千年の空腹
兵太郎は冷蔵庫から鶏のもも肉を取り出すと、それを手早く一口大に切り分けてフライパンへと放り込みました。
いつの間にか適温に熱せられていたフライパンから、ジャッっという肉と油の焼ける音が響きます。そこにお塩、胡椒を少々。
漂い始めた香りにつられて、空腹ではないはずの紅珠と藤葛も思わずカウンターの中を覗き込みました。
ととんとんとん。
二人が肉の焼ける音と香りに気と取られていると、まな板が子気味の良いリズムを刻みます。
「ほ?」
「え?」
すると突然、そこにみじん切りにしたピーマンと玉ねぎが現れました。
「な、なんじゃ今のは妖術か?」
「あはは、まさかあ。僕は人間だよ」
兵太郎はへらへらと笑っていますが、さっきまでは確かにそこには何もなかったのです。普通に考えれば兵太郎が切ったのでしょうが、かかった時間に対して仕事の量と質が異常です。魔法か妖術にしか見えません。
ととんとんとん、とんとんとととん。
今度現れたのはさっきよりも少し大きめのセロリとブロッコリー、エリンギ茸。
それを見た藤葛はごしごしと目をこすりました。
均一に整えられた野菜が突然現れたのはやはり異常ですが、それ以上に不思議なことが起きています。
「ね、ねえ、気のせいでしょうか。あの野菜、光っておりませんか?」
「う、うむ。儂にもそう見える」
「あはははは、二人とも面白いこと言うなあ。野菜は光らないよ」
野菜が光らないなんてことは、紅珠と藤葛の二人だって百も承知。
しかし二人の妖怪の目にははっきりと切りそろえられた野菜が淡い光を放っているのが見えるのです。
みじん切り野菜がフライパンと小鍋に分けて入れられ、再びジャッという軽快な音が響きました。
入れ替わりに、先ほどまでフライパンに入っていた一口大の鶏肉がまな板の上に現れます。焦げ目がついた肉に包丁が入るザクッという音。現れた断面を見て、二人は思わずゴクリと唾をのみこみました。
しかしあふれ出した透明な肉汁がまな板につくよりも早く、刻まれた鶏肉はフライパンへと戻されてしまいます。
それを眺める二人の妖怪に、久しく忘れていた感覚がよみがえりました。
「な、なんじゃこれは。腹が、腹が減る……?」
「何故でしょう、私もおなかが空いて……」
そう、それは空腹でした。食料を必要としない二人に、圧倒的な食欲が生まれたのです。
ぐうう。
大きな音を立てたのは、どちらのお腹だったのでしょうか。
「ち、違うのじゃお前様、今のは」
「ううう、さっきまで全然平気だったのに、というかこの体は仮想体なのに」
「あはは。二人ともお腹が空いてるのわからなくなっちゃうくらい、お腹が空いていたんだね」
恥ずかしさで顔を上げられないでいる二人それぞれの前に、ことりと小さな皿が置かれました。
そこには先ほどのフライパンで炒められた鶏肉が二切れずつ。
美しく焼き目がつけられた、炒めて塩と胡椒を振ったただけの鶏肉です。それは先ほどの切り分けられた野菜よりも強く、光を放っておりました
ごくり。
腹ペコの二人は再び唾を飲み込みました。
もしもそれを口に入れて歯を立てたなら、先ほど目の前で見せられた光景が間違いなく、今度は口の中でおきるのです。
「先にそれ食べて、もう少し待っててね」
恥ずかしいとか、はしたないとか、がっつくなんてみっともないとか。
巻き起こる衝動は、そんな生半可な感情で抑えきれるものではありません。
「「いただきます!」」
自然に出たその言葉とともに、二人は鶏肉にかぶりつきました。
ざくり。
自身の油で揚げ焼きにされた皮の内側から、甘い油があふれ出します。肉は噛むたびに旨味を増し、口の中に広がっていきます。
「おいしい!」
「うまい、うまいいいいい!」
「ね。おいしいでしょ。麓の農家さんに分けて貰ったんだ。ちょっと見ないくらいいい肉だよねえ」
一口目を味わった後にそっと添えられた一言。それは魔法のように二口目への期待感をさらに高めます。
かくしてたった二切れの肉はあっという間に皿からなくなり、そして恐ろしいことが起きました。
「なんじゃ、これはどうしたことじゃ。食べたのに、今食べたのに、」
「嘘でしょう、さっきよりもお腹が空いて……?」
なんと二人はさっきよりも強い空腹に襲われてしまったのでした。
「あはは。光栄だね。もうすぐできるからねえ」
兵太郎は嬉しそうに笑うと、二人に向けて手を広げて見せました。その指の間には卵が三つ。
「これも同じところで分けてもらったんだ。期待していいよ」
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