霧の中の希望

高橋健一郎

第1話

霧の中の希望


第一章:霧の訪れ


冷たい風が六甲山の山肌を滑り降り、神戸の街を包み込んでいった。

霧はゆっくりと下界を覆い尽くし、遠くに見えるはずの海も港も、白く滲んで輪郭を失っていた。


裕也は、六甲山の展望台にある古びたベンチに腰を下ろしていた。

コートの襟を立てて頬に当たる冷気をしのぎ、街の方角をじっと見つめる。

霧が濃くなると、そこにあったはずの景色はまるで夢のように消え、かわりに目の前にはただ真っ白な空間が広がるだけだった。


「また、霧か……」


誰に言うでもなく、裕也はぽつりとつぶやいた。

霧が出る日は決まってここに来る。自分でも理由はわからない。

ただ、霧に包まれると、不思議と心が落ち着くのだった。


霧の中では、時間の流れさえも曖昧になる。時計を見る気も起きず、ただここで霧を見つめているだけでよかった。

裕也にとって、この場所は逃避の場であり、心が静かに還る場所だった。


そのときだった。


霧の中に、かすかに人影が揺れているのが見えた。


はじめは霧が生み出した幻のように思えたが、その人影はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

背筋をまっすぐに伸ばし、黒いコートをまとったその姿は、遠くからでも品のある佇まいが感じられた。


裕也は無意識のうちに視線を逸らした。


なぜだかわからないが、その人影を直視することに少しだけためらいを覚えた。


「誰かいる……?」


足音はほとんど聞こえなかった。

霧がすべての音を吸い込み、近づいているはずの気配さえ曖昧だった。


ふと、気づくと彼女はすぐ隣に立っていた。


「こんにちは。」


彼女がそう言った瞬間、裕也の心が静かに震えた。


声は柔らかく、霧に溶け込むような響きだった。それでいて、どこか直接心に届くような感覚を伴っていた。


「……こんにちは。」


裕也は戸惑いながらも、返事をする。


「寒いですね。」


彼の言葉に、彼女は微かに微笑んだ。

しかし、その微笑みは霧に紛れて、すぐに見えなくなった。


「ここに座ってもいいですか?」


彼女の問いかけに、裕也は驚いた。


「ええ、どうぞ。」


少しだけ身を寄せ、彼女のためにスペースを作る。

彼女は静かに腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。


霧はますます濃くなり、街の灯りすら見えなくなっていた。

まるで、この場所だけが世界から切り離されたようだった。


「ここに来るのは、初めてですか?」裕也は思い切って尋ねた。


「いいえ。」


彼女はそう答えたが、続く言葉はなかった。


沈黙がしばらく続いた後、彼女がぽつりとつぶやいた。


「霧の中には、何かが隠れているんです。」


「……何かって?」


彼は思わず聞き返した。


「希望です。」


彼女の声は霧の中に静かに響いた。


「でも、見つけるのは簡単ではありません。」


彼女はそう言って、ゆっくりと前を向いた。


裕也は彼女の横顔をじっと見つめる。

彼女の顔立ちは霧にかすみ、はっきりとは見えない。


霧が晴れるとき、この出会いが幻だったのか、それとも現実だったのかがわかるのかもしれない――。


裕也はそう思いながら、彼女とともに霧に包まれた街を静かに眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る