第四話

「なんで、どうして」


 人々がざわりとどよめく。

 陽雨は涙を拭うこともせず、影の正体を睨み据えた。


「どうしてぜんぶ奪っていくの。今まであんたのせいでどれだけ苦しめられてきたと思ってるの。それでもおとなしくあんたの依代になってやるって言ってるんだから、ひとつくらい、私の希望も聞きなさいよ」


 頭上には巨大な龍が迫っていた。


 雲に隠れた月光のように輝く琥珀色の瞳が、静かに陽雨を見つめている。

 土地神が荒魂に堕ちたときの凶暴さも禍々しさも一切ない。

 圧倒的な存在感を放ちながら、その霊力はどこまでも冴えて静謐だった。


 その双眸から先ほどまでの狂気が消え失せている理由を、自分の腕に抱えた亡骸に求めることを、陽雨の全身全霊が拒絶していた。


 水無瀬に危害を加える祟り神。

 月臣を死なせた元凶。


 こんな邪龍と心を通わせて契りを結んだ初代の当主はどれほど徳の高い人間だったのだろう。生憎と陽雨はそこまで博愛主義にはなれない。


 陽雨はこれまで家のためなら当主は龍神に身を捧げることも厭うべきではないと思ってきた。

 少なくとも周囲は陽雨にそう求めてきた。水無瀬での立場を渇望していた陽雨にとって、それは疑問の余地もない真理だった。


 けれど。


「――あんたなんかだいきらい。私のたったひとりの家族、責任持って今すぐ返して!」


 身を焦がすほどの激情をもって、陽雨は月臣の仇に明確に対峙した。


 当主継承の儀では当主候補が龍神に契りを願い出る形式を取る。

 陽雨はそんなプライドのない真似はもはや死んでも御免だと思う。


 こんな邪神の慈悲を乞うような真似をして堪るものか。

 陽雨が産まれてからの十八年、水無瀬は土地神なしで霊山を守り続けてきた。好色な龍神の機嫌ひとつでこの先いちいち霊山一帯の命運が左右されるくらいなら、守護神なんていないほうがましだ。

 陽雨が諂わなければ契りを交わさないというのなら、いっそそれで構わなかった。


 絹を裂くような陽雨の啖呵が、雨夜に木霊する。


 その余韻の中から、ふわりと浮き上がるものがあった。

 それは水晶玉のように見えた。陽雨の手のひらよりも大きいくらいの丸い珠。

 ほのかに光を帯びたそれは、ゆっくり陽雨の頭上に降ってくる。


「龍の宝珠だ――」


 そう呟いたのは、長老衆のうちの誰かか、古参の幹部経験者か。

 え、と陽雨が声のほうを振り返ったときには、珠は陽雨の指先に触れていた。


 瞬間、珠に触れた部分から、霊力が無数の神経のようなもので繋がっていく感覚に襲われた。

 意識がふわりと広がる。馴染みのある感覚。

 ――これは、拝殿で退魔結界に繋がるときの感覚だ。


 繋がった霊力に乗って、何かが陽雨から流れ出していく。

 反対に陽雨に流れ込んでくるものもある。

 陽雨は抵抗できずに、その奔流を受け入れていた。


 胸が締めつけられるような気持ちになる。苦しい、痛い、寂しい、切ない、恋しい、愛しい……様々な感情が複雑に混ざり合ってせめぎ合う。

 不思議と嫌な感じはしなかった。


 陽雨はこれと同じ感情をよく知っている気がした。


 龍神がひとつ咆哮を上げた。

 二度も襲われた、すべてを拒絶して遠ざけるような咆哮ではなかった。

 猛々しくも物悲しい、痛みを伴った叫び。慟哭のような咆哮。


 龍神の体が輝きを放つ。

 眩い光の粒子はゆっくりと集まって龍神の頭上に球状の輪郭をかたどり、まるで月が浮かんでいるかのように夜空にひときわ明るく瞬いた。


 きらきらとした燐光が降り注がれる。

 陽雨に向かって――正確には陽雨が抱える月臣に向かって、一筋の光の柱が下りてきた。


 月臣の体が浮き上がった。

 陽雨は咄嗟に腕を伸ばして月臣にしがみついたが、陽雨の存在など関係ないとでもいうかのように光の柱は月臣の体を包み込んでいった。


 小さな月が龍神の頭上から降ってくる。

 それは龍の宝珠よりもひと回り小さい珠となって、だらりと投げ出された月臣の手に触れると、光の奔流を溢れさせながら月臣の体にすうっと吸い込まれた。

 温かな霊力が月臣の躯に染み渡り、霊魂を失った器を見る見るうちに満たしていく。


 ――兄様、起きて……。


 視界を塗り潰す光に目が眩む。

 月臣の体を強く抱きしめる陽雨の耳に、遠い声が届いた。


 ぜんぜん知らない、けれどもどこか聞いたことのあるような、柔らかな声。清廉な女性の声だ。


 ぴくり、月臣の指が動いた気がして、陽雨ははっと瞼を押し上げた。

 眩さの中に目を凝らして、おじさま、と呼びかけると、固く閉ざされていた月臣の瞼が、微かに――けれども確かに、震えた。

 上瞼が薄く開いたのを、陽雨は信じられない気持ちで見つめた。


 月臣の唇が小さく動く。掠れた声が聞こえた。

 月臣が気怠そうに首をもたげて、陽雨に焦点を当てると、困ったように微笑んだ。

 そっと手を持ち上げて陽雨の頬に触れる。


「陽雨……」


 目の奥から溢れ出した熱い雫が、陽雨の顔を再び濡らしていく。

 月臣の指先が次々に零れ落ちる涙を掬い取った。


「……どうか泣かないでおくれ、私の可愛いおひいさま」


 喉が詰まったようになって声が出なかった。

 肩を震わせる陽雨を、体を起こした月臣が抱き寄せようとする。

 陽雨に触れる直前に不意に動きを止め、おもむろに顔を上げた月臣は、光の柱の立つ虚空に目を見開いた。


「……――明、陽」


 呼応するように燐光が広がった。

 光の粒子は陽雨に似た面差しと長い髪を持つ女の姿を取って、腕を伸ばし、月臣を抱きしめる。


 月臣は驚いたように固まっていたが、ふっと吐息をこぼして目を伏せた。


 ――ごめんなさい……月兄様、ごめんなさい……。私、知っていたのに……。


 泣き濡れた声が響く。

 月臣は悲しみを呑み込んだ微笑を浮かべて、首を振った。


「……いいんだ。私は、おまえの兄様だからね。おまえの我儘を聞くのはずっと兄様の役目だっただろう?」


 穏やかな声色で告げて自分に抱きつく腕をほどき、天に送り出すように手を離す。


 女は悲しげに伏せた長い睫毛の陰から涙を落とした。

 匂い立つような美しさの横顔が悲愴に曇る姿は、後光も相俟ってこの世のものとは思えないほど儚げだった。

 陽雨は彼女が現人神のように持て囃される理由の一端を垣間見た気分だった。


 女は――明陽は月臣に頷くと、ぱちりと潤んだ目を陽雨に向けた。

 笑うでも泣くでもなく、ただ眦を緩めて女神のような眼差しで陽雨を見つめている。


 陽雨も何も言わなかった。ただその視線をまっすぐ見つめ返した。

 ――同じ立場同士、それだけで十分だと、なぜかそう思った。


 明陽がすっと手を空に掲げた。

 しゃん、と涼やかな鐘の音が響いたと思えば、明陽の手に見覚えのある神楽鈴が握られている。陽雨が使っているものとよく似ていた。


 陽雨が目を瞬いている間に、明陽の白魚の手が陽雨の手を掬い上げた。そのまま誘われるように光の柱の外に連れ出される。

 遠巻きにしている人だかりから「あれは――……」「明陽様……⁉」といっそう大きなざわめきが湧き起こった。


 明陽が神楽鈴を凛と振ると、光の柱から分離した燐光がいくつもの人影を作り上げた。

 ほとんどは陽雨が見たことのない顔だったが、実体のない人影の合間には倒れ伏す近江老の姿もあった。黒い靄のような邪気がその体から滲み出ているのが見える。


 ――近江の小父様は、あの日からずっと怨念に囚われていらしたの。お可哀想に、もう何年もほとんど生霊のように……ずっと見ていられなかった。やっとお救いできるのね……。


 心の底から悲しんでいるらしい明陽の声は、生前の明陽が近江老に同情できるだけのものを彼から貰っていたことを示していた。

 陽雨は逆立ちしても近江老に共感したいとは思えないだろう。


 ――……冬野!


 呟いた明陽がふわりと浮かび上がる。その視線の先で冬野が駆け寄ってくるのが見える。

 ふたりは触れ合う直前で動きを止めた。清浄な霊力を帯びる明陽に、怨念の邪気をまとう冬野が触れることはできない。

 それでも互いのことしか視界に入っていないかのように一心に見つめ合って、再会の喜びを嚙みしめているのが分かる。


 不意に明陽が陽雨のほうを振り向いた。陽雨の手を取って、立ち尽くす陽雨を促す。周囲を彷徨ういくつもの人影をぐるりと見回した。


「これは、死霊の……?」


 頷いて、明陽は神楽鈴に視線を落とした。


 ――十八年前、巻き込まれて命を落としたひとたちの、無念の残滓。土地神ほどの神格の荒魂の力に濃く触れてしまったせいで、一緒に封じてしまうしかなかったの。


 微かに嘆きすすり泣くような声が聞こえてくる。

 負の感情が集まる状況を放置していれば、死霊は簡単に悪霊に堕ちる。

 龍神の封印の最中に鎮魂にまで手をかける余裕がなかったのだろう。

 だからといって龍神の荒魂と人間の霊魂をまとめて封じておこうなんて考える術師はきっと後にも先にもこの明陽くらいのものだ。


 ――一緒に。


 陽雨は神妙に顎を引いてちらりと朔臣に視線を向けた。

 心得たようにすっと神楽鈴を差し出される。


 陽雨が鈴を携えて明陽の隣に戻ると、明陽は何も言わずに自身の鈴を構えた。

 陽雨もそれに倣って鈴を掲げた。

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