『無題』5
九月の最初の朝、空は晴れやかでまだまだ残暑は続くがそれでも風はいくぶん優しくなってきた。
それは僕にとっての日課であって変更する予定もない。むしろいまさら変更する方が不自然だ。駅のホームの一番隅まで歩き黒髪の文学乙女に朝の挨拶をする。
「あ、竹久君、おはよう。久しぶりだね」
「ああ、おはよう。……今日はまた、眼鏡かけてるんだね」
「ん? ああ、お祭りの日のことを言っているのね。あの時の方が特別だよ」
「なんだ、もったいない。眼鏡をかけてない若宮さんも新鮮でかわいかったんだけどな」
――よくもぬけぬけとそんな言葉を口にするものだ。きっと僕の心に少しばかりのゆとりが生まれたせいだろう。 そしていつものように数駅の間、彼女のナイトとしての役目を果たして電車は東西大寺駅に到着するころだ……
「あ、あの……す、すてきな彼女だね」
「……だろ?」それ以上の余計なことは言わない。そう思ってくれているならそれでいい。
電車を降りた僕にはまだ時間がある。すぐに学校に向かうではなく、喫茶店のリリスに向かい、カウンター席に座った。いつものことながら他にお客さんはいない。
熱いコーヒーをブラックで飲みながら目を瞑り、ケイ・コバヤシの唄うハウ・ハイ・ザムーンに耳を澄ましていた。
「今日から新学期か」マスターの方から声を掛けてきた。
「うん、まあ、何というか。新しい生活の始まりといったところかな。あ、そうだ。これを……」僕はポケットからフラッシュメモリーをとりだしてマスターに差し出し
た。
マスターは無言で受け取り、それにポケットに入れ、それから喉を一つ鳴らしてから聞いてきた。
「で、どうだった?」
「うーん。まあ、要するにこの話って、世の中はものの見方、考え方ひとつで世界はどうとだって違って見えるってことなんでしょう? まあ、これに関する読書感想文はそのメモリの中に入れておいたから覚悟ができたら読んでみてよ」
「読むのに、覚悟がいるような感想なのか……」
「それよりさ、その物語のタイトルはどうするの?」
「いや、まだ決めてないんだ。なんだったら君がつけてくれてもいい」
「うん、じゃあまた考えておくよ。あ、いけない。もうこんな時間だ。新学期早々遅刻しそうだよ」
店を後にした僕は始業時間ギリギリで誰も歩いていない坂道で空を見上げさらにその先に浮かぶ太陽を見上げた。体全体をバネにするようにまっすぐと手のひらを伸ばしてみた。
広げた手の先に太陽の温かさを感じる。あと、もう少し伸ばせば、太陽にだって手が届きそうな気がする。
「ししっ!」
と、わざと声に出して笑ってみた。
――なるほど、そういうことか。つまらないからうつむくのではなく、嬉しいから笑うのではない。うつむくからつまらなくなって、笑うから楽しくなるのだ。少なくとも彼女はそうしながら生きているに違いない。
過去に僕はひねくれて、捻じ曲がることを肯定してもらったばかりにすっかり卑屈になっていたのかもしれない。捻じ曲がることが決して悪いことだとは今でも思ってはいないが、彼女は僕にまっすぐに進む生き方もあるのだと教えてくれた。
よく晴れた朝の空は青く澄んでいて気持ちがいい。
僕は数か月前の入学式の朝を思い浮かべてみた。
たしかあの日はうつむいたまま歩いていてすっかり気づいてもいなかったんだ……
あの日の僕の頭上では桜の花が満開に咲いていたはずだ……
僕は坂の上に見える太陽に向かって駆け上がった。
――事実は小説より奇なり。
言わずもがなイギリスの詩人バイロンの言葉だが、まさにその通りではないだろうか。
現実世界には勇者などいないし、魔法も魔王も存在しない。都合の良すぎるハーレム展開さえ、そうそうあるものではないだろう。
しかしながら、筋書きの定められた小説の世界とは違い、現実世界ではそこに描かれている以上に、いろんなことが知らないところで起きている。そしてその知らない何かがある時、突然として目の前に思いがけない形で訪れるかもしれないし、訪れないかもしれない。
たとえ起きたとしてもそれはさほど気に留めるほどの出来事ではないかもしれない。
しかし、そのどれもが筋書きのないドラマであり、何が起こるかわからない。
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