第4話 3月3日③



「やった事ない?スクワット。」


 少年は、スクワットはおろかジムに来た事も無い。ダンベルもホームセンターにあった2,3kgの物を何回か持ったくらいだ。バーベルに至っては初めて触る。何キロほどあるのだろう。


「ちょっとやるから見てて」


 そう言って男は1番大きいプレートを片側3枚ずつ付け出した。プレートを持つときに際立つ前腕の血管が稲妻のように走っている。

 全て付け終えると、そのまま表情を変える事なくスクワットを始めた。バーベルは一切のブレなく並行な軌道で上下に動く。息を深く吸いながらゆっくりと沈み込み、沈み切ったところで力強く上がる。動くたびにプレートがカラカラと音を立てる音が妙に心地良い。単純で普遍的な動きだが、魅力的だった。美しさすら覚える男の動きに魅了され、瞬きさえ忘れた。

 

 数回行った後、バーベルを元の位置に静かに戻し、少年に言った。


「見様見真似でいいからやってみてよ、1セットだけでいいからさ。これ終わったら死ぬなり逝くなり好きにして。」

 

 数分前まで命を断とうとしていたのに、どういうわけか目の前の謎の男にスクワットを強要されている。こんな非日常でカオスな状況をとてもじゃ無いが少年の脳の処理は追いついていなかった。が、

 

「やります」

 

少年の中の理屈ではない何かがそう答えた。

 

 よし、とだけ言って頷くと、男は何も言わず先ほどのプレートを全て戻し、1回り小さい大きさのものを1枚ずつだけ付けた。


「今から始めるわけだけども、1つだけルールを決めよう。」

 

男が少年を見つめる。


「限界までやる。それだけ。」


 ピンと人差し指を立て、口角をにやりと上げながらルールを提示した。何が面白いのか、少年には分からなかった。ルール自体は何の問題もないし、元々そのつもりではあった。何も言わず、首を縦に振る。もう一度男が悪そうにニヤッと笑い、言った。


「ほんなら始めようか。」


 少年が、パワーラックの中に入る。少年は何故か少しだけ緊張していた。

 男がしていたのと同じように、両手でバーベルを肩幅より少し広めで握り、ゆっくりとバーベルの下に潜り込んだ。

 背中の上部にバーベルを当て、持ち上げやすい位置を探す。男は黙ったまま後ろでポケットに手を入れたまま、じっと見ている。少し間を置いた後、脚に力をぐっと入れ、バーベルを担いだ。

 初めて味わうバーの重さが身体の芯を捉える。どうにかならない重さでは無いがしっかり重い。重さにまだ慣れないまま、後ろに数歩下がる。背中にバーベルが食い込んで少し痛い。

 鏡の自分と目が合う。覚悟を決めたわけでも気合を入れたわけでも無い。ただ一度ゆっくり瞬きをして、情熱も昂まりも何も無く、む無心で1発目を開始した。


 約6分にわたるこの1セット。この世界で零れ続けるありふれた短い時間が、少年の全てを変えてしまう。

 

 そんな1セットが、いま始まる。


 



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