1−3 幼少の剣豪と、愛しき者
まだ自分が十歳で、初めて戦場へ出掛けようとした前日のことだ。
覚えている。その日は、
「ごめんなさい、
屋敷を出ようとした朱鷺常の視界が、ふいに黒の
真っ暗な視界のなか、耳に入ってくるのは
二十代ほどの
師匠に抱きしめられていると、朱鷺常はこの時ようやく気づいた。
「師匠……、苦しいですよ」
「いいのよ、朱鷺常。あなたが
涙に
だからなのだろう。
思えば、誰かに身を案じられるなどこの十年の人生で一度もなかった。
物心ついた頃から親と呼べる者はなく、生まれつきの醜い容姿のせいで、孤児であった自分に救いの手を差し伸べる者はいなかった。
むしろ村や街を歩けば「醜い」と
けれど、
この人は嫌な顔をせず屋敷へ受け入れ、今に至るまで寝食の場を与えてくれたのだ。
朱鷺常からすれば、師匠は剣の師であり、そして親ともいえる欠けがえのない家族といってもいい。
正直、桜や山の自然に
でも、だからこそ……。
体に巻き付く師匠の腕を、朱鷺常は優しくほどいた。
「すまない、師匠。それはできない……。隣国の進軍を抑えねば、この地にも
島国"
そして噂では敵対する
手をこまねけば、ここら一帯が戦場となりかねない。
そうなれば、周囲に広がる桜やこの屋敷、果ては師匠すら
「何も私の代わりなんて務める必要はない。今からでも私が――、ごほっごほっ……!」
師匠は突然地面に
「無理をするな師匠……。もう、戦える体じゃない」
膝をついた師匠の背中をさすりながら、朱鷺常は
かつて『
数年前より
先日やってきた医師の見立てでは、安静にすれば当面もつとのことだが、もはや剣の振れる体ではないとお墨付きまで喰らってしまった。
「病魔などなければ、朱鷺常をこんな目に合わせずに済んだのに……。
地面に膝をつけ全身を震わると、師匠は半ば自分を責めるように苦悶の表情を浮かべた。
自分のせいで、師匠が苦しんでいる……。
罪悪感に胸を締めつけられながらも、師匠を心配させまいと、朱鷺常は精一杯の笑みで応えてみせた。
「拙者は、最強の
強がりではない。十歳と幼いながらも、そこらの
常人離れした身体能力を与えてくれたのは、この醜い体に対する唯一の感謝かもしれない。
「師匠はそのまま屋敷で療養して、拙者の
「朱鷺常……」
説得しても無駄と理解したのだろう。
悲しげな顔を
「
師匠は涙で濡らした黄色い瞳をまっすぐ向け、そして力強く口にした。
「必ず、帰ってきなさい……。生きて……、絶対に帰ってきなさい……、
風が吹きつけ、桜の花びらが朱鷺常の
先ほどよりもぎゅっと強く。
少し苦しかったが、嫌な気分はかけらもない。むしろ密着した師匠の体から温もりが流れてきて、全身の緊張をやさしくほぐれていく。
春の陽気は、温かい。
でもそれ以上に、師匠の体は
気づけば、涙で目元を濡らしていた。限界だった。
深呼吸して抑えこんでも止めどなく頬に雫が流れ、胸の奥がいつまでも
堪えつづけてきた想いを
「分かってる、師匠。必ず、帰ってくる……」
絶対に、帰ってくる……。ここに、帰りを待つ愛しき人がいるから。
同時に、朱鷺常は心に誓った。この戦乱を終わらせてみせると。
戦のない平和な世で、また師匠と平穏を過ごしてみせると……。
雲ひとつない青空に桜の花びらが散りゆく中、朱鷺常は時間が許す限り師匠の
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