第29話 怪異も寝静まる夜 下



顔でか胴長短足舌足らず歯足らず猫は、口をシュルシュル言わせて呼吸を整えた。


そして、プリンちゃんを小脇に抱えて、覚悟を決めた。




宏明は気にせず、廊下に出た。


ふと、背中に気配を感じたと思ったら、宏明の背中にピタ……っとくっついている猫であった。


何かあったら宏明を盾にする魂胆なのだろう。




元来、幽霊だの超常現象などは一才信じない宏明であったが、この日ばかりは周りの空気に飲まれていた。


薄暗く、ひんやりとした廊下から、嫌に雰囲気を感じる。


なんとなく足音が、自分の足音ではないような不思議な感覚を覚えた。……がそれは、


自分の歩調に合わせて、馬鹿猫が歩いているため、トトン、トトンという気色の悪い足音に聞こえるからであった。


猫は、妖怪ぬらりひょんよろしく、自分の背中を盾にしてピタッとくっついてるため、


猫の口から発せられる『グシュングシュン』という珍妙な呼吸音が耳元に響く。




窓の外は真っ暗で、いつも聞こえる車の音もしない。


常に、背中を誰かに見られている気配がつきまとう……実際に、巨体猫に付き纏われている。


階段を降りる。


……真っ暗な階下から音がする。それは明らかに不自然な音であった。



じょろ、じょろ、じょろ、と水の音がする。


宏明が階段を一段下れば、音も少しずつ大きくなる。


慎重に、手すりを伝って、一段、一段、降りていく。


心拍が上がっていく。呼吸が浅くなる。居ないはずの存在を、明らかに一階から感じる。


指先が冷え、なのに身体中の血液が毛細血管を伝っていく感覚がわかる。


そして最後の一段を降ろうとした時、










「ア ア ア アーーーーー!!!」









耳元で叫び声が聞こえた!

ひぃ! 宏明は思わず腰を抜かし尻餅をついた。何事かわからずあたりを見回すと、


叫び声の主が背中の怪異猫だということがわかった。


「何どした!?」


「足に何かがあたったジャン!!」


……猫が、ゲシゲシと足で、宏明の背中を突っついている。


「シャ……お前の背中ジャン。脅かすなジャン。バカ」


……こっちのセリフだ。なんだったんだ今の時間は。





風呂場の前についた。誰も居ないはずの風呂場の明かりがついており、


じゃぶ じゃぶと水が脈動するかのような音がする。


振り返れば、口が臭い化け猫がいる。



宏明の心拍は157に達していた。


宏明の小さい小さい心臓が、彼の肋骨を殴って押し返してるかのようだった。



風呂場の扉の取手に手をかけた時、違和感を感じてその手が止まる。


……風呂場から、声が聞こえる……それは歌を歌っているようだった。


そして、何かを病的に磨いている音が聞こえる。


歌は、難解な音階であり、音楽よ呼ぶより恨み節のように宏明の耳まで届いた。


込み上げる胃液を押し込め、制御が効かず震えの止まらない手で持って、宏明は風呂場の扉を開けた。


そこには…… ……





…… ……





「(一番)
湯気が立ちのぼる 春の宵(よい)♪

(ゴシゴシ)



肩を流せば 故郷(ふるさと)が見える♪


(ゴシゴシ)


赤堤(あかづつみ)の 空に咲く♪


桜吹雪も 泡になる
『男ひとりの 風呂情け、
語る相手も おらぬまま…』♪


(ゴシゴシ)


湯船に浮かぶ 想い出よ♪」




そこには……巨大なアメリカザリガニが、頼んでもいない風呂掃除を夜中にしていた。




「(二番)
夏はほら貝(がい) 吹き鳴らし♪

(ゴシゴシ)


汗を流せば 義理の風
『負けた勝負に 泣くものか』♪


(ゴシゴシ)


ハサミを磨けば 月が笑う
『男ひとりの お風呂場で、
恋も未練も 泡となる…』♪


赤い甲羅が ほてりゆく♪


やや?」


唖然としている宏明と猫に、アメリカザリガニが気づいて、謎の歌を止めた。


「やや! そこにおられるは我が恋敵!」


「……何をしてるんだ」


「うむ! それがし! 惚れた女に、快適な朝風呂を提供したい一心で風呂掃除をしておりありはべりいまそかり。

 拙者、水回りの掃除は家内随一と謳われしザリガニにて候」


「あー、うん……まあ、ほどほどにね」


気がつけば猫はいなくなっていた。さっさと帰ったのだろう。


一連の報告を済ませるために2階の自室に戻った宏明だが、麻由の姿はすでになく、


麻由の部屋を覗いてみれば、猫といびきをかいて寝ていた。



……翌朝のことである。

宏明が、起きたばかりの麻由に昨日の事件の顛末を語ると、麻由は寝ぼけ眼で首を傾げ、


「何のこと?」


と言った。


「いや、だから、昨日の風呂場の物音の正体だよ。怖くて見に行けないって言ったじゃん」


「……誰が?」


「麻由が」


「行ってないよ?パパの部屋なんか。」


?何か話が噛み合ってないような気がする。

麻由の隣にいる馬鹿猫に聞いてみても、

 

「シャーナイ(知らない)」などという。昨日散々怖がってたはずなのに……


麻由は悪戯でも嘘をつくような子ではない。





……と、すると?昨日俺の寝室に来たのは……?



つ、疲れてるんだな。そうに違いない。

宏明は、真っ黒なコーヒーを胃に押し込めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る