第5話 アパートの壁が薄すぎる問題(後編)

ようやく眠りにつけたと思ったら、外はもううっすらと明るくなっていた。仕方がないので、夜はできなかったシャワーを浴びる。そして眠気覚ましのストレッチをしていると、ノックをする音とドア越しに中西さんの声が聞こえた。


「哲郎くん、朝ごはんできたよー」


えっ、もう朝ごはん? 時計を見ると6時半だ。中西さんって朝が早いんだな……ちゃんと着替えてて良かった。慌てて玄関を開けると、目の前には、昨日とは全く違う中西さんの姿があった。


ヘアバンドで髪をまとめ、ゆるいシャツを無造作に着こなしている。ほんの少しはだけた襟元に視線が釘付けになりそうになり、慌てて視線を下に反らす。そっちはそっちで、ショートパンツから伸びている生足が色っぽい。「どうしたの? 早く来て、冷めちゃうよ」と変わらない調子で声をかけてくれる中西さんに、心の中で焦りが加速する。


「えっ、あ、ありがとう……」


心拍数が指数関数的に跳ね上がる。どうしてそんな格好なんだよ、無防備すぎるじゃないか……昨日のシャワーのことも思い出してしまって、さらに動揺してしまう自分がいる。というか、これで動揺しない男の子がいるのか? いないと断言できる。


「どうしたの? 早く来て、冷めちゃうよ」


中西さんは、自分の無防備さがまったく分かっていないらしい。無邪気にそう言われて、僕は少し慌てて「うん、すぐ行くよ」と返事をしながらスリッパを履いて外に出る。外に出た瞬間、お味噌汁と焼き魚の美味しそうな匂いが通路に充満していることに気が付いた。まさか朝からこんな本格的な朝ごはんが用意されているなんて……中西さん、女子力がカンストすぎるよ。


「あぁ、空気が気持ち良い。爽やかな朝だよねぇ」


しかし、無防備な中西さんは破壊力がすごすぎる。歩いているだけなのに何でこんなに可愛いんだ? エルフの象徴である耳がぴょこんと飛び出ているのも、とっても魅力的だ。この服装を見せるくらい僕に気を許してくれてるんだと思うと、ドキドキしてしまう。


いろいろな思いを引きずりつつ、中西さんの部屋へと足を運ぶと、さわやかな朝食の香りが出迎えてくれた。


「さぁ、召し上がれ。中西チアリ特製の、和定食でございます」

「う、うん。じゃあ、ありがたくご馳走になります」


僕と違って何も気にしていない様子の中西さんの声に促されて、テーブルに座る。目の前に並ぶのは、アジの開きとニラ入りの卵焼き、お味噌汁、そしてご飯と漬物。匂いも見た目も完璧な和風の朝食だ。


「すごい食事だね。こんなにしっかりした朝ごはんを作れるなんて……」

「やだなぁ。パパッと作っただけだから、全然すごくないよ。でも、朝はちゃんと食べないと元気出ないでしょ? 哲郎くんも、残さず食べてね」


昨日も思ったけど、本当に手際が良いな。多分中西さん的には、本当に大したことがないんだろう。


「でも、こんなに豪華にして予算は大丈夫? 美味しそうだから、僕はめちゃくちゃ嬉しいんだけど」

「大丈夫だよ。そこのやり繰りもできてこその一人暮らしだもんね。でも、美味しそうって言ってもらえると嬉しいな。一人より、二人で食べる方が楽しいもんね。あっ、アジは下味がついてるから、お醤油はかけなくて良いよ」


中西さんは、嬉しそうに僕にお箸を渡してきた。こんな仕種をナチュラルにしてもらえるなんて……! 僕はちょっと感動しながら「いただきます」と言ってお箸を受け取り、まずは焼き魚に手をつけた。


香ばしい香りとともに、ふっくらとした身が口の中でほどける。思わず、ご飯を多めにつかんで口の中に放り込む。魚の旨味もしっかりとしているし、朝からこれを食べられるなんて、なんて贅沢なんだ。こんな安アパートのキッチンコンロで、よく作れるな……。


「中西さん、めちゃくちゃ美味しいよ。焼き方が上手だね」

「あっ、そこはちょっと魔法も使ったんだ。灼熱魔法の応用でね」


素直にそう言うと、中西さんは少し照れたように微笑んだ。ん、灼熱魔法? 何か今、あまり聞かないで良さそうなワードを聞いてしまった。忘れておこう。要するに遠赤外線を活用しましたってことだよね?


白みそのお味噌汁も上品なお味だ。うちは合わせみそだったけど、全然いける。ニラ入りの卵焼きも、アクセントになっていて美味しい。


食べ終わると、僕はほっと一息ついた。一人暮らしの大学生活で、朝からこんなにしっかりしたご飯を食べることになるとは思わなかった。昨日は卵かけご飯にインスタント味噌汁だったからな……食べるだけ、まだえらいはずだ。


しかし、出会って3日目だというのに、胃袋も心もつかまれた感じだ。急須で淹れてくれたお茶をすすりながら、中西さんの手際の良さに改めて感心する。


「ごちそうさまでした。本当に美味しかったよ、中西さん」

「どういたしまして。哲郎くんがちゃんと食べてくれると作り甲斐があるよ。男の子が食べてくれるのを見るのって、こんなに嬉しいものなんだね」


中西さんは食器を洗いながら、明るく答える。僕は洗い終わった食器を拭きながら、視線をうなじにやってしまう。浴衣とか着たら、すごく色っぽいんだろうなぁ。


「そういえばさ……哲郎くん、アルバイトとかもう決まってる?」

「いや、まだなんだよ。探さなきゃとは思ってるけど、高校生の頃もアルバイトをしたことがなかったし」

「私もなんだよね。それなら、一緒に探さない? どうせなら、同じところでバイトできたら楽しいじゃない」


一緒にアルバイトか。同じ場所で働くなんて、想像もしなかったけど、それはアリだ。中西さんと一緒に過ごせる時間は、少しでも長いほうが良い。恋人になれるチャンスを探っていきたい。


「大賛成だよ。僕も、中西さんと同じところでバイトをしたいな」

「良かった。じゃあ、今日は一緒にいろいろ探してみようよ。どんなところでバイトをしたい?」

「そうだね。母さんからは賄い付きを探せって言われてたけど」

「せっかく京都に住んだんだから、京都らしいとか、和風な感じのところが良いかな」

「それも良いね。でも、どうやって探すんだろう?」

「うーん。やっぱり、アプリかな?」


こうして、中西さんとアルバイト先を探す計画が始まった。朝ごはんを食べ終えたばかりの僕は、シャワー事件からの寝不足で眠気も残る中、恵まれすぎているほどの新しい日常が形を取り始めていることを実感しながら、期待を膨らませていたのだった。

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