捲土重来《けんどちょうらい》

 紫苑は、走り出した橡の後を追う。橡の目には雅客しか映っていないため、紫苑は橡に当たりそうな木の枝や妖気に釣られてきた妖魔を切り払っていく。彼の持つ刀の刀身には、橡の作った札が貼られていた。

「小癪な…!」

ダン、と雅客は足を強く地面に打ちつけた。その瞬間に妖力が爆発し、紫苑は思わず足を止めかけたが、橡が札を放るのが先だった。

「はばめ、山の如く!」

札が四散し、透明な壁に橡と紫苑の体が包まれた。橡の足は止まらない。

「縛れ、縛れ、蔦の如く!」

橡の言霊が、雅客を縛った。その蔦は数秒、雅客を縛る。たった数秒だが、その数秒の間に橡は近くまできていた。

「お前もこの数日で強くなったな。だが、それまでだ。」

雅客は大きく口を開けた。その中には、禍々しい色の丸い玉が浮かんでいる。それは紫苑の頭ほどあった。橡が札を放とうとした時にはすでに遅く、放たれていた。橡が術を使うとしても、橡にぶつかる方が早い。橡は斜め後ろに札を放った。紫苑に向けて。

「縛れ、はばめ!蔦の壁を織りなせ!」

紫苑は目を見開いた。それは紫苑の体の自由を奪い、さらに結界を張ったからだ。

「何を!?」

次の瞬間、紫苑の瞳には吹き飛ばされる橡が映った。紫苑は、橡の張った結界のおかげで無事だった。吹き荒れている爆風ですら、彼の体には届かない。

「橡!なんでお前は…!自分のことを考えねえんだよ!」

叫んで駆け寄ろうとしても、橡の術のせいで動けない。雅客は、紫苑に手を出せない。

「紫苑さん。少しそこで待っていてください…私は、一人でやる。」

橡の静かな声に、紫苑は叫ぶのをやめた。橡の瞳は、もう揺れてはいなかった。ただ一つ、揺るがない光を灯している。

「…そうか。危なくなったら頼れよ。」

橡は頷いて、紫苑の隣を通り過ぎた。橡の服はボロボロだった。すごい勢いで飛ばされたらしく、ところどころに血が滲んでいる。

「雅客。もう一度言う。私は今日、お前を討つ。」

雅客はふんっと鼻で笑った。その瞳は、黒く怪しく光っている。

「そんなことできないと何度も言ってるだろ。俺はお前の力量を把握してるんだ。お前は俺のこと、何も知らない。そんなんで対抗できるわけがねえ。」

橡はきっと口を結んだ。新たな札を構える。風もないのに、橡の髪の毛がぶわりと揺れた。

「もう私は、お前のことを知っている!お前の扱う術の程度もわかる!」

雅客は余裕そうにほう、と呟いた。しかし、その余裕は次の瞬間打ち砕かれる。

「縛れ縛れ、蔦の如く!不動明王の名の下に!」

札を使わず唱えられたその術は、雅客の体を強靭な力で縛った。手足をぴくりとも動かせず、声も出せない雅客に、さらに橡は畳み掛ける。

「天に座す月読命よ、その力を我に貸し与え給え!」

橡の体を、燐光が覆った。まるでボロ切れのようだった服が純白の光を放つ。

「悪しきものを打ち払い給え!急急如律令!」

雅客の体に纏わりついていた禍々しい妖気が祓われた。さらに、その体が二回りほど小さくなる。雅客はようやく呪縛から抜け出し、反撃しようと口を開いた。しかし生み出された玉は小さく、橡の周りの燐光によって消えた。

「さようなら、またあちらで会いましょう、雅客…万魔拱服!」

雅客の体に振り下ろされた札から、神々しい光が迸った。まばゆいその光は雅客に当たり、その姿を塵と変えていった。

「橡…お前は俺を裏切るのか…!」

光が止んだ後の橡の表情は陰になっており、伺えなかった。紫苑はとりあえず不自然ではないように声をかけることにした。

「橡、術を解いてくれ。これじゃあ動けない。」

橡はまだ紫苑にかけた術を解いていなかった。解こうとする様子がないのを見てとった紫苑は再び術を解こうと暴れようとしたが、びくともしない。そもそも術に立ち向かおうとすること自体が無謀なのだ。

「ごめんなさい、紫苑さん。私、約束は守れないと思います。」

紫苑は目を見開いて息を呑んだ。何をしようとしているのか、全くわからなかったが、嫌な予感だけはしていた。

「橡…!何をするつもりだ!」

橡は振り返り、悲しげに笑った。その瞳は申し訳なさそうな色を見せながらも、揺るぎない光が宿っていた。瞳を見ようとする視線を遮るように、札を振る。

「とっくりやしは夢見てる。とっくりやしは夢見てる。ゆらら、ゆらら、夢見てる。夢を見ながらさびしかないの。夢を見ながらさびしかないの。とっくりやしの木。大きなやしの木。ゆらら、ゆらら、ゆらゆら夢見てる…香れや香れ、イワブキの花。」

橡が札を山から紫苑を挟んで紫苑の家の方向に向けた。歌のような呪文が詠唱される。唱え終わった時には、紫苑は意識を失っていた。彼の中ではすでに、橡の術により彼女のことは忘れ去られているのだろう。橡は月を仰ぎ見た。いまだに穢れている光がさんさんと降り注いでいる。

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