凪紗に鹿や猪の肉を分けてほしいとお願いしているのです。
もしもお店で出すことができたなら、たくさんの人が喜んでくれるでしょう。その顔を想像したらもう兵太郎は止まれないのです。
「兵太郎さんどうか頭をあげてください。貴方のような方になら、いえご近所さんと言う意味ですが、お譲りしたいのはやまやまなのですが……」
狩猟でしか手に入れることができない野生動物の肉は大変貴重な物。頭を下げたからと言って手に入れられるものではありません。
「お前様、誠意も大事じゃが用意できる対価の方も伝えないとはなしにならんぞ」
断られそうになる交渉を引き継ぐのは頼りになる奥さん達です。
「で、藤よ。兵太郎の奥さんとして聞くのじゃが、我が家ではどれくらいなら出せるかの?」
紅珠はお隣さんに自分が「奥さん」だとアピールしつつ藤葛に聞きました。
こくり家の家計の管理は藤葛が行っています。兵太郎にお金を持たせておくと後先考えず見つけたおいしそうなものを買ってしまうので、買い出しの際も藤葛が必要な分だけ渡すのです。
「そうですね紅さん。兵太郎の奥さんとしてお答えしますが、我が家の家計上この辺りまでならなんとか」
藤葛は「我が家」という言葉でお隣さんをけん制しつつ、狸流変化法スマートフォンの術にぴぴっと金額を表示させました。
「凪紗さんでしたわね。相場がわかりませんので常識的な範囲で可能な限りを提示させていただいているつもりですが、いかがでしょう?」
現在のこくり家の収支は大きくマイナス。お店を続けるごとにお金が無くなっていく状況。
それでも兵太郎の望みなら叶えてあげたい奥さん達です。
藤葛が提示した金額は、掛け値なしの支払い可能な全額。
紅珠の
それでもやはり、凪紗は首を横に振りました。
「金額は十分以上です。結構なお話をありがとうございます。でも残念ながらご用意すること自体ができないのです」
「というと、何か理由理由があるのじゃな?」
「はい。まずお詫びを。兵太郎さん、私は猟師ではありません。勘違いさせてしまってごめんなさい」
えええ、と驚く兵太郎。でも兵太郎が勝手に猟師さんに会えたと勘違いして喜んでいただけなので凪紗は悪くありません。
仮にもしもよしんば例え万が一、凪紗が兵太郎との会話を少しでも長引かせたくて言い出せなかったのだとしても、それを攻めるわけにはいきません。
「でもじゃあこの猪を捕ったのは誰ですか?」
「父です」
「なるほどそっかあ。猟師さんはお父さんの方でしたか」
それならお父さんに頼めばいいんだ、とえへらと嬉しそうに笑う兵太郎。
兵太郎のその顔が全部悪いのです。そんな顔されたら駄目だなんて言いたくないんです。でも現実はそううまくはいきません。
「申し訳ありません。父は……」
兵太郎の顔を見ないように下を向いて、凪紗が事情を話そうとした時、奥の家からもう一人、男の人が出てきました。
「凪紗ちゃん、お客さんかい?」
年齢的には40歳くらいのその人は、片足を引きずっていました。
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