1−3 幼少の剣豪と、愛しき者

 走馬灯そうまとうのように朱鷺常が思い出したの、八年前の記憶。


 まだ自分が十歳で、初めて戦場へ出掛けようとした前日のことだ。


 覚えている。その日は、かわらばりの屋敷の周囲に広がる桜の木々が、薄紅色うすべにいろの花びらを咲かせていたことを。


 うぐいすのさえずりが青空へ溶け込むような、のどかな日だったことを……。

 

「ごめんなさい、朱鷺常ときつね……」


 屋敷を出ようとした朱鷺常の視界が、ふいに黒の布地ぬのじで遮られた。


 真っ暗な視界のなか、耳に入ってくるのは女人にょにんむせび泣く声。目元の布地を手でどかすと、目と鼻の先に黒い袴着はかまぎを着た若い女人にょにんが瞳に涙を浮かべているのが見えた。


 師匠ししょうだ。本名はわからない。


 二十代ほどの容姿ようしに、りんとした切れ長の茶色い瞳と端正たんせいな顔、そして背中までつややかに垂れた黒髪が印象的な女人にょにんだ。


 師匠に抱きしめられていると、朱鷺常はこの時ようやく気づいた。


「師匠……、苦しいですよ」


「いいのよ、朱鷺常。あなたがいくさへ行かなくてもいいの。この屋敷に、いつまでもいていいのよ……!」


 涙にれた師匠ししょうの瞳に、「行くな」という文字が確かに見える。それだけ、心の底から心配してくれているみたいだ。

 

 だからなのだろう。安堵あんどを覚えるうち朱鷺常は胸の奥を熱くし、危うく涙を浮かべそうになった。


 思えば、誰かに身を案じられるなどこの十年の人生で一度もなかった。


 物心ついた頃から親と呼べる者はなく、生まれつきの醜い容姿のせいで、孤児であった自分に救いの手を差し伸べる者はいなかった。


 むしろ村や街を歩けば「醜い」と罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせられ、時には石を投げつけたくらいだ。


 けれど、師匠ししょうは違った。


 この人は嫌な顔をせず屋敷へ受け入れ、今に至るまで寝食の場を与えてくれたのだ。


 朱鷺常からすれば、師匠は剣の師であり、そして親ともいえる欠けがえのない家族といってもいい。

 

 正直、桜や山の自然にあふれたこの屋敷で師匠といつまでも過ごせるなら、それ以上に望むものなど何もなかった。

 

 でも、だからこそ……。


 体に巻き付く師匠の腕を、朱鷺常は優しくほどいた。


「すまない、師匠。それはできない……。隣国の進軍を抑えねば、この地にも戦火せんかが及んでしまう」


 島国"極東きょくとう"は目下、戦乱の渦中かちゅうにある。


 そして噂では敵対する隣国りんごくが、朱鷺常たちの暮らすこの【明倭めいわ】の地に侵攻しようとしているとのことだ。


 手をこまねけば、ここら一帯が戦場となりかねない。


 そうなれば、周囲に広がる桜やこの屋敷、果ては師匠すら戦火せんあに巻き込まれるだろう……。当然、看過できるはずなどなかった。


「何も私の代わりなんて務める必要はない。今からでも私が――、ごほっごほっ……!」


 師匠は突然地面にふくし、枯れ木が折れるような音を立てて苦しく咳き込んでしまう。気づけば、口元を覆っていた美しい手が、赤の喀血かっけつよごれていた。


「無理をするな師匠……。もう、戦える体じゃない」


 膝をついた師匠の背中をさすりながら、朱鷺常は悲哀ひあいの眼差しを向けてしまう。


 かつて『冬刀ふゆがたな』と呼ばれた最強の剣豪は、もうここにはいない。


 数年前より病魔びょうまおかされた師匠は日に日にせ細り、布団にこもることが多くなった。


 先日やってきた医師の見立てでは、安静にすれば当面もつとのことだが、もはや剣の振れる体ではないとお墨付きまで喰らってしまった。


「病魔などなければ、朱鷺常をこんな目に合わせずに済んだのに……。不甲斐ふがいない……」


 地面に膝をつけ全身を震わると、師匠は半ば自分を責めるように苦悶の表情を浮かべた。


 自分のせいで、師匠が苦しんでいる……。


 罪悪感に胸を締めつけられながらも、師匠を心配させまいと、朱鷺常は精一杯の笑みで応えてみせた。


「拙者は、最強の剣豪けんごうたる師匠の弟子。おいそれと死にはせぬ」


 強がりではない。十歳と幼いながらも、そこらの雑兵ぞうひょうに遅れをとらぬ自信が朱鷺常にはあった。


 げんに、【明倭めいわ】の剣士として参陣さんじんの機会が与えられたのも、剣豪の弟子という立場を抜きに、剣術や体術の腕を見込まれたからだ。


 常人離れした身体能力を与えてくれたのは、この醜い体に対する唯一の感謝かもしれない。


「師匠はそのまま屋敷で療養して、拙者の果報かほうを待っていてください」


「朱鷺常……」


 説得しても無駄と理解したのだろう。


 悲しげな顔をうつむかせた師匠は、ほどなく朱鷺常の肩に両手をえた。


理解わかったわ。でも、無理はしないで……。死にそうになったら、迷わず逃げなさい。誰がとがめようと、私は朱鷺常を待っている。ここが、あなたの帰る場所よ。だから――」


 師匠は涙で濡らした黄色い瞳をまっすぐ向け、そして力強く口にした。


「必ず、帰ってきなさい……。生きて……、絶対に帰ってきなさい……、朱鷺常ときつね!」


 風が吹きつけ、桜の花びらが朱鷺常のほおかすめた次の瞬間、再び師匠に抱きしめられた。


 先ほどよりもぎゅっと強く。


 少し苦しかったが、嫌な気分はかけらもない。むしろ密着した師匠の体から温もりが流れてきて、全身の緊張をやさしくほぐれていく。


 春の陽気は、温かい。


 でもそれ以上に、師匠の体はあたたかい……。


 気づけば、涙で目元を濡らしていた。限界だった。


 深呼吸して抑えこんでも止めどなく頬に雫が流れ、胸の奥がいつまでもあつい。


 堪えつづけてきた想いを嗚咽おえつと共に流しながらも、朱鷺常は声を振りしぼった。


「分かってる、師匠。必ず、帰ってくる……」


 絶対に、帰ってくる……。ここに、帰りを待つ愛しき人がいるから。


 同時に、朱鷺常は心に誓った。この戦乱を終わらせてみせると。


 戦のない平和な世で、また師匠と平穏を過ごしてみせると……。


 雲ひとつない青空に桜の花びらが散りゆく中、朱鷺常は時間が許す限り師匠の抱擁ほうようを一身に受け続けた。

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