終章

 伯父様、と襖の向こうに声をかける。

 入っておいで、と声が返ってきて、陽雨は襖をそっと開いた。


 籐の座椅子にかけていた月臣が微笑んで迎えてくれる。

 促されるまま座卓に歩み寄ると、陽雨用の水玉柄の座布団を用意して、月臣は「お茶でも淹れようか」と急須に手を伸ばした。

 陽雨が買って出るとすんなり茶器を譲り、どこからか生菓子の茶請けを出してくる。初夏らしい青楓の練り切りだ。


「当主就任式と初本会は無事に終わったのかい? 広間のほうから声が聞こえてきたから、そろそろかと思っていたけれど、それにしても随分と来るのが早かったのではないかい」

「うん。朔臣が長老衆に呼び止められていたから、そのままお見送りを押しつけてきちゃった」

「……私に、話があるんだろう?」


 陽雨の手つきを眺めながら言う月臣に、うん、と軽く首肯してから、陽雨は茶葉を蒸す時間を利用して立ち上がった。袖を揺らすようにして開いてみせる。


「話もあるけど、それよりもまず、伯父様に見せたかったの。見て、肩揚げなしで着られるようになったよ」


 陽雨が身にまとっているのは十三参りのときの振袖だった。

 柔らかな色合いの白の地に珊瑚色のグラデーションが袖を彩り、金駒刺繍の施された雲取柄の中には梅や桜、秋草、椿といった四季の花々が咲く花筏紋様が描かれている。

 人生の明るく華やかな部分だけを詰め込んだような、陽雨が産まれてきたことそのものを祝福してくれるような、そんな月臣の思いやりに満ち溢れた贈り物を、陽雨はどうしても今日という日に月臣に着て見せたかった。


 月臣は目をしばたたいていたが、すぐに眩しそうに両の目を細め、綻ぶように破顔した。

 陽雨がいそいそと月臣の隣に腰を下ろすと、陽雨の頭を撫でる。


「よく似合っているよ。本当に大きくなった。……けれど、よかったのかい? 冬野の振袖を用意していたはずだっただろう? 大広間に飾る写真はあの振袖を着て撮ったほうがよかったのではないのかい」

「執行部が指図してきたのは当主継承の儀の衣装だもん。当主としての契約は済んでいるんだから、今さらわざわざ当主継承の儀をやる意味なんてないでしょう?」


 当初の予定では当主継承の儀を成功させたあとそのまま当主就任式に臨むはずだったので、わざわざ着替えるのも面倒だったから、当主就任式で撮影される写真にそのままの衣装で写る予定だったというだけだ。

 陽雨が死んでからも飾られ続ける写真なのだから、陽雨が一番思い入れのある振袖で写りたいと思うことに誰が異を唱える権利を持つだろうか。


 屁理屈をこねて陽雨は唇を尖らせた。

 冬野の振袖は冬野に見せられたのだからそれで十分すぎるくらいだ。

 それよりも陽雨にとっては当主となって初めての定例本会を月臣の同席なしで臨まなければならなくなったことのほうが重大で、せめて月臣を感じられる心の拠りどころを身につけていたかった。

 月臣に貰った藤の花の簪だって、もうつけられなくなってしまったのだから。


「仕方のない子だ。当主就任祝いと誕生祝いの祝宴も、結局理由をつけて中止にしてしまったのだろう?」


 月臣が一時は心肺停止の危機に陥るほどの大怪我を負って、肉体こそ龍神の力で治ったものの、どういう負荷や反動をその身に残しているか分からないためしばらくは安静にしていなければならないこと。

 陽雨も全身を障りで侵されるほどの深い邪気に晒された身で、まだ長時間座ったり動き回ったりするのは好ましくないと言い含められていること。

 自らの半身を封じた龍の宝珠の子供を月臣の命を救うのに使った龍神は、脅威的だった神力の大半を失っていて、あのあと龍の宝珠の本体を抱きかかえるようにして眠りについてしまい、仮にも土地神を野晒しにしておくわけにもいかないので暫定的に母屋の当主用の続き間のうちのひと部屋に安置していること。

 朔臣いわく『大人が昼間から飲み食いして騒ぎたいだけ』の宴を中止にする理由は今の本家にはたくさんあるのだ。


「伯父様が参加できるようになったら、出席してもいいけど。伯父様がいらっしゃらないなら出たって意味ないもん」


 膨れて言う陽雨を月臣の困ったような目が見つめている。

 陽雨は湯気を立てる茶碗を月臣の前に置いてから、改まって月臣に向き直った。


「伯父様。今日の定例本会で決まったことをお話ししたいの」

「……ああ、聞こうか」


 月臣が静かな声で応じた。表情はどこまでも穏やかなまま、陽雨を見つめている。

 陽雨は袂から一巻の巻物を取り出した。紐をくるくると解いて、金箔の散りばめられた厚みのある書面を月臣の前に開いてみせる。


「伯父様――霧生家当主、月臣どの。これまでの当主代行としての献身に、心より感謝します。――どうかこの先も、側近く、水無瀬の惣領として未熟な私を導き、お支えくださいますよう、本家当主、皆瀬陽雨がお願い申し上げます」


 書面には筆と墨で『霧生月臣を水無瀬本家当主代行に任命する』と記してある。その横には『水無瀬当主 皆瀬陽雨』の署名と、くっきりとした印章の当主印。

 新たに拵えておいた当主印で初めに押印するのはこの当主代行任命書だと、陽雨は龍神と契りを交わしたあの日から決めていた。


 息を詰めて任命書に目を瞠っている月臣へ、陽雨は畳に三つ指をついて丁寧に頭を下げた。

 衣擦れの音がする。空気がほんのわずかに震えて、吐息が沈黙を揺らした。


「……――私の罪を、なかったことにしてしまおうと、言うのかい?」


 月臣はそう呟いた。

 陽雨はゆっくり顔を上げる。

 陽雨と目が合うなり、月臣がふるりと首を振った。


「それはきっと朔臣が許さないよ。陽雨を苦しめてきた一番の元凶が私であることも、私が陽雨に邪な感情を抱いていたことも、あれの目はずっと見透かしていた」


 正式な当主に就任した陽雨が差配する人事に、朔臣の許可が必要だというのだろうか。陽雨の疑問に応えるように月臣は言葉を継いだ。


「あれはずっと陽雨のことを想っていた。今まで冷たく振る舞っていたのも、すべておまえのためにしていたことだ」

「私のため?」

「真実が分家の前で明らかになって、おまえが私と霧生を切り捨てなければならなくなったとき、せめて果断を迫られるおまえの迷いにならないように、わざとおまえに嫌われるような態度を取り始めて……」


 それが本当ならふざけた話だと思う。あの程度で陽雨が朔臣を嫌いになると思っていたなんて、初恋を拗らせた女を見くびりすぎた。自分の魅力をもう少し自覚したほうがいい。

 何年も婚約者から絶対零度の眼差しで睨まれてきた陽雨だが、生憎と陽雨の中の恋心は消え去ることなどついぞなかった。朔臣の目論見はまったく的外れと言うほかない。


「私は、私と伯父様の話をしているの。朔臣は関係ない」


 陽雨は毅然と言った。戸惑いに揺れる月臣の瞳を、まっすぐ見つめ返して、微笑む。


「私が今まで水無瀬でやって来られたのは、伯父様のおかげなの。皆に産まれてこなければよかったのにって言われても、私が死んだら伯父様がきっとたくさん悲しんでくださるって、分かってたから頑張ろうと思えたの。……伯父様がいらっしゃらなかったら、私はとっくの昔に死を選んでいたと思う」


 朔臣にすげなく突き放されるようになって以降、陽雨の心を守ってくれたのは月臣だけだった。陽雨が全幅の信頼を置いて心を開くことができるのは、月臣ただひとり。

 陽雨が今も生きて、こうして笑えているのは、月臣のおかげだ。


 朔臣がいなくなっても、傷ついたり泣いたりはするだろうけれど、たぶん陽雨は生きていけるのだと思う。

 けれど、月臣がいない世界では、陽雨は一秒たりとも生きていけない。

 月臣の死を間近に見たとき、陽雨はそれを嫌と言うほど思い知らされた。


 おもむろに月臣が陽雨の腕を掴んだ。肩が押されて、どさりと畳の上に倒される。

 後頭部に回っていた手のひらが衝撃から守ってくれたことに意識を向ける前に、月臣が覆いかぶさってきた。


「……私はまだおまえに明陽を見ているのかもしれないよ。言っただろう? 好いた女に執着する男は厄介なものだ。いつかおまえを閉じ込めて、おまえの目に私しか映らないようにして、醜い男の劣情におまえを曝して、私だけのものにしてしまうかもしれない。そんな男を傍に置いておいて、本当にいいのかい?」


 陽雨の顔の両側に手をついて、自分の腕と畳で陽雨を閉じ込める。吐息がかかりそうなほど至近距離から覗き込まれて、頬から顎にかけての輪郭を指先でなぞられて、そのまま親指がゆっくりと唇に触れる。

 陽雨は月臣をじっと見上げた。腕力でも霊力でも術の技量でも敵わない男性に組み敷かれている状態だというのに、陽雨はあまり危機感を覚えていなかった。


「……陽雨。男に押し倒されたら、もっときちんと警戒して抵抗しなさい」

「だって、伯父様は、私が抵抗しなくてもこれ以上のことはなさらないでしょう?」


 月臣は黙って陽雨を見下ろしていた。唇に触れた親指は微動だにしない。

 陽雨は拘束されてもいない手を伸ばして月臣の首に回した。


「私、ずっと伯父様を見てたの。今まで伯父様に頼ってきた当主の務めも、いつかちゃんと私に任せてもらえるように、ずっと伯父様を追いかけてきた。だから、伯父様がどれだけ私を大切にしてくださっていたか、ちゃんと知ってる」


 月臣の首にぶら下がった不安定な体勢のまま、陽雨は躊躇いなく月臣にぎゅっと抱きついた。

 いつだって陽雨を温かく抱きしめてくれた広い胸。陽雨はこのぬくもりを知っている。警戒する必要なんてまったくない。


「伯父様は、ずっと私を娘のように大切にしてくださっていた。私が朔臣にどれだけ泣かされても、伯父様が私をご自分の恋人のように扱ったことなんて、一度もなかった。本当に私にご自分だけを見てほしかったのなら、朔臣に冷たくされて落ち込んでる傷心につけ込んで、朔臣から心変わりさせてしまえば簡単だったのに」


 けれど、月臣はそうしなかった。陽雨の恋心のほとんどが幼いころの憧れで構成されていることにきっと気づいていたはずなのに、月臣は陽雨の淡い片想いに割って入ることはしなかった。

 月臣が内心でどれほどの葛藤を抱えていたかは分からないが、陽雨に接するときの月臣は陽雨の庇護者としての立場を崩さなかった。

 陽雨ははっきり子供扱いを受けていた。


 月臣は思いも寄らないことを言われたように素っ頓狂な顔をした。

 自覚がなかったのだろうか。あんなに、宝箱の中で守るように、陽雨を慈しんでくれていたのに。


「伯父様も分かっていらっしゃるはずでしょう? 私と明陽様は、ぜんぜん違う人間だって」


 陽雨ですらそっくりだと思っていた明陽は、実際に会ってみたら顔立ちこそ似ていたけれど、写真よりずっと浮世離れした雰囲気の女性だった。

 豊かな喜怒哀楽を無邪気に表情に浮かべながら、まるで一枚膜を張った世界の向こう側にいるかのように、良くも悪くも現実感の乏しい存在感でその場を支配していた。

 同じ師について習ったはずの神楽の舞い方すらあれほど違う。物事に対する考え方や感じ方はきっと相容れないだろうと陽雨は確信していた。


 手が陽雨の背に回った。不安定だった体勢が支えられる。

 月臣の手を自分で自分の頭に持っていって、撫でるならこっちにして、と注文をつけると、月臣は目を細めてくつりと笑った。


「……陽雨と明陽は全然違うけれど、よく似ているよ。私を、自分の一番にしてくれないところが、よく」


 頭は撫でてもらえず、手を引っ張られて身を起こした陽雨は、心外とばかりに唇を尖らせた。


「何をおっしゃるの。私にとって伯父様は一番の家族なのに」

「……家族、か」

「父親代わりに育ててくれた人で、術師と当主の務めの尊敬できる師で、一番大切な家族。それじゃ、駄目?」

「――まさか」


 噛みしめるように呟いた月臣は、どこかさっぱりと微笑んだ。

 先ほどは撫でてくれなかった手が陽雨の髪を梳く。肩口で揺れた毛先をさらりと掬い取る。


「陽雨が髪を短くしているところを見るのは、何年ぶりかな」

「短くなったところに合わせるとこれくらいになるって言われて……」

「元々切るつもりだったんだろう? 幹部衆に止められたと前に言っていた」

「ん……そうなんだけど。長いのと違って慣れなくて……変じゃない?」


 月臣は陽雨が髪を長く伸ばしているのが好きだった。今の髪型は気に入らないかもしれない。

 毛先を握り込む。その指をほどかせて、月臣が微笑んだ。


「似合っているよ。今までの簪をつけるのは難しいだろうから、今度はこの長さに似合う髪飾りを贈らせておくれ。今年は誕生日プレゼントも用意できなかったからね。――まあ、私が贈った物を陽雨が身につけることを、朔臣はもう嫌がるかもしれないが」


 まさかそんなこと、と笑い飛ばそうとして、失敗して顔を曇らせた陽雨を、月臣が息をついて見つめた。


「……陽雨。おいで」


 腕が開かれる。躊躇いなくその胸に収まると、苦笑するような吐息が降ってきた。

 陽雨は月臣の肩口に頭を預けた。


「朔臣と、また何かあったのかい」

「……あとで、伯父様のところにも議事録が上がってくると思うけど。本会でまた私の結婚の議題が上がって、陪席の分家の一部から反対されたの。私が朔臣を選ぶのは、釣り合う年頃の分家の子息たちと親交を深める機会がなかったからだ、って」


 思わず顔を顰めていた陽雨に得心がいったように、月臣がすんなり頷いた。


「私が療養中のうちに霧生の発言権を削ぎたい一派だろう。新当主就任後の人事はこれからだからね。朔臣を追い落として陽雨の婚約者候補に収まれば、あわよくば幹部入りも夢ではないから」

「……朔臣、何も、言ってくれなかった。すべて本会の決定事項に従う、って、それだけで」


 そうしたら俄然分家が盛り上がって、分家の若い子息たちとの顔合わせのための食事会のようなものまで計画されてしまった。

 自分という婚約者のいる前で陽雨が集団見合いのようなことまでさせられそうになっているというのに、朔臣は最後まで異を唱えなかった。


 陽雨は心がずたずたに切り裂かれた気分だった。

 けれども、その一方で、ああやっぱり、と思う自分も頭の片隅にいた。

 朔臣が不意に気を持たせるようなことをするのも、それを真に受けた陽雨の期待を呆気なく裏切って失望の底に突き落とすのも、これが初めてではない。今までずっとそうだった。

 今回も同じことが繰り返されるだろうと、きっと心のどこかでうっすら予想していた。

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