第13話:堕天使の噂(1)

「クソッ!どうなってやがる!」


ジャックは頭を抱えて苛立ちに満ちた独り言を吐いた。


彼の組織が捕えていたある芸術家がいなくなったことで、彼の周到に計画された作戦が頓挫してしまったのだ。彼が練り上げた計画は、その芸術家が制作した作品を“伝説の画家の弟子”の作品として売り出し、アート市場で一躍名声を手に入れるというものだった。


さらに、ジャックの部下を「弟子」として仕立てて影響力を拡大し、アートディーラーたちとの太い人脈を築き、資金を得る手はずだった。しかし、その芸術家が消えたことで、新たな作品はもはや生み出せない。計画が瓦解する光景を想像するだけで、、彼の胸はじりじりと焼けるような苛立ちで満たされた。


「一体どこに行きやがったんだ……」


ジャックが苦々しく吐き出すと、その隣に立っていたカルロッタが冷ややかな視線を彼に向けた。


「弱音を吐いてる暇があるなら、さっさと次の計画に移るわよ。」


淡々と言い放つその冷静さが逆に彼の焦りを煽った。カルロッタはこの事態をすでに受け入れたようで、新たな計画をさらりと提案する。それは、手下たちの役割を“絵画コレクター”に変えるというアイディアだった。


「これなら、あなたの部下が学んできたことは無駄にならないでしょう?」


彼女の新たな設定では、ジャックの部下たちは「伝説の画家の弟子の作品」を狂気的に収集するコレクターとして振る舞い、まるで天涯孤独の資産家のように見せかけて市場に潜り込むことになる。


カルロッタが紹介するアートディーラーを通じて、芸術家から回収済みの作品を売り捌くことで、計画は再構築できる。冷静に全体を見渡し、次の一手を即座に考え出す彼女の頭の回転の速さには、ジャックも内心感嘆せずにはいられなかった。


だが、その感情は次第に奇妙な方向に膨らんでいった。幾度となく助けられるうちに、彼女が自分に好意を持っているのではないかという妄想が彼の心に芽生え始めたのだ。彼女の冷徹な視線さえも、自分への特別な思いを秘めているのではないかと、ジャックは勝手に解釈し始めた。


「カルロッタ、少し息抜きしないか?」


薄暗い部屋に低く掠れた声が響いた。ジャックは目の前の彼女に、抑えきれない欲望が湧き上がり、荒々しく体を引き寄せて壁に押しつけた。彼の唇は無遠慮に彼女の首筋へと滑り、熱を帯びた息が肌に触れると、彼女は小さく身じろぎしたが、何も言わず、動かない。無言の彼女に勢いづいたジャックは、軽く彼女の頬に手を添え、距離を詰める。


「ボスの相手ばっかりじゃ息が詰まるだろ?」


ジャックの囁きに、カルロッタはまるで耳を貸していなかった。しかし、抵抗もしない。その冷やかな沈黙は、かえって彼を強引にさせる魔法のようだった。だが、彼がさらに距離を詰めようとしたその瞬間、空気がぴんと張り詰め、凍りついたように静まり返った。


「ジャック。」


その声に、ジャックはハッとして顔を上げた。そこにはレオナールが立っていた。彼の鋭い眼光は微動だにせず、細められた目には鋭い怒りが宿り、冷徹な表情からは微塵の揺らぎも感じられない。「自分勝手な男は、女に嫌われるよ。」と、彼は静かに言った。その言葉は氷の刃のようにジャックにの胸に突き刺さり、背中に冷たい汗がじわりと滲んでいくのが分かった。


「君の評価は地に落ちている。」レオナールの言葉は無慈悲で、そこには哀れみの一片すらなかった。「君が今ここにいるのは、彼女のおかげだ。分を弁えろ。」


その冷淡な一言が、ジャックの手を震わせた。彼は屈辱と恐怖に息を詰まらせ、レオナールの容赦のない視線に絡め取られていく。無意識に後ずさると、足がもつれて無様に床に座り込んでしまった。羞恥心を隠そうと必死に震える声を振り絞る。


「悪かった、ボス……ちょっとした冗談のつもりだったんだ。」


だが、その言い訳にレオナールの冷ややかな微笑がさらに場の空気を凍りつかせた。


「ああ、冗談か……」


彼はゆっくりとジャックに近づいてくる。焦りも迷いもない、その一歩一歩はまるで確信に満ちており、全てを見透かしているかのようだった。レオナールの冷徹な眼差しにすくみ上がったジャックは、心臓が激しく鼓動するのを感じながら、まるで縫い止められたようにその場から動けなくなっていた。


「彼女は、お前の冗談をどう感じたんだろうな?」


レオナールが問いかけるその声には、鋭い洞察がにじんでいる。その問いにジャックは、答えに詰まった。彼女がどう思ったかなど考えもしなかったし、そんなことはどうでもよかった。ただ、彼の目には彼女が「都合のいい美しい女」としか映っていなかった。


レオナールは突然、ジャックの肩をがっしりと掴んだ。そしてそのままの勢いでジャックを壁際へと押し付けた。ジャックは驚愕のあまり息を呑む。まさか彼がここまで強硬に来るとは思ってもいなかったのだ。


「彼女が何も言わないのは、お前に我慢しているからだ。」


ジャックは耳元で低く囁く声その声に、言葉も出ないまま全身が凍りつくような恐怖を覚えた。


「だが、オレが彼女の代わりに言ってやろうか?」


レオナールの冷たい瞳がジャックの目を射抜き、視線すら完全に逃げ場を失った。その視線には容赦のない冷酷さが宿り、鋭い刃のようにジャックの心臓を抉る。震えながら無言で腰を抜かすジャックに、レオナールの静かな怒りが容赦なく降り注いでいた。


「死にぞこないの能無し。」


その一言は、雷鳴のようにジャックの心を揺さぶった。次の瞬間、レオナールの手が軽くジャックの首に触れた。まるで撫でるような優しい感触でありながら、ジャックは溢れ出るその殺意に全身が凍りつく恐怖に襲われ、息を詰まらせた。その瞬間、彼はレオナールが本気で怒っていることを痛感した。


「次はない。わかったか?」


静かでありながら容赦ないその声が、ジャックの耳元に響く。彼の冷徹な眼差しに捕らえられ、ジャックは微かに震えながらただ頷くことしかできなかった。


——————————


翌朝、まだ柔らかい陽光がリビングの窓から差し込み、穏やかな空気が室内を満たしていた。アポロは、腕の中で眠るように丸まった小さなスライム、ファニーを抱えてそっと歩を進めていた。ファニーは、半透明な体をふわりと揺らしながらも、まだ見慣れないリビングの様子を少し不安そうに見回している。それでもアポロの腕の中で落ち着いているようで、アポロはその可愛らしい重みに心が和らいでいくのを感じた。


彼にとって、誰かをこうして守る存在となるのは初めてのことだった。その小さな体をしっかりと包み込みながら、アポロの胸の奥に温かい気持ちが広がり、少しだけ頬が緩むのを感じた。


リビングに入ると、レイアとシャンスが朝食の準備をしていた。トーストが焼ける香りが漂い、温かなスープがテーブルに並べられていく光景に、アポロの心もほっこりとした。二人がふと顔を上げ、アポロが抱えているファニーに気づくと、驚きと興味の入り混じった視線が向けられた。


アポロは少し照れくさそうに微笑み、ぽつりと「この子、ファニーって名前なんだ。」と控えめに紹介した。


レイアはまるで小さな子供を慈しむかのようにファニーを見つめ、微笑みながら「可愛い子ね。」と柔らかい声で言った。その笑顔には母親のような優しさがあり、ファニーもそれに応えるように体を少し膨らませてふわりと揺れる。その姿を見たレイアは彼らにゆっくりと歩み寄りった。彼女は思わず手を伸ばしてファニーの体をそっと触れようとしたが、ファニーが恥ずかしそうに縮こまると、遠慮がちに手を引っ込めた。


一方、シャンスは思わずふっと笑い、「新しい友達ができたんだな。」と、冗談めかして言ったが、その目には少し感慨深いものが浮かんでいた。彼にとって、アポロの成長をこんな形で目にするのは、何か感動的だったのかもしれない。シャンスは「よろしくな、ファニー。」と小さく手を振ると、ファニーもそれに応えるように揺れながら小さな音をたてた。


その後、アポロとシャンスは食品や生活用品の買い出し準備を始めた。アポロはファニーを留守番させるつもりだったが、ファニーは彼の腕にしがみついたまま、離れようとしない。彼をじっと見上げるつぶらな瞳に、アポロは困惑した。しかし、その懇願するような視線があまり熱心なので、アポロは根負けした。「じゃあ、一緒に行こうか。」と優しく言うと、ファニーは嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねて、アポロの肩にしがみついた。


外に出ると、街は賑わいを見せ、通りには人々の声や商店からの香りが溢れていた。アポロはファニーを自分のパーカーのフードの中に隠しながら、人混みの中をシャンスと共に歩いた。店の棚に目を走らせるシャンスは、仲間たち一人ひとりのことを思い浮かべながら、細やかな配慮でお土産を選んでいく。


例えば、イーサンにはハーブティーを、レイアには和菓子を、リップには流行のファッション雑誌を手に取る。そんなシャンスの姿を見ていると、彼のさりげない優しさと気配りが、仲間たちの日常にどれだけの温かさをもたらしているのか、想像するだけで胸があたたかくなった。シャンスの横顔には、陰ながらに仲間たちをを支えている存在としての誇りが滲んでいた。


「シャンス。俺も寄りたいところがあるんだけどいいかな。」


「ああ、もちろん。何を買うんだ?」


「ファニーが入る小さな鞄と、日記帳が欲しいんだ。」


「なるほど。そしたら、あの店がいいかもな。」


二人はやがて、生活雑貨の専門店へと足を運んだ。店内は賑やかで、コスメから文房具、食品までが整然と並べられ、アポロの心は少し浮き立った。日記帳のコーナーではシンプルなものから機能性にあふれたデザインのものがたくさんあり、悩んでしまった。アポロはシャンスの助言も受けながら慎重に吟味して、使い勝手のよさそうなシンプルなものを選んだ。


時折、フードの中にいるファニーがもぞもぞと動き、絵具や色鉛筆に触ろうとしたのを、咄嗟のところでシャンスが引き留めた。ファニーは「ピ……」と悲しそうな声を上げる。ファニーには申し訳ないが、彼の存在は公にできるものではないからだ。


「ファニー。いい子にしててね。」


アポロはそう優しく声をかけたが、拗ねてしまったのか返事はなかった。やがてバッグを取り扱うコーナーに到着し、アポロは商品を一つずつ丁寧に吟味していく。


「うーん。いまいちピンと来ないなあ。」


アポロが少し困った顔で呟くと、シャンスが肩をすくめて「大きなカバンに入れておくんじゃダメなのか?」と提案した。


「本当はそれが安全なんだけど、外が見えないと不安になるんじゃないかな。」


「ピー!」


ファニーが軽く声をあげると、二人は顔を見合わせ、思わず小さく笑った。


その時、アポロの視線が人混みの中に見覚えのある顔を捉えた。視線の先には、以前に出会った女性、ジーナが立っていた。彼女もまた彼に気づき、ぱっと表情が明るくなった。


「もう、連絡待ってたのに!今日こそ話を聞かせてもらうわよ!」


少しふくれっ面をした彼女の顔が愛らしく、アポロは思わず微笑んでしまった。


そんな二人の様子に、シャンスは興味深そうに目を丸くし、「お前たち、知り合いだったのか。」と尋ねた。ジーナは彼にも微笑みかけ、「久しぶり、シャンス。最近、一緒に飲めてなかったから心配してたわ。繁忙期?」と声をかける。その温かな言葉に、シャンスは肩をすくめ、少し照れたように「まあ、そんなところだな。」と返した。


ジーナは再びアポロに向き直り、真剣な眼差しでシャンスに「彼と少しだけ話をさせて欲しいのだけど、いいかしら。」と頼んだ。その視線に込められた強い意思にシャンスは少し驚いたが、やがてアポロに視線を向け、「アポロ、どうする?買い物は俺がやっておくから、好きにしていいぞ。」と提案してくれた。


アポロはその瞬間、ジーナの期待に満ちた眼差しに抗えなくなり、彼女の依頼を了承した。アポロは


「ありがとう、シャンス。お言葉に甘えさせてもらうね。」


シャンスは「おう。」と短く返事をすると、スマートウォッチを確認しながら、「じゃあ、一時間くらいで戻って来いよ。帰ったらまた訓練だ。」と言って店の奥へと姿を消した。


立ち去る彼の背中を見送った後、アポロは再びジーナに向き合った。彼女の顔には再会を喜ぶ笑顔が満ちており、その表情にアポロの心も自然と温まっていく。心の中に小さな高揚感が広がり、彼は再びこの不思議な出会いに感謝しつつ、ジーナとの会話に期待を寄せた。

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