第2話・饗庭明日彌、蜘蛛の巣を見る
DNA鑑定が何でもかんでも簡単におこなわれるわけではない、そう言われた時に陵介は愕然とした。警察官は善良な市民の味方だと思っていた、が、遺族に寄り添うというわけでもなかった。
まだ遺族と決まったわけではないし、菜緒の左手に蜘蛛の巣のタトゥーなんて、それだけで本人じゃないと断言できる。 陵介は自分のことを「遺族」と呼んだら、この中年の警察歯科医の男に食って掛かってやると決めていた。だが警察は意外と慎重だった。「立木さん、この手は奥様の手かどうか鑑定したいのですが、テロの被害は酷く、いますぐDNA鑑定というわけにはいきません。ご遺体の確認がすぐできませんで申し訳ございません」
丁寧な口ぶりに、陵介は面食らった。ここでは誰もが被害者なのだ、陵介は自分のことを優先する自分を恥じた。 指輪は爆破の熱のせいで、指に食い込んでいた。切断しなければリングの内側に掘られたネームや日付け(ryosuke&nao/202406)という手がかりも確認できなかった。もちろんすぐさま切断というわけにもいかず、鑑定時に一緒に確認して欲しいと言い残した。
いますぐというわけではないが、時間がかかってもいいから、後回しでもいいから、この左手を手掛かりに、菜緒かどうか調べて欲しいと、陵介はお願いし、連絡先を残してその場を去った。
暗いプレハブ倉庫。生活音がかすかに聞こえる、隣の母屋から。明日彌は冷静に状況分析を重ねていた。
「腹が減るわね。成長期なんだから、なんか出しなさいよ!一日三食で、この若い身体が満足するとでも思っているのか!オイ」
明日彌の口の悪さは、学校でも有名だ。腹が減ると、タチが悪い。バッグの中には、スティック状のカロリーバーをいくつも潜ませている。母が学校から帰ると、バーをいくつもカバンに入れておくのだ。
「こぉおおおら!早く、なんか、食わせろ」
明日彌が暴れる。顔は男に殴られた痣だった。両手はパイプベッドのヘッド部分にそれぞれ手錠で固定されている。足はゴムチューブのようなもので、左右ともにベッドの脚部に結びつけらえて固定されている。大の字になった状態で、明日彌は縛り付けられ、体の自由は一切効かなかった。
「静かにしなさい。今から、君を殺してあげるから。ね、その前に僕とおそろいのタトゥーを入れよう」
男は明日彌に右手を見せた。ゴム手袋をしている。身長は百六十センチほど、中肉中背。年は四十代。童顔だがシワとシミが多く、明日彌が事前に聞いている男の情報と一致していた。
明日彌が追っているのは
確保の条件は、無力化のみ。殺害しなければどんな方法でも構わない。舌を抜き取とっても、筆談で会話させればいいし、鼓膜を破壊しても、筆談で会話すればいい。目を潰したら、耳は残しておかなければならない。どのパターンで無力化すればいいか考えるだけで、明日彌はゾクゾクしていた。
男がゴム手袋を外した。蜘蛛の巣のタトゥ―を確認した。右手の親指の付け根あたりに直径約三センチ。この男は、「澤登と思わしき男」という呼び名に変わる。
「さぁ、手を切断してから、タトゥーを入れるか、タトゥーを入れてから手を切断するか、選ばせてあげよう。この前の子は、タトゥーを入れてから、切断を選んだよ」
間違いなく、澤登だと明日彌は確信した。、明日彌は乞うように、懇願するふりをして訊いた。
「あの…その手は、切断したら、どうするんですか?」
「お、おとなしくなったねぇ。いい子だけど許してなんてあげないから」
「はい、私の手、その後どうなるのか気になって」
明日彌の右手と左手は既に手錠からいつでも抜けられるように関節を外している。
「そうだね、この前の子は、神保町の爆弾と一緒にお供えしておいたよ。あぁ、僕がテロリストってわけじゃなくてさ。一緒に、供養したいものってことで。って、もういいか。聞いても意味ないからさ」
明日彌はスッと両手を手錠から抜き取り、埋め込まれていた奥歯を引っこ抜いた。その先端は尖っていた。両足のゴムチューブを瞬間で尖った奥歯で切断。ベッドのフット部分を蹴り、上空へ飛び上がる。
暗いプレハブ倉庫、天井にはペンダントライトのみ。ライトを吊るしているケーブルを掴み、切断。そのまま、男の首に巻き付けた。ここまで二秒半。明日彌のイメージ通りだった。
「澤登高一郎よね、未成年者略取・逮捕監禁で捕獲」
「ほ、ほかくぅ?」
男は口から泡を吹き始めていた。両手両足がバタバタと暴れる。
「そう、捕獲。逮捕じゃないよ。捕獲。って、よだれッ汚い!」
「お、おでぉ、つかまえても、なんも、わかるわけ、ねぇええって」
往生際の悪い男を締めあげ、明日彌は、同じようにベッドに拘束した。殺さなければいい。無力化だけじゃ、決定的なネタは出てこない。菜緒先輩直伝の、エグ目の拷問で、この男自ら、澤登高一郎だと自白させる。他にさらわれた十三人の行方も吐かせる。ここまでやれば、菜緒先輩に一歩近づけると明日彌は本気で思っていた。
「ちょっとぉ、殺しちゃだめなんだよ。わかってるの?アスミン!」
拷問の用意をしていた明日彌に、救助と言う名目で応援が一名派遣されていた。もちろん救助というのは、明日彌に対してではなく、この澤登高一郎と思わしき男に対してだった。
アスミンと明日彌のことを呼ぶのは世界でただ一人。
「菜緒先輩ッ!」
明日彌はプレハブ倉庫の扉を開けて仁王立ちしている菜緒に目をやった。いつものように、カッコいい。逆光でシルエットしか見えない。ワンピースにスニーカー、菜緒が救助にやってきたのだった。
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