第25話:聖騎士エリザ・ローレンス
エリザは孤児だった。
親の名前は知らない。
物心付く前に王都の裏路地へ捨てられたからだ。
文字の読み書きは、ゴミ捨て場で拾った教本で学ぶ。
随分と古いモノだったため、堅苦しい言葉遣いが身に付いてしまった。
しかし、本人は気にしていない。
意思の疎通が取れれば十分、そういう考えの持ち主だった。
聖暦1007年。
当時まだ七歳のエリザは、ゴミ箱を漁って残飯を
どこかの店で働こうと思い、何度か店の扉を叩いたこともあったのだが……。
クライン王国には労働の基準を定めた法律があり、十歳に満たない児童の使役は禁じられている。
そのため、どこも門前払いだった。
エリザは仕方なく、残飯を漁って
たとえどれだけ空腹に
彼女は強い『正義感』の持ち主であり、その『高潔な精神』が決して悪事を許さなかった。
(ふむ、今日は当たりだな)
珍しく綺麗な食パンを一切れ手に入れたそのとき、視界の端に小さな
「……お前も捨てられたのか?」
「くーん……」
「そうか、私と同じだな……。そうだこれ、一緒に食べよう」
「わふっ!」
今しがた手に入れた貴重なパンを半分に割り、仔犬へ分け与えた。
それからほどなくして――彼女の『唯一の友達』は、優しそうな家族に拾われていく。
(……よかったな、幸せになるんだぞ……)
エリザはその様子を物陰から見守り、お別れに小さく手を振ると――仔犬は「わふっ!」と鳴いた。
その夜は、久方ぶりに涙を流した。
再び時は流れ、
(……お腹、空いたな……)
巡り合わせが悪く、残飯の見つからない日々が続いた。
かれこれもう三日は何も食べていない。
育ち盛りの体に慢性的な栄養失調が重なり、誰もいない路地裏でバタリと倒れた。
(……そうか、死ぬのか……)
まるで他人事のようにそんなことを考えていると、
「――ほら、食え」
目の前においしそうなパンが差し出された。
小麦色のコッペパン。
カビてもなければ、
正真正銘の店に売られているコッペパン。
「……っ」
エリザはゴクリと生唾を呑む。
「……いい、のか……?」
「いいから黙って食え」
「か、感謝する……ッ」
エリザは一心不乱に食し――喉を詰まらせた。
「ん、んぐ……っ」
「馬鹿、がっつくからだ」
男はそう言って、水の入った
エリザはそれを受け取り、すぐさま喉へ流し込んだ。
「んぐんぐ……ぷはぁ……っ」
綺麗な水とは、こんなにおいしいものなのかと思った。
コッペパンを一瞬で平らげ、ホッと安堵の息をつくと――食事を恵んでくれた男が、ドッカリと目の前に座り込んだ。
五十代ぐらいだろうか、背が高く
「ガキ、名前は?」
「エリザ」
「親はどうした?」
「物心つく頃には、もういなかった」
「そうか」
「そうだ」
淡々とした会話が続いた。
「うち、来るか?」
「……えっ……?」
「働くってんなら、メシと寝床ぐらい用意してやる。付いて来い」
男は返事も待たず、クルリと
行く当てもないエリザが、後に付いていくと――小さな孤児院に辿り着いた。
「おい、帰ったぞ」
男がそう言うと、優しい顔の女性が出迎える。
「あら、お帰りなさ……あらあらあら! また可愛いらしい子を連れているじゃない! もしかしてこの子……」
「うちでしばらく面倒を見ることになった。適当に世話してやってくれ」
「えぇ、任せてちょうだい」
コクリと頷いた彼女は、中腰になってエリザと目線の高さを合わせる。
「私はダリア・ローレンス。あのちょっと不愛想な人は、ダン・ローレンス。夫婦で孤児院を開いているの。あなたのお名前、教えてもらえないかしら?」
「エリザだ」
「ありがとう、エリちゃんね。ようこそ、ローレンス家へ! 今日からここが、あなたの新しいお家よ!」
そうしてエリザは、『ダンダリア孤児院』に迎えられ、エリザ・ローレンスとなった。
ぶっきらぼうな旦那ダン・ローレンス、50歳。
おっとりとした優しい妻ダリア・ローレンス、48歳。
夫婦二人で運営する、非常に小規模な孤児院だ。
ちなみに……ダンダリア孤児院という名前は、二人のファーストネームを繋げた、非常に安直なものである。
一家の大黒柱たるダンは大工を
子どもたちは日中、ときに遊び・ときに学び・ときに仕事を手伝い――楽しい毎日を送る。
もちろんエリザもその輪の中に入れてもらい、充実した毎日を送った。
「おいエリザ、将棋は指せるか?」
「『しょうぎ』……なんだそれは?」
「どれ、教えてやろう」
ダンは
若くして亡くした娘にそっくりだった――というのは、彼だけの秘密だ。
家族みんなで夕食を囲むとき、
「こらエリザ、箸の持ち方がなっておらんぞ。ここをこうして……こうじゃ」
「むぅ、難しいものだな……」
彼女が外で恥をかかないよう、しっかりと礼儀作法を教えた。
エリザがうっかり足を踏み外し、階段から落ちたとき、
「
「大丈夫か、怪我はないか!?」
「あ、あぁ、平気だ」
「ふぅ、そうか……気を付けろよ」
誰よりも早く駆け付け、その身を案じた。
近所の悪ガキ二人が、エリザに意地悪をしたとき、
「てんめぇクソガキども、うちの可愛いエリザに何しやがんだ! ぶち殺してやらぁああああああああッ!」
「ひ、ひぃいいいい……っ」
「ごめんなさぁああああい……っ」
鬼の形相でどこまでも追い掛け回した結果――聖騎士たちに補導された。
エリザが初めてコーヒーを飲んだとき、
「に、
「がっはっはっはっ! エリザにコーヒーはまだ早かったようじゃな!」
心の底から楽しそうに笑った。
エリザが初めて「お父さん」という言葉を口にしたとき、
「ふむ……『お父さん』と呼ぶべきだろうか?」
「……ぐすっ……」
「……何故、泣く?」
「ば、馬鹿野郎お前……嬉しくなんかねーぞ、この野郎っ!」
彼女が引くほど、ボロンボロン泣いた。
あっという間に月日は流れ、十歳になったエリザは『洗礼の儀』で、<
「――<
白銀の剣閃が宙を舞い、目の前の木材が正確にカットされた。
「ほぉー、見事なもんじゃなぁ」
「エリちゃん、かっこいいわ! レジ、レジェ……とにかく、なんちゃらクラスの凄い魔法なのよね!」
<銀閃>の価値を知らないローレンス夫妻は、ただただ『凄い魔法』という認識だった。
エリザのこの力のおかげで、あらゆる木材が瞬時に加工され、大工仕事は
その結果、家族
「なぁ知っとるかエリザ、この世界には『天空に浮かぶ大きな城』があるんじゃぞ?」
「本当か!?」
「う・そーっ!」
「……そこに直れ、三枚におろしてくれる」
「ま、待て待て冗談だ! 落ち着け、悪かった! <
ダンはよく冗談めいた嘘をつき、純粋なエリザはよくコロっと騙された。
そんな二人を見て、子どもたちは楽しそうに笑う。
みんなの笑顔を見て、エリザもまた嬉しそうに微笑む。
貧乏で豊かではないが、穏やかで幸せな毎日――
「あれはもしや……<
『闇の大貴族』ヴァランの目に
それはどんよりと曇ったある日のこと、
「――ど、どういうことだ!?」
ダンの手掛けていた大工仕事が、全て同時にキャンセルされた。
「す、すみません、ちょっとうちにもいろいろとありまして……」
「何故じゃ!? せめて理由を教えてくれ!」
「いや、その……本当に申し訳ない……っ」
闇の大貴族ヴァランから圧力が掛かり、みんな手を引かざるを得なかったのだ。
唯一の収入源を失い、ダンダリア孤児院の資金繰りは急激に悪化。
そこへ畳みかけるように、
「……ぅ、ぐ……っ」
ダンが心臓の病で倒れた。
彼は元々、それほど体が強くない。
孤児院の子どもたちを養うため、寝る間も惜しんで働き――寂しい思いをさせないため、休む間もなく全力で遊ぶ。
そんな毎日の疲労が蓄積し、病となって現れたのだ。
ダンはローレンス家の経済的・精神的な支柱、屋台骨を失った孤児院は一気に傾く。
このとき既に十歳を超え、王国の法定就業年齢に達していたエリザは、すぐさま外へ働きに出る。
無論、ダリアもそれに続いた。
二人は
しかし、
家族全員の生活費に加えて、ダンの薬代まで必要となると……到底不可能だ。
ムードメーカーのダンは、寝室でほとんど寝たきり状態。
食事はどんどん質素になっていき、家の空気はどんよりと重い。
「ふぅ……私はもうお腹いっぱいだ。残りはみんなで食べるといい」
エリザはそう言って、半分以上の料理を残した。
自分の食事を子どもたちに分け与えることで、ひもじい思いをさせまいとしたのだ。
当然ながら、そんなものは『焼け石に水』である。
その後も孤児院の財政状況は悪化の一途を辿り、もはや首が回らなくなったところで――タイミングを見計らっていたかのように、ヴァランの息が掛かった
「はいはいはい、ダリア様。えぇえぇえぇ、大丈夫ですよ、御心配には及びません。こちらは『リボルビング払い』と言って、毎月定額の返済を行うだけで――そうそうそう、仰る通りでございます。その御理解で間違いありません」
ダリアは言葉巧みに騙され、『泥沼の借金地獄』に沈められた。
利息ばかり払い続けることになり、元本は減らないどころか、法外な金利によって膨れ上がっていく始末……。
「ごめんなさぃ、ごめんなさぃ、ごめんなさぃ……っ」
まんまと罠に
そうしてダンダリア孤児院が崩れたところへ、『闇の大貴族』が訪れる。
「はじめまして、儂はヴァラン・ヴァレンシュタイン。王国の辺境を治める、しがない貴族じゃ」
ヴァラン・ヴァレンシュタイン、当時75歳。
身長185センチ、中央で分けられた長い銀髪。
かつては絶世の美男子として、社交界を騒がせたその顔は、年と欲と
その体は枯れ木のように細く、右手には歩行を補助する木の杖が握られ、黒い貴族衣装に身を包む。
元々は『
「……お前のような大貴族が、うちになんのようだ?」
本能的にヴァランを『悪』と見抜いたエリザは、冷たく応じた。
彼はそれを意にも介さず、淡々と要求を告げる。
「エリザ・ローレンス、お前の<
「何を言っているのかわからないな」
「簡単な話じゃよ。エリザが儂のために働くというのであれば、この孤児院の借金を全て肩代わりしてやる。その働きぶり
「……」
「今この場で判断しろとは言わぬ、じっくり考えるとよい。しかしまぁ……その間に孤児院が潰れてしまわぬといいがのぅ?」
ヴァランは邪悪に
その日、エリザは一人で
(……やるしかない……)
ダンダリア孤児院は、既に火の車だ。
このままでは子供たちが、路頭に迷ってしまう。
自分の身を差し出すことで、孤児院を守れるのなら、大切な家族を守れるのなら――それでいいと思った。
そこから『地獄』が始まる。
「エリザ、お前を『聖騎士見習い』として捻じ込んでおいた。機を見て、奴等の捜査情報を持って来い」
「……わかった」
「エリザ、うちの経営する地下闘技場に出ろ。お前は顔と体がいい、華もある。客たちも喜ぶだろう」
「……わかった」
「エリザ、儂に暗殺者が差し向けられたらしい。しっかりとこれに対処しろ。万が一にも、失敗は許されぬぞ?」
「……わかった」
言われるがままに従った、従わざるを得なかった。
自分の命よりも大切なモノを守るため、強い正義の心も凛とした誇りも確固たる
しかしそれでも――『殺し』だけは絶対にしなかった。
その一線を踏み越えては、もう戻れない気がしたのだ。
「……まぁよい……」
ヴァランは腐り切った男だが、その審美眼は本物だ。
エリザの『ライン』を正確に見極め、そこにだけは口を出さなかった。
ヴァランにとっても、エリザは優秀なボディガード。
無茶な使い方をして、壊したくはない。
それから二年が経ったあるとき、
「――みんな、逃げるぞ! 今ならきっとなんとかなる!」
エリザは家族を連れて、ヴァランの手から逃げ出そうとした。
幸いにも、地下闘技場で稼いだ金がある。
血に汚れた汚い金だが……金は金だ。
これだけの大金があれば、王国の片田舎で三年は暮らせる。
その間になんとか生活を立て直せれば、と考えたのだ。
無論、すぐに追手が差し向けられるだろうけれど……。
その対策として、ヴァランの悪事を聖騎士協会に密告しておいた。もちろん、言い逃れのできぬ『確たる証拠』付きで。
これでしばらくは時間が稼げるはず、そう考えた。
「さぁ急げ! 奴等がこちらの動きに気付く前――」
「――エリザ、どこへ行くつもりだ?」
「……ヴァラン……何故、ここに!?」
ヴァランと聖騎士協会の上層部は、強い繋がりを持っていた。
『献金』という名の『裏金』で、固い絆を結んでいたのだ。
その後、エリザは薄暗い倉庫へ連れ込まれ、厳しい罰を受ける。
「なぁに舐めた真似してんだ、小娘がッ!」
「ふざけんじゃねぇぞ、ボケッ!」
「ヴァラン様に逆らって、タダで済むと思うなよッ!」
ヴァランの配下である若い男たちは、容赦なくエリザを痛め付けた。
「……う゛っ、ぐッ……」
殴られ蹴られ踏まれ、その体にいくつもの生傷ができたところで――ヴァランがようやく『待った』を掛ける。
「エリザ、儂は悲しいぞ……。何故こんな酷いことをするのじゃ。二人で上手くやれていたではないか」
「ふざ、けるな……っ。誰が、お前なんかと……ッ」
「そうか、残念じゃ」
ヴァランは芝居がかった動きで両肩を落とし、配下の一人に命令を飛ばす。
「おい、そこの。孤児院のガキを一人
その瞬間、エリザの顔が絶望に染まった。
「ま、待て、それは……それだけはやめてくれ。あの子たちには――私の家族には、手を出さないでくれ……ッ」
「はぁ……最近の若いのは、『謝り方』がなっておらんのぅ」
「……っ」
彼女は屈辱に奥歯を噛み締めながら、震える足でゆっくりと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ヴァラン
「ふむ、そこまで頼み込まれては仕方がないのぅ」
「……ありがとう、ございます……っ」
屈辱に震えながら、感謝の言葉を述べる。
「しかし、『罪には罰を』、だ。今後、ダンダリア孤児院への出入りを禁ずる。そうじゃな、孤児院の場所もどこか遠くへ移すとしよう」
「そ、そんな……っ」
「全てお前が悪い、儂を裏切るからこうなるのじゃ。まったく馬鹿な女よ。こんなことをしなければ、家族一緒に暮らせたものを」
ヴァランは醜悪に
「……くそ……っ」
首輪を
今ここで怒りに身を任せ、ヴァランの首を
しかしそんなことをすれば、『王国の
その後、膨れ上がった『民意』という暴力は、エリザを輩出したダンダリア孤児院へ向かい……悲惨な結末を迎えるだろう。
だから、彼女は逆らえない。
煮え繰り返るような思いを押し殺し、ヴァランの身辺警護役として、憎き男の身を守り続けた。
そうすることしか……できなかった。
ヴァランのボディガードとして、悪事の片棒を担がさせられている間、エリザはこれまで以上に『正しさ』を求めた。
聖騎士の活動に尽力し、大勢の犯罪者を検挙した。
病的なまでに『正義』へ固執した。
自分の犯した過ちを別の正しさで清算しようとしたのだ。
そんなこと、できるはずもないのに……。
そうして正義と悪の板挟みにあった少女の心は、次第に
幾多の犯罪者を捕まえる過程で、<銀閃>は研ぎ澄まされ、その『強さ』こそが自分の『価値』だと誤認してしまった。
しかし、
「……ば、馬鹿な……っ」
敗れた。
二度も。
立て続けに。
一度目は、『神隠し』。
重罪人ばかりを誘拐する、正体不明の犯罪者。
【即効性の神経毒だ。安心しろ、殺しはしない】
【ふざ、けるな……!】
敵に情けを掛けられるどころか、その身を守られるという屈辱を味わった。
二度目は、ホロウ・フォン・ハイゼンベルク。
怠惰傲慢を絵に描いたような男で、ハイゼンベルク家の次期当主。
【だから言っただろう、『勝負にもならん』と】
【ケホッ、カハッ、コホッ……】
圧倒的な実力差で、いとも容易く
エリザの『正義』は、二人の『巨悪』に敗れたのだ。
「私は……弱い……っ」
彼女の心を支えた最後の柱が、『強さ』という
それからほどなくして――レドリック魔法学校にて、
相手は『第三十一位』アレン・フォルティス。
序列こそ低いが、ここまで破竹の勢いで勝ち進んできた男、油断や慢心は禁物だ。
「ハァ!」
「フッ!」
「そこだッ!」
「なんの……っ」
二人の戦いは、
本来であれば、エリザの圧勝に終わるはずだったのだが……。
先々代勇者ラウル・フォルティスの『勇者修業』によって、アレンの
しかしそれでも――ホロウの見立て通り、エリザの地力が上回る。
腕力でこそ、ややアレンに
勝負を分けるのは、
戦闘に特化したこの固有がある限り、エリザが一対一で敗れることはまずない。
ただそれは、彼女のコンディションが万全であった場合の話だ。
正義と悪の板挟みにあったエリザの心は、かつてないほどに摩耗しており、そこへ畳み掛けるように訪れた『屈辱的な二連敗』。
彼女のコンディションは、万全とは対極のところにあった。
(……アレン・フォルティス、私よりも遥かに序列が低く、未熟で粗削りな魔法士)
剣術・戦闘経験・固有魔法、総合的な実力は、エリザの方が遥かに上だ。
まともにやり合えば、彼女の勝利は固い。
(だが……真っ直ぐな剣だ。一本の『芯』が通っている)
アレンの剣は、綺麗だった。
その太刀筋には、一切の迷いがない。
(きっと私の剣は……醜く
戦闘中にもかかわらず、彼女の心はどこか
まるで迷子のようにふらふらふわふわと。
迷いは判断を鈍らせ、揺らぎは
「「ハァッ!」」
太刀と短刀と強くぶつかり、大きな間合いが生まれた。
これを嫌ったアレンは、前方へ大きく跳ぶ。
その行動は『悪手』と言えぬまでも、『最善』からは程遠いモノ。
瞬間、
(『最速』を切るなら、ここしかない!)
(『最速』を切るなら、ここだ)
ホロウとエリザの思考が重なった。
しかし、
(醜く汚れた
迷いが生み出した空白の時間。
コンマ一秒にも満たない硬直。
(ば、馬鹿! おい、何をしている!? いったい何を
ホロウは心の中で
刹那の
「<
「――<
勇者の固有が炸裂し、<
(た、立てぇええええええええ……! 立つんだ、エリザぁああああああああ……ッ!)
決して立てないダメージじゃない。
しかし、体に力が入らなかった。
『心』という大切な原動力が、既に底を突いていたのだ。
「――勝者アレン・フォルティス!」
地下演習場に響く大歓声。
エリザはそれをどこか他人事のように聞いていた。
その後、
「――馬鹿やろぉおおおおおおおおおおおおおッ! エリザ、お前……何をやっているんだぁああああああああああッ!?」
『王の怒声』が響き渡り、虚空界に
聖騎士としての給金は、ほとんど全て孤児院に送っているため、彼女の生活は
(私は……なんなのだろう……)
神隠しに敗れ、極悪貴族に敗れ、主人公に敗れた。
唯一の
今やエリザ・ローレンスという存在がいったいなんなのか、自分で自分のことがわからなくなっていた。
家の鍵を開けたところで、郵便受けに手紙が入っていることに気付く。
「そうか……
月に一度だけ、ダンダリア孤児院と手紙のやり取りを許可されており、こうして月末に届けられるのだ。
エリザたちがまた『よからぬ企み』をせぬよう、手紙の内容は全てヴァラン本人がチェックし、孤児院の所在地が悟られぬよう、彼の配下が運び手を担っている。
ヴァラン・ヴァレンシュタインという男は、この辺りの細かいところが本当に抜け目ない。
「……みんな、元気にしているだろうか……」
彼女は自宅に入ってすぐ、家族からの手紙に目を通す。
『エリザ、迷惑を掛けてすまんな……。元気でやっておるか?』
『エリちゃん、本当にごめんなさい、私が不甲斐ないばっかりに……』
『またエリザお姉ちゃんと一緒に暮らしたいな!』
『エリ姉みたいな、かっこいい女の人になれるよう頑張るね!』
手紙は『一か月に一枚』と制限されているため、みんなそれぞれ一文ずつだけ、寄せ書きのような形で送られてくる。
「……う゛、うぅ……っ」
自然と涙が零れ落ちた。
楽しかった頃の、幸せだった頃の――五年前の記憶が蘇る。
エリザは玄関口で崩れ、
「……頼む。誰か、誰でもいい……私を、私達を……助けてくれ……っ」
悲しき
■
聖暦1015年6月1日21時58分。
黒い
当然、ヴァランの護衛としてだ。
ヴァラン・ヴァレンシュタインはこの日、帝国の密使と極秘の会談を持ち、『王国転覆計画』を最終段階へ移行する。
病床に
ヴァランはその混乱に乗じて、『クーデター』を起こすのだ。
無論、大貴族ヴァランと
そのため彼は、古くより付き合いのある帝国の貴族を頼り、皇帝との『極秘の
短く濃密な交渉の末、帝国の力を借り受けることに成功。
皇帝の目論見は、邪魔な王国を支配下に置くこと。
ヴァランは王国を売った見返りとして、公爵の地位と帝都の一等地を
(『四大貴族』だかなんだか知らぬが、王都の土地を独占しおって……気に喰わぬ)
彼は『辺境伯』という地位が嫌いだった。
何が悲しくてこんなド田舎を治めねばならぬのか、幼少の
(しかし、このクーデターが成功すれば、儂は栄誉ある帝国の大貴族となる! 帝都のど真ん中に巨大な領地を構えられるのじゃ!)
ヴァラン・ヴァレンシュタインは、『欲望の権化』とも呼べる醜悪な男なのだ。
(ふむ……そろそろか)
彼が懐中時計に視線を落とすと、時刻は二十一時五十九分、約束の時間まで後一分と迫る。
ほどなくして、予定の二十二時を迎えたそのとき――『異変』が起こった。
「ひ、ひぃいいい――」
「ば、ばばば……化物ぉおお――」
「だ、誰か、助け――」
「ぁ、ぐ、がぁああ――」
耳をつんざく壮絶な悲鳴は、不自然に『プツン』と途切れる。
明らかな異常事態、
「……何事じゃ……?」
緊迫した空気が張り詰める中、この場にそぐわぬ明るい声が響く。
「――おや?」
木々の奥から姿を現したのは――闇を煮詰めたような『漆黒』。
「これはこれはヴァラン
飛び切り邪悪な笑みを浮かべた『極悪貴族』だった。
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