第1章 第1話:黎明の彷徨い人

アポロは、上司リカルドから頼まれた用事を済ませた帰り道だった。夕日が沈みかけ、海を赤く染めている。幻想的な景色が広がる中、彼は高台の欄干に手をかけ、ぼんやりとその光景を眺めていた。ここは「太陽の広場」と呼ばれるリトルガーデンを象徴するエリアで、広場を振り返れば、温かな夕陽の光に包まれたこの場所は多くの人々で賑わっている。


犬を連れて散歩する人、子供と手を繋ぎ食材を抱えた夫婦、ベンチで読書にふける青年、広場沿いのベーカリーのショーケースを眺める女性――さまざまな人生が交錯していた。しかし、アポロはその中で、ただ一人、自分だけが世界から取り残されているような孤独を感じていた。


数日前の深夜、アポロは身につけていたボロボロの衣服以外、何も持たない状態でこの広場に現れた。いや、正確には「降ってきた」と表現するのが正しい。しかし、周囲には飛び降りられるような高い建物はない。この不思議な現象をどう説明すればいいのか、彼自身もわからなかった。意識が朦朧とする中、彼は激しい頭痛とともに、遠くから呼びかける声をかすかに聞いていた。視界は血で赤く染まり、警告灯のチカチカとした光に覆われ、現実とは思えない歪んだ世界が広がっていたことを覚えている。


「そろそろ行かなきゃ。」


腕時計を確認すると、アポロはリカルドの待つ探偵事務所に向かった。扉を開けると、リカルドがデスクに広げた新聞を片付け、穏やかな笑顔で「おかえり。」と声をかけてきた。


リカルド・ハイゼンベルク――この探偵事務所の所長であり、アポロの保護者とも言える存在。彼は少し伸びた赤毛を無造作に束ね、無精髭と重たい瞼が疲れた雰囲気を醸し出していたが、その奥には静かな色気と知性が滲んでいた。


「遠くまで行かせて悪かったね。迷わなかった?」


「はい。スマホの地図を使って、なんとかたどり着けました。」


「へえ、もう使いこなしてるんだ。若いと飲み込みが早くていいね。」


リカルドは笑いながらアポロの頭を撫で、テーブルの上に買い物袋の中身を並べ始めた。


「でも、二人で食べるには多すぎませんか?」


「二人じゃないよ。ゲストがいるんだ。」


その言葉が終わると同時に、事務所の扉が開いた。


「やあ、ブルーノ。時間ぴったりだね。」


リカルドの言葉に応じて現れたのは、黒い制服に身を包んだ壮年の男性、ブルーノだった。彼はリトルガーデンの警察官で、腰には銃を装備している。


「まるで俺が来ることがわかっていたような言い方だな。」


「そうとも。僕の目は街中にあるんだから。」


「全く。冗談に聞こえないっての。」


ブルーノとリカルドは冗談めかしたやりとりを交わしつつ、アポロに視線を移した。


「体の調子はどうだ?」


「おかげさまで元気にやっています。」


「それは何よりだ。」


ブルーノはアポロの肩に手を置き、安心したように微笑んだ。


「あの夜、お前さんを見つけた時は本当に驚いたよ。こっちの心臓が止まりそうだった。」


アポロはその言葉を聞きながら、当時のことを思い出していた。病院のベッドで目を覚ました時にはもう、アポロはこの新しい世界――リトルガーデンに放り込まれていた。それが彼の新たな人生の始まりだった。


ブルーノはそのとき命を救ってくれただけでなく、保護した後も病院でアポロの身の回りの世話をし、リカルドを紹介してくれた恩人でもあった。


「本当にありがとうございました。あの時、あなたに見つけてもらえなかったら、今頃どうなっていたか。」


アポロは感謝の気持ちを込めて深々とお辞儀をしたが、ブルーノは照れくさそうに「当然のことをしたまでだ。」と頭をかいた。


「さあ、そろそろ食事にしようか。」


リカルドが二人をソファに促し、テーブルに並んだ食事を囲むように座らせた。すると、リカルドは改まった表情で口を開いた。


「さて、ブルーノ。今日の件、何かわかったか?」


「ああ。アガタ・イシカワの件だな。どこから話すべきか……」


アガタ・イシカワ。彼は、探偵事務所に捜査依頼が出されている人物だった。依頼人は、アビゲイルという女性だった。彼女は「アガタと直接会って確かめたいことがあるんです。」と強く訴えていた。そのため、リカルドとアポロは午前中にアビゲイルと打ち合わせを済ませ、リカルドの広範な人脈と情報網を駆使してアガタの情報を探り始めた。そして、リカルドの情報源の中で最も信頼できる人物がブルーノだった。


ブルーノは顎に手を添えて唸ると、一息ついて話を続けた。


「アガタは先日、脱獄した。いわゆる脱獄犯だ。警察も血眼で探している。」


脱獄犯のニュースはアポロも耳にしていた。テレビやインターネット、ラジオでも連日のように報じられており、顔写真や名前が公開されているにも関わらず、いまだに彼らが逮捕されたという報道はない。


「ワクワクするね。今回の仕事は警察全員がライバルってわけだ。」


リカルドは余裕たっぷりの口調で言い、ハンバーガーを頬張った。


「警察も相当な人員を割いて捜索しているが、全くと言っていいほど進展がないんだ。」


「面目丸つぶれだね。」


「ああ、全くだ。だから俺は、アガタの過去を探ることにした。」


「過去?」


「アガタはかつて、家出少年だったんだ。俺が補導したからよく覚えている。」


ブルーノは目を細め、過去を思い出すように遠くを見つめた。


「結局あいつはその後、詐欺事件の一員として逮捕されたが、アガタに指示を出していたと思われる元締めまで追い詰めることはできなかった。」


「なるほど。アビゲイルさんが話していた内容と合致してきた。」


「当時、アガタの背後にいたのは、おそらく『ブラックパレード』だと思う。」


「ブラックパレード……?」


ぽかんとするアポロに、ブルーノが補足した。


「ブラックパレードは、その、何というか……都市伝説のような、実態の掴めない犯罪組織だ。」


歯切れの悪い説明に、リカルドは思わず口をはさんだ。


「警察官が都市伝説みたいな犯罪組織について語るのはどうなの?」


「これはあくまで可能性の話だ。それに、もしそれが本当なら、お前の案件なんだぞ。」


「それもそうだな。ごめんごめん。」


リカルドは謝りながら、ブルーノに続きを促した。


「リトルガーデンでは、この十年ほどで少年少女の行方不明者が急増しているのは知っているだろう?」


「ああ。居場所もなく、いなくなっても誰も困らない子供たちが標的だって話だ。」


リカルドの答えに、ブルーノは頷いた。


「これはあくまで噂だが、保護シェルターのボランティア団体が自立支援と称して子供たちに近づき、少しずつ洗脳して犯罪のための教育を施しているらしい。」


「まともな人間のやることじゃないね。拒否した子供たちはどんな目に遭うのやら。」


「アガタも、かつて保護シェルターに世話になっていた時期がある。その後はアルバイトで生計を立てたり、知人を頼って生活していたようだ。」


「その知人がアビゲイルさんか。時期的にも合うね。」


「そして、何らかのきっかけで再びブラックパレードと接触し、詐欺グループの一員にされたのだろう。」


「アビゲイルさんの話では、アガタは彼女との未来を見据えて真面目に働こうとしていたみたいだ。きっと仕事の相談をした相手が悪かったんだろう。」


リカルドは気の毒そうな目をしながら、手元に視線を落とした。


「どうだ、情報は役に立ったか?」


「もちろん。おかげで時系列が整理できた。」


リカルドは席を立ち、ホワイトボードにアガタの経歴を加筆していった。


「アポロ、一緒におさらいしよう。」


リカルドの呼びかけに、アポロは力強く「はい!」と返事をした。


「アガタは少年期に一度、ブラックパレードに関わった可能性が高い。そして、大人になるまで何らかの形で組織の影響を受け続けていたんだろうな。」


彼は口元に手を添え、書き出した情報を眺めながら呟いた。


「彼の脱獄も偶然じゃないかもしれない。それに、脱獄後に捕まらないのも、ブラックパレードが背後で手を引いている可能性が高い。」


リカルドの言葉に触発されたブルーノは、腕を組んで考え込んだ。


「もしブラックパレードが本当に存在しているなら、非常に厄介だ。これまで姿を現さなかったが、何か大きな事件が動き出そうとしているのかもしれない。」


「いずれにしても、事前の準備はしておくに越したことはないってことか。」


リカルドはそう低くつぶやくと、ホワイトボードから目を離し、アポロに目を向けた。


「明日、アビゲイルさんとの約束は何時だったっけ?」


「10時です。」


「そうか。もう一度、彼女に話を聞いてみよう。まだ何か重要な手がかりが掴めるかもしれない。」


アポロは真剣な表情でリカルドの言葉を聞いていた。彼の胸には緊張が高まっていた。この任務が単なる追跡ではなく、より大きな陰謀に関わっている可能性が強まっていたのだ。アガタを見つけ出すことが、リトルガーデンに潜む闇を暴く手がかりになるかもしれない。


リカルドは少し考え込んだ後、ふと思いついたように言った。


「そうだ、アポロ。明日は君がアビゲイルさんと話してみたら?」


「ええ?俺一人ですか?」


「大丈夫だよ。君の方が歳も近いし、リラックスした雰囲気で話せば、彼女も思い出すことがあるかもしれない。」


多少の不安を感じながらも、自分に向けられたリカルドの人懐っこい笑顔に断ることもできず、アポロは頷いた。


「分かりました。お役に立てるよう、頑張ります。」


リカルドは満足げに微笑んだ。


「よし、それじゃあ頼むよ。」


その様子を見ていたブルーノは、リカルドに向かって「情報は渡したぞ。例の件の調査も引き続き頼む。」と言うと、リカルドは頷きながら「もちろんだよ。」とブルーノと握手を交わした。


「アガタを捕まえたら、ブラックパレードについての糸口を掴めるかもしれない。」


「いずれにしても、一筋縄ではいかないだろうね。僕もできる限りの準備をするよ。」


「ああ。頼りにしている。」


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翌朝、アポロは少し早めに出勤し、まだ静かな街の中を歩いていた。朝日がゆっくりと昇り、街の建物が金色に染まり始めていた。澄んだ空気を吸い込みながら、彼は自然と足が太陽の広場に向かっていることに気づいた。


広場に到着すると、アポロはベンチに腰掛け、近くの自動販売機で買った炭酸飲料を手にした。カシュッと音を立てて缶を開け、一口飲むと、シュワシュワと喉を刺激する炭酸の感触が心地よく、ふわりとレモンやスパイスの混ざった爽やかな香りが鼻をくすぐった。晴れ渡る空を見上げながら、彼はぼんやりと自分の状況を考えた。


(目が覚めてから、もう一週間くらいか……)


ふと、不安が胸をよぎる。このまま何も思い出せないまま過ごすことへの恐れが、彼の心の隅にいつも潜んでいた。もし何かを思い出せたとしても、それが何もない空虚なだけの人生だったら、絶望するだけだ。進むことも戻ることもできない今の状況に、アポロは頭を抱えていた。一人になると次々と湧き上がる不安がアポロの心の空白の中で膨れ上がり、彼の胸を押しつぶしていく。


彼が大きくため息をついたその時、不意に背後から飛び込んできた明るい声が、彼の内なる沈黙を破った。


「ねえねえ!君もあの都市伝説を調べてるの?」


まるでアポロの心の中の不安を一気に切り裂くかのような、元気に溢れた声だった。驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは赤毛のショートヘアの女性だった。軽やかに切り揃えられた髪型は、どこか自由奔放な印象を与え、彼女の行動力の高さを伺わせる。彼女の笑顔は、まるで太陽のように眩しかった。人懐っこく、自然と周囲を巻き込んでしまうようなその表情には、一切のためらいや気負いがない。彼女がアポロをを見つめる瞳には、純粋な好奇心が輝いていた。


オフィスカジュアルな服装でありながら、鮮やかな色使いと煌びやかなアクセサリーが彼女の存在を際立たせ、見る者にポジティブな印象を与えた。アクセサリーや小物は煌びやかでありながらも決して過剰ではなく、品性の良さが伺える。


「なんの前触れもなく空から降ってきた男の子……神聖回帰教の主の復活とも言われてるけど、君はどう思う?」


彼女の声には自信が満ちていた。そしてその自信は、傲慢さや不躾さではなく、彼女自身の純粋な興味と親しみやすさから来ているものだとすぐに感じ取れた。


アポロはふと、彼女の雰囲気に見覚えがあることに気づいた。どこで会ったのかはすぐに思い出せなかったが、彼女の人懐っこい笑顔には明らかに心当たりがあった。


「えっと……」


アポロは戸惑いながらも、どう答えようかと思索を巡らせた。


しかし彼女はその迷いなど全く気にすることなく、すでにアポロの前に回り込み、一歩前に踏み出してきていた。


「黒髪で、赤い瞳の男の子……」


彼女はアポロを頭の先からつま先まで観察すると、突然「あなたもしかして!」と声を上げ、アポロの両肩をがっちり掴んだ。驚きで動けずにいるアポロの前に、さらに別の女性の手がすっと現れ、その赤毛の女性の肩に優しく触れた。


「ジーナ、こんなところにいたのね。もうすぐ取材の時間よ。」


その声が響いた瞬間、空間に柔らかな緊張が走った。まるで鈴を転がすような、透明感と気品に満ちた音色が、周囲を瞬時に包み込んだ。その声は穏やかで優雅でありながら、聴く者に不思議な重みと威厳を感じさせる。アポロが視線を上げると、そこにはまるで絵画から抜け出してきたかのような美しい女性が立っていた。


彼女はゆったりとした動きでジーナに近づき、優しくたしなめるように肩に手を置いた。その姿勢や身のこなしは一切の無駄がない。彼女は洗練された彫刻のようで、ただ立っているだけで周囲を支配する。アポロは彼女から目を離すことができなかった。


「驚かせてしまってごめんなさいね。悪気はないの。ただ、興奮するといつもこうなのよ。」


彼女の声は柔らかく、響きの一つひとつが聴く者に心地よい余韻を残す。彼女は丁寧にアポロに頭を下げた。ジーナを優しく見つめるアメジストのような瞳は、光を浴びて神秘的に輝いている。その目は、まるで人の心の奥底まで見透かしているかのようだった。


アポロも無意識のうちに彼女に対して頭を下げた。自然と礼を尽くさざるを得ない、そんなオーラが彼女にはあった。


彼が頭を上げた瞬間、ふわりと甘く官能的な香りが鼻をかすめた。それは優雅な花の香りと、熟した果実のような芳醇さが絶妙に混ざり合った香り。心の奥にじんわりと広がり、しばらくその余韻が残る。アポロはぼんやりとした感覚に包まれながら、再び彼女に目を向けた。


滑らかで透き通るような白い肌は、まるで陶器の人形のような質感を持ち、柔らかく光を反射していた。胡桃色の髪は緩やかにウェーブがかかり、優雅に後ろで束ねられている。それが動くたびに、彼女の髪からもまた豊かな命の輝きが感じられた。さらに、彼女のぷっくりと潤った薄桃色の唇は、大人の色気と少女のような可憐さが同居している。それは自然と視線を惹きつけ、触れたくなるような魅力に満ちていた。全てのパーツが完璧に磨き上げられている彼女の佇まいは、見る者を魅了してやまない。


カルロッタが纏うシンプルな白いカットソーと紺色のタイトスカートは、その洗練された美しさを一層際立たせていた。彼女の胸元には、朝日の光を受けて輝くプラチナのネックレスが光り、その存在感がさらに強調されている。それは、装飾品というよりも、彼女自身の内から溢れ出す輝きを象徴しているかのようだった。


アポロはその場に立ち尽くし、ただカルロッタの存在感に圧倒されるばかりだった。彼女はまさに、見る者に息を呑ませ、言葉を失わせる「絶世の美女」だった。


「ねえカルロッタ!この人にインタビューしたい!」


ジーナが興奮して叫ぶと、カルロッタと呼ばれた女性がため息をつきながら言った。


「落ち着いて。今は仕事に専念しましょう。」


「話題の人物にインタビューを受けてもらって原稿を書けば編集長だって――」


「編集長にわかってもらいたいなら、まず目の前の仕事をきちんと終わらせて信頼を勝ち取りなさい。」


「はーい……」


肩を落とすジーナに、カルロッタは再び穏やかな微笑みを向け、彼女の腕を軽く引いた。ジーナは促されるままカルロッタの隣を歩いていたが、しばらく悩んだ末、再びアポロの前に戻ってきて、カバンから名刺を取り出した。


「さっきはごめんね。私、ジーナ。どうしてもあなたに取材したいんだ。都合のいいときに連絡してよ。」


ジーナはアポロに名刺を手渡すと、軽やかな足取りで去って行った。その足取りとは反対に、彼女は一度出会えば決して忘れることができないほどに強烈な存在感と衝撃の余韻を残していった。


「元気な人だったな……」


アポロは彼女たちの背中が小さくなっていくのを見送りながら、呟いた。


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「おはようございます。」


柔らかく透き通る声が探偵事務所に響いた。声の主は、アガタの捜索依頼を出していたアビゲイルだった。彼女は静かに扉を閉め、事務所に一歩足を踏み入れると、深々とお辞儀をした。彼女の暗めのブラウンのボブヘアが、その動きに合わせて揺れた。その瞬間、髪に隠れた細い首筋が一瞬だけ見え、どこか儚さを感じさせた。


「今日もよろしくお願いします。」


初めて会ったときも感じたことだが、アビゲイルには独特の落ち着きがあった。彼女の動作や言葉遣いの一つ一つが、まるで繊細に編み上げられたレースのように、丁寧で細やかだった。まるで風に吹かれればすぐに崩れ去ってしまうような、そんな儚さと同時に、静かで確固たる芯を感じさせる。彼女の姿勢には、気品と哀愁が同居しているように見えた。


アポロは思わず背筋を伸ばし、改めて気を引き締めた。彼女が持つ礼儀正しさに、自分も同じように対応しなければと感じたからだ。


「こちらこそ、お力になれるように頑張ります。」


アポロは心を込めてそう言い、一礼した。自分が本当に役に立てるのか、自信のない部分もあったが、それを口に出すことはしなかった。彼女に対しては、確固たる信頼を持たせる必要があったからだ。


アポロがソファに座るように促すと、アビゲイルは少しだけ微笑んだように見えた。しかし、それもほんの一瞬で、彼女は再び慎重に「失礼します。」と言ってソファに腰を下ろした。その仕草もまた、どこか過剰な礼儀というより、彼女自身の内にある思慮深さから来るものだろう。ソファに腰掛けた彼女の背筋はまっすぐで、どこか緊張を感じさせる。まだ警戒されているようだ。


アポロは「どうぞ。」とテーブルの上にコーヒーを出す。しかし、彼女がそれに気づく様子はなかった。彼女の視線は、どこか遠くを見つめているようで、頭の中では何かを深く考えているのだろう。その表情には、どことなく悲しげな色が差していた。まるで何か大切なものを失い、それを取り戻せないことを知りながらも、その悲しみを他人に悟られないようにしているようだった。


「今日は、アポロさんお一人ですか。」


「はい。所長は午後から合流する予定です。」


「そうですか。」


アビゲイルが不安げに視線を落とすと、やはり自分一人では頼りないのではないかと勘繰ってしまう。アポロはなんとか彼女の信頼を得ようと話題を振った。


「昨日はよく休めましたか?」


「いえ。辛いことをたくさん思い出したので……」


「そう、ですよね。失礼しました。」


アビゲイルの視線は、完全にアポロとは反対側を向いてしまった。アビゲイルの心に寄り添うことができなかった現実を突きつけられ、アポロは焦った。じわじわと体温が上がり、いやな汗が出てくる。


(こんな時、リカルドさんなら何を話すんだろう……)


アポロは必死に考えを巡らせ、リカルドの来客対応を思い出していた。彼は、人の懐に入るのが非常に上手い。彼の表情や仕草、話術はいつの間にか相手の警戒を解いていて、あっという間に距離を縮めている。


アポロは回想の中で、リカルドがまず何をしていたかを思い出し、実行に移した。


「アビゲイルさん。何か伝えそびれてしまったことはありませんか。」


アポロは、アビゲイルから情報を引き出して話を聞こうと彼女に視線を送った。


「……昨日、お話しした通りです。」


最初に与えてしまった不信感が尾を引いているのか、アビゲイルはそっぽを向いたまま答えた。


「何でもいいんです。アガタさんとの過去のこととか、教えていただけませんか。」


アポロは、微妙な空気を感じ取ったが、それ以上はあえて何も言わず、彼女に必要な時間を与えることにした。


アビゲイルはしばらく沈黙していたが、唇に指を添えて「正直、詳しいことは何も知らないんです」と、アビゲイルは小さくため息をついた。彼女の視線は手元に落ちたままだ。


「彼とは、そもそも出会い方が特殊だったから。あれからずっと、彼の過去について深くは考えないようにしてきました。でも、訳ありだろうってことは最初から分かっていました。」


アポロは相槌を打ちながら、彼女の表情を静かに観察した。アビゲイルの目には不安と葛藤が浮かんでいた。何か大切なことを言いかけているのかもしれない。アポロは一歩踏み込むように、言葉を選びながら訊ねた。


「その、特殊な出会いというのは……どんな感じだったんですか?」


アビゲイルは一瞬黙り込んだ。彼女の視線が遠くを見つめ、何かを思い出しているようだった。やがて、口を開いた。


「雨の日だったんです。とにかく酷い雨が降っていました。まるで世界中の全てが、灰色に溶けてしまうんじゃないかと思うくらい。」


思い出を紡ぐアビゲイルの口調はどことなく重く、深い悲しみを感じさせた。


「仕事がうまくいかなくて、バーでお酒を飲んでいました。夜遅く家に帰る途中に、ゴミ捨て場の近くで彼を見つけたんです。アガタは満身創痍でした。まるで捨てられた人形みたいに横たわっていて……」


彼女の声が震える。思い出すだけで、彼女にとってその光景がどれほど衝撃的だったかが伝わってくる。彼女の話を親身に聞いていたアポロはその光景を思い浮かべて、少し寒気を感じた。


「それから、どうしたんですか?」


「放っておけなかったんです。怖かったけど……彼が死んでしまいそうで。だから、家に連れて帰って、なんとか治療したんです。そのときは、医者に診せることもできなくて、私一人でできることをしました。」


アビゲイルは過去の足跡を丁寧に辿り、アポロに情報を伝えていく。


「でも、アガタは意識が戻ってからも、何も話してくれなかった。彼の過去は、一切話してくれなかったんです。」


アビゲイルはその時の感情を噛みしめるように言葉を紡いだ。彼女が感じていた不安と、アガタに対する漠然とした恐れが、今なお彼女の心の奥に残っているのだろう。

アポロはしばらく考え込み、そしてそっと提案した。


「その場所……そのゴミ捨て場、見に行ってみませんか?」


アビゲイルは一瞬驚いたようにアポロを見つめたが、すぐにその提案に思いが至ったようで、頷いた。


「……ええ、そうですね。何か思い出せるかもしれません。案内します。」


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二人は探偵事務所を出て、しばらく並んで歩き始めた。街には冷たい風が吹いていた。気付けば空はどんよりと曇っていて、重苦しい空気が立ち込める。街はどこか静まり返っていて、車の音や遠くから聞こえる人々の話し声が時折聞こえるだけだった。アポロは何度かアビゲイルに視線を向けたが、彼女は黙ったままで、何かを考えている様子だった。


ふと、アポロが口を開いた。


「アガタさんとの暮らしって、どんな感じでしたか?」


アビゲイルは少し驚いたようにアポロを見たが、すぐに正面に視線を戻した。


「そうですね。彼と暮らすようになってから、何かが変わりました。それまで、私は本当に……一人だったんです。」


「一人?」と、アポロが聞き返すと、アビゲイルは苦笑を浮かべた。


「ええ、友人もあまりいませんし、恋人もいませんでした。仕事ばかりで……。でも、それも、特に寂しいとは感じていなかったんです。慣れてしまっていたのかもしれませんね。」


アポロは静かに頷きながら、彼女の言葉に耳を傾けた。彼女の声にはどこか感情がこもっておらず、当事者意識が欠如している。


「でも、アガタが家に来てからは何かが変わり始めました。何気ない毎日を誰かと一緒に過ごす時間ができて、温かい気持ちになれたんです。」


アビゲイルは胸の前で手を握り、当時の様子を話している。その声は、先ほどとは打って変わっていきいきと弾んでいた。


「彼は最初、ほとんど言葉を交わさなかったんですけど、それでも、不思議と心が落ち着いたんです。誰かが家にいるっていうだけで、こんなにも変わるものなんだって、その時初めて気がつきました。」


アポロは彼女の変化に驚きつつも、彼女の気持ちに寄り添うように頷いた。彼自身、ふとした瞬間に孤独を感じることがある。特に街を歩いているとき、周囲の人々が家族や友人と楽しそうに過ごしている姿を見ると、自分だけが取り残されているような感覚に襲われることがあった。アポロはその心の隙間を埋めてくれる存在が現れたら、どれほど嬉しいだろうと考えていた。


「アガタさんとの時間は、特別だったんですね。」


アビゲイルは少し考え込むようにしてから、微笑んだ。


「ええ。彼と一緒にいると、心の欠けた部分が埋まっていくようでした。そこにいてくれるだけで安心できる。そんな相手って、そうそういないですよね。」


アポロは彼女の言葉に深く頷いた。アビゲイルにとって、アガタはただの同居人以上の存在だったのだ。友人以上の、恋人のような、もっと不思議で複雑な絆。それが失われた今、彼女がどれほどの孤独を感じているのかを思うと、胸が締め付けられるようだった。


「私、また一人ぼっちになるのが怖いんです。」


アビゲイルの声は震えていた。彼女はずっと、その不安を抱えていたのだろう。アポロは一瞬、どう言葉を返せばいいか迷ったが、やがて静かに口を開いた。


「アビゲイルさん。俺たちは必ずアガタさんを見つけます。だから、もう一人で悩まないでください。俺も、所長も、全力でサポートします。」


アビゲイルはその言葉を聞いて、一瞬驚いたようにアポロを見た。しかしすぐに、彼女の顔に少しだけ柔らかな表情が戻った。


「……ありがとう。」


そうして二人は再び静かに歩き始めた。ゴミ捨て場へ向かう道のりは、まだ続いていたが、その短い会話の中で、少しだけ彼女との距離が縮まったような気がした。アポロは、彼女の孤独を理解しようと努めながら、何とか力になりたいと思った。


——————————


アビゲイルが「ここです。」と小さく呟いた。


ゴミ捨て場は薄暗い路地裏の壁際に設置されていた。青や緑の様々な色のごみ箱が並び、膨れ上がったゴミ箱の蓋の隙間からは半透明の袋の端が見えている。路地裏に足を踏み入れると、そこは薄っすらと湿っていて、壁は品のない落書きと大人向けの広告で埋め尽くされている。アポロは居心地の悪さを感じ、息苦しくなった。


「夜遅くに女性一人でこんなところに?」


アビゲイルは目を伏せて何も答えなかったが、やがてゴミ箱の並んだ場所で足を止めた。


「アガタとは、ここで出会いました。」


アビゲイルは当時の様子をアポロに丁寧に語った。アビゲイルは近くのバーで深酒し、体が浮いているような感覚だったという。ズキズキと頭が痛み、瞼は重い。一刻も早く家に帰りたいと思っていた。そんな時、街灯もない路地裏から、激しい雨音に混じって咳き込むようなうめき声が聞こえた。アビゲイルは暗い路地裏に足を踏み入れ、スマートフォンのライトで目の前を照らした。そこには、顔の腫れあがった若い男が捨てられていたという。


「今思えば、あの時も彼は悪いことをしていたんでしょうね。」


アビゲイルは地面に視線を落としたまま、脳裏に焼き付いた当時の光景を見つめているようだった。


「……ごめんなさい。大したことを思い出せなくて。」


アビゲイルは手を体の前で握り、目を伏せている。体はかすかに震え、顔色が悪い。


「一度事務所に戻りましょうか。」


アポロの提案に、アビゲイルはこくりと頷く。


ゴミ捨て場を去ろうとしたアポロとアビゲイルは、予想外の光景に目を奪われた。路地裏の出口に、こちらを見つめる人影があった。そこに立っていたのは、間違いなくアガタだった。彼は疲れ切ったように肩を落とし、薄汚れた服をまといながら、ぼんやりとこちらを見つめている。アビゲイルは驚き、思わず口を開いた。


「アガタ!」


その声に反応して、アガタはぎょっとしてこちらを見たが、すぐに背を向けて逃げようとした。アポロは一瞬で事態を察し、すぐにアガタの前に回り込もうと駆け出した。


「待ってください!」


アポロはアガタをなんとか確保しようとしたが、次の瞬間、彼の足元がすくわれ、重力に引っ張られるように地面に倒れ込んだ。アガタが手際よくアポロの足をかけたのだ。アポロが地面に倒れ込むのと同時に、アガタは素早くアポロの鞄を引き寄せて、力ずくで奪い取って走り去ってしまった。


「くっ……!」


アポロは悔しさに顔をしかめながら体勢を立て直したが、アガタはすでに遠くへと逃げていた。アビゲイルが駆け寄り、不安そうにアポロを見下ろした。


「大丈夫ですか?」


「なんとか。でも、彼を逃がしてしまいました。」


アポロはすぐに状況を整理し、ポケットに入っていたスマートフォンでリカルドにすぐさま連絡を取った。リカルドの冷静な声が電話越しに響くと、今起こった状況を手短に報告する。


「落ち着いて、アポロ。アガタの行方をすぐに特定する。ちょっと待ってね。」


アポロはリカルドの用意周到さに驚きつつも、安堵の表情を浮かべた。


「今から位置情報を送る。すぐに確認して。」


リカルドからの指示を受け、アポロはスマートフォンの読み込み画面を見つめていた。そして、アビゲイルに視線を向け、落ち着いた声で彼女に呼びかけた。


「アビゲイルさんは事務所に戻っていてください。」


「いやです。私も連れて行ってください。」


「必ずアガタさんはお連れします。あなたを危険に晒したくないんです。」


「それでも、やっとアガタに会えたんです。ここで諦めたら、二度と会えない気がするの。どうか、お願いします。」


アポロはアビゲイルの真剣な眼差しに気圧され、何も言い返すことができなかった。アポロはアビゲイルと一緒にアガタの追跡を始めた。画面上に表示された信号は、街外れの治安が悪い地域に向かっている。


彼らは急ぎ足でその場所へ向かい、やがて廃れた工業地帯へとたどり着いた。薄暗い空の下、廃工場が無造作に立ち並び、不気味な静けさが漂っていた。


「ここですか……?」


アビゲイルは不安げに辺りを見回し、声を震わせた。アポロも慎重に周囲を確認しながら、頷いた。


「GPSの信号はこの中です。アガタさんがいるのは、この廃工場のどこかです。」


工場の鉄製の扉は錆びついており、ところどころ穴が空いている。彼らは音を立てないように注意しながら、工場の中へと足を踏み入れた。内部は暗く、古びた機械や工具が散乱している。窓から差し込む薄い光が、埃の舞う空間をかすかに照らしている。


「こんなところに何の用が……?」


アポロは声を潜めながら、アビゲイルと共に慎重に進んだ。物音一つしない静寂の中で、彼らはアガタの姿を探し続けた。


やがて、工場の奥から微かに動く影が見えた。アガタだ。彼は周囲を警戒しながら、工場の奥へと進んでいく。アポロとアビゲイルは息をひそめながら、彼を追跡した。

アポロとアビゲイルがアガタとの距離を詰めていくと、複数の男たちの声が聞こえてきた。冷たい、無情な響きがアガタを追い詰めていた。


「アガタ、お前はいつまで経っても変わらないんだな。」


軽蔑の含まれた声だった。その男は大きなため息をつくと、アガタにねちっこく説教を始める。


「約束の一つも守れないくせに、自分だけはいい思いをしたいなんて甘すぎる。そんなことだからお前は誰からも信頼されないし、これっぽっちの金も集められねえんだ。」


そこにはアガタの他に男が三人いた。リーダー格らしき男はアポロのカバンから財布を抜き出し、中身を確認して後ろに投げ捨てた。


アガタは男の取り巻きから羽交い絞めにされていて、もう一人の取り巻きから顔を殴られる。骨のぶつかる鈍い音がする。


「す、すみません……もう少し、時間を……」


アガタの声は焦りに満ちていた。必死に頭を回転させ、状況を打開しようとしているようだ。


「役立たずに時間を与えて何になる。考えがあるなら言ってみろ。」


「それは……」


「もういい、喋るな。お前と話すと虫唾が走る。」


男は不機嫌にそう吐き捨てるが、何かを思い出したのか、いやらしい笑顔でアガタに向き直った。


「ああ。そうだ。お前、女がいたっけな。そいつに泣きついてこい。」


「えっ……?」


「何の文句も言わずお前を養ってくれたんだ。何回か抱いてやれば金くらい出すだろう。」


「彼女は関係ありません!」


アガタは反射的にリーダー格の男に反論した。すると、その態度が男の反感を買った。リーダー格の男は上着の懐から銃を取り出すと、アガタの額に突きつけた。


「お前、自分が手段を選べる立場だと思うなよ。」


男の目つきは先ほどとは比べ物にならないくらい冷酷なものに変貌していた。


「こっちが温情をかけてやろうってのに、調子に乗りやがって。」


男は銃の安全装置を外すと、アガタの太ももに弾丸を撃ち込んだ。


「ぐああ!!」


アガタは苦痛に顔を歪め、恐怖にまみれた叫び声を上げると、片膝をついた。


「決めた。お前をぶっ殺して女をさらう。お前が稼げなかった分、どんなことをしてでも稼いでもらおう。」


痛みをこらえて這いつくばるアガタの髪の毛を掴んで顔を上げさせると、男はアガタを睨みつけた。アガタは何か反論しようとしているが、激しい痛みと混乱で、ひゅうひゅうと喉が鳴っているだけだった。


アガタの危機に、アビゲイルの心臓は早鐘のように鳴り、体中に怒りの感情が湧き上がった。


「あばよ。」


男が引き金を引こうとした瞬間、アビゲイルは物陰から飛び出した。彼女が男に飛びかかると、弾丸の軌道が逸れ、彼女の肩を貫いた。アビゲイルは悲鳴を噛み殺し、小さく唸った。


「アガタ……!」


アビゲイルの声が静かな工場内に響いた。アガタは一瞬動揺したが、すぐに目をそらし、逃げ出そうとする。


「約束……したでしょ。刑務所で罪を償って、また二人でやり直すって……」


アガタはアビゲイルを見返し、何も言えないまま黙り込んだ。アビゲイルは息を荒げながら、冷静にアガタに問い続ける。


「私を裏切ったの……?」


アビゲイルの声は震え、彼女の拳は固く握られていた。


「……信じてた。私はずっと、あなたを信じてた……」


アガタは口を開こうとしたが、声が出なかった。彼の背後にいた男たちは、アガタを見下して嘲笑った。


「噂の彼女か。こんな健気な女の子の信頼すら裏切るなんて最低だな。」


「か弱い女の子に守ってもらわないと何もできないのかよ。だっせえな。」


取り巻きの男たちはアガタにそう吐き捨てて、下品に嗤った。


「お嬢ちゃん。君には同情するけど、重要な時に割り込んできちゃいけねえよ。」


リーダー格の男がそう言いながらアビゲイルに近づいてきた。彼の目は冷たく、明らかに彼女を排除するつもりだった。銃口はアビゲイルに向いている。アポロはようやく我に返り、地面を蹴った。


アポロは銃の軌道が誰もいない方向に逸れるように男の腕を固定すると、彼の膝裏に前蹴りを入れて彼を後ろから押し倒した。


「逃げて!」


その言葉に弾かれるようにアビゲイルは物陰に身を隠そうとするが、取り巻きの男たちに足を掴まれて引き戻される。アポロはリーダー格の男の銃を蹴り飛ばし、すぐさまアビゲイルの救出に向かった。


「彼女を離せ!」


アポロは叫びながら彼女を庇うように前に出た。だが、相手は数が多く、彼一人で全員を止めることは困難だった。


アポロは懸命に戦った。相手の攻撃をかわし、必死に反撃しようとするが、数の多さに圧倒され、少しずつ追い詰められていった。


その瞬間だった。鋭い痛みが彼の腹に走り、ナイフが深く刺さったのを感じた。しかし、アポロは気力と責任感に突き動かされ、ナイフが刺さったまま男たちをなぎ倒してアビゲイルを奪い返してコンテナの陰に隠した。


アビゲイルは満身創痍のアポロを見て、恐怖と絶望に包まれた表情で体を固くした。アポロは彼女を怖がらせないように、必死に痛みをこらえながら、彼女の肩に手を添えて微笑んだ。


「大丈夫……」


だが言葉とは裏腹に、彼の体は力を失い、視界がぼやけ始めた。男たちは腹を刺されても立ち向かってくるアポロを警戒し、距離を取っていた。


アポロは限界に近づいていた。腹に突き刺さったナイフの感覚が徐々に麻痺し、血に濡れた足元が滑ってぐらつく。アビゲイルを守ろうとする意志だけが彼を支えていたが、それもいつまで持つかわからなかった。


その時、アポロは視界の端から小石が飛んでくることに気が付いた。しかし、それを避ける体力すらなかった。小石がアポロに直撃した瞬間、それは激しい爆発を引き起こし、彼の体が宙を舞った。アポロは地面に叩きつけられ、意識が薄れる中、周囲の声と動きが遠ざかっていくのを感じた。


「アポロ!」


絶望に満ちたアビゲイルの叫び声が響くが、もはや反応することもできない。


「アガタよお、お前も金さえあれば、俺たちみたいになれたのにな。」


リーダー格の男が嘲笑交じりにそう言いながら、背後に控える男たちに合図を送る。すると、別の男が地面に落ちている資材の破片に手を伸ばす。資材は魔法にかけられたように、鋭利な刃物に姿を変えた。男はそれを倒れたアポロの胸に躊躇なく突き刺した。アポロは激しい痛みに呻き声を上げ、彼の視界はさらに暗くなっていった。


その時、工場の窓を突き破って二つの人影が舞い込んだ。ガラスの破片が宙を舞い、男たちは驚いて一瞬動きを止めた。新たに現れた人物たちは、信じられないほどの速さで動き、瞬く間に三人の男たちを追い詰めていく。


「何だ……?!」


男たちは状況を把握する間もなく、次々と倒されていく。男たちと戦っていたのは、一人は金髪で大柄な男性、そしてもう一人はピンク色の髪が特徴的な華奢な女性だった。金髪の男性は拳ひとつで男たちを次々と地面に叩きつけ、女性は鋭い動きで背後に回り込んで彼らに針のようなものを突き立てて無力化していく。彼らの攻撃は迅速で正確だった。


アポロは朦朧とする意識の中で彼らが敵でないことを感じつつも、もはやそれを確かめることもできなかった。


追い詰められた男たちは動揺し、一か八かで最後の抵抗を試みる。リーダー格の男はアガタの首根っこを乱暴に掴むと、無理やり担ぎ上げた。


「撤退だ!」


男たちはアガタを連れて急いでその場を去っていった。金髪の男は彼らを追跡しようとしたが、ピンク色の髪の女が彼の行く手を阻み、首を横に振った。金髪の男は悔しそうにしながらも納得し、倒れたアポロに近寄ってきた。


「おい、大丈夫か?」


金髪の男がアポロに近づき、手を伸ばす。無力なアポロにとっては、彼の声はとても頼もしく感じた。アポロはその言葉を最後に、意識を完全に手放してしまった。


しばらくして、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。工場内には静寂が戻り、負傷したアポロと震えるアビゲイル、そして新たに現れた二つの影だけが残っていた。


——————————


アポロが目を覚ますと、周囲は白い壁に囲まれた静かな病室だった。驚くほどの静寂が漂い、外からは淡い光が差し込んでいた。身体をゆっくりと動かしてみると、意識を失う直前の激しい戦闘を思い出し、脂汗が滲む。


「……あれ、俺、刺されたよな……?」


男たちから受けたはずの傷はどこにもなかった。腹と胸を触り、傷が癒えていることに気づいたアポロは、奇妙な感覚に包まれた。

その時、ドアが静かに開き、リカルドが入ってきた。彼は柔らかな微笑を浮かべて、病床のアポロに近づいた。


「おはよう、アポロ。よく眠れたか?」


「リカルドさん……?俺、何があったんだ?アビゲイルは、アガタは……?」


アポロは一気に質問をぶつけたが、リカルドは手を挙げて静止させた。


「落ち着け。アガタは取り逃がしたが、アビゲイルは無事だよ。」


リカルドの言葉にアポロは一瞬安堵したものの、まだ疑問は残っていた。自分がどうしてこんなにも早く回復できたのか、そのことが頭を離れない。


「でも、俺……確かに刺されて……」


リカルドはアポロの様子をじっと見つめ、ゆっくりと頷いた。


「どうやら君には特別な力があるらしいね。今回の一件で確信した。普通の人間なら、あんな大ケガには耐えられない。」


リカルドは手に持ったバインダーの資料に目を通し、再びアポロに視線を戻した。


「だが君は、自分の力で傷を癒した。一切の医療行為はしていないよ。」


アポロは目を見開いた。自分の力で傷を癒したという意味がまだよくわからなかった。


「特別な力……?傷を癒した……?」


リカルドは混乱したアポロを落ち着かせるように、微笑みながら彼の肩に手を置いた。


「信じられないのも無理はない。でも、これは君が受け入れていくべき現実のひとつだ。」


アポロはリカルドの言葉を聞いて、自分が普通の人間ではないことを理解しようとしたが、それは容易なことではなかった。体中の傷は治っているのに、頭が痛い。


「僕は確信したんだ。今回の行動を見て、君は優しさ、勇気、誰かを守ろうとする強い意志を持っている。そんな君に、ぜひ紹介したい人物がいる。」


リカルドは頭を抱えるアポロにお構いなしといったように、手元のメモ用紙にさらさらと何かを書き始めた。


「明日の夕方、面接ね。」


リカルドはいつものように飄々と笑っている。彼はメモ用紙をアポロに渡すと、「なくさないでよ」と手をひらひらとさせて病室を出ていった。一人残されたアポロはメモの内容に目を通す。そこには、集合日時と集合場所、そして最後に注意書きがあり、「探偵事務所のロッカーから面接用のスーツを入手しておくように。」と書いてあった。


アポロは経過観察のため、もう一晩を病室で過ごした。彼の心には、これまで感じたことのない不安と混乱が交錯していた。しかし、この瞬間から彼の運命が大きく変わることは、もう避けられない事実だった。

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