第9話 私の条件を飲んでくれれば、いいよ

「……ダメだったかぁ……」


 喜多方春季きたかた/しゅんきはハッとし、ベッドから上体を起こす。

 自室のカーテンから入り込んでくる光を一心に体に受けながら、唖然とした顔をしていた。


 昨日は連絡交換用アプリに設定した時間通りに、真夜中の一時頃で通話が切れた。

 がしかし、一番の盛り上がりを見せていたタイミングでの通話切断だった為、結果として、春季は麗との通話を再開してしまったのである。


 再開しても一〇分くらいと春季の中で決めていたのだが、春季の声を聞いていたいとスマホ越しに麗から囁かれ、やめるにもやめられない状況になっていたのだ。


 一〇分、一時間と経過し、しまいには昨日と同じく七時半に起床する羽目となったのであった。


「……」


 ベッドで上体を起こしている春季は頭を抱えていた。

 すべて自分が蒔いた種だ。


 そもそも、麗とは学校でも会える。

 ただ、深く会話するとなると、電話じゃないと難しいところがあるのだ。


 麗と学校で馴れ馴れしいやり取りをしていたら、クラスの同性から嫉妬の眼差しで見られることが確定してしまうだろう。


「俺って、本当に意思が弱いんだなぁ」


 春季が眠そうな瞼を擦りながらベッドから立ち上がろうとした時には、自室の扉前から声が響く。


「お兄さん、まだ起きてないの?」

「いや、今起きた」


 春季はその場から大声で返答する。


「もう、またぁ? 遅刻したらみっともないし。私のお兄さんとして、しっかりとしてよね!」

「わ、分かった」


 朝っぱらから早々、日和からお叱りを受け、春季はどんよりした表情のままベッドから立ち上がり、自室の扉まで向かう。


「お、おはよ、日和」

「お兄さん、髪ボサボサじゃん」


 扉を開けると、部屋の前には制服姿の妹――日和ひよりが驚いた顔で佇んでいたのだ。


「そんな髪じゃなくて、ちゃんと揃えてよね!」

「わ、分かった、整えてから家を出るから」


 日和は妹というより、保護者みたいな感じである。

 昔はもっと頼られる事もあったのだが、高校生になった今では逆転しているような感じだった。


「私、行くね!」


 日和は階段を下って行く。

 靴を履く音と玄関扉の音が、二階にいる春季の耳元まで聞こえてきたのだ。


「俺もそろそろ行くか。というか、こんなところでボーッとしてる場合じゃないって!」


 春季は焦って階段を下って行き、朝食と朝の仕度を済ませると、通学用のリュックを背負い、自宅から走り出すのだった。




 はあぁ、何とか今日は間に合ったけど、色々危なかったな。


 春季はギリギリのところで学校に到着しており、今まさに午前の授業を終えたところだった。


 春季は席から立ち上がる。


 教室内は昼休み時間という事もあって騒がしい。

 西野麗にしの/うららは他の友人と楽しく会話して過ごしていた。


 無理に麗に話しかけて、友人との大切な時間を邪魔するつもりもない。


 今日も一人で昼食を取るか。


 春季は教室を後に廊下を歩く。

 校舎一階の購買部へ向かって移動していたが、制服のポケットの中に手を入れていると、その違和感に気づいた。


 ……アレ?

 財布ってどこにあったっけ?


 他の制服のポケットも確認してみるのだが、財布らしき形をしたモノはどこにもなかったのだ。


 ヤバ、急いで家を出たから財布忘れた……。


 衝撃の真実に今になってから気づき、また今日二回目の唖然とした顔を見せる。


 という事は、今日は昼食抜きってことか?


 頑張れば自宅に帰れない事もないのだが、行って帰ってくるだけで午後の時間になってしまうだろう。


「春季? なんかあった感じ?」


 近くからいつもながらの幼馴染の声が聞こえる。

 春季はハッと現実に引き戻されるようにして、廊下にいる彼女の方へと視線を向けた。


 視界の先には、神崎阿子かんざき/あこが佇んでいたのだ。

 そんな彼女の姿を見て、春季は不思議と安堵するのだった。


「何してるの? そんなところで?」

「俺、財布忘れてきて」

「は? 何それ。今日も遅刻ギリギリだったし。財布も忘れるとか」


 阿子は呆れていた。


「見てたのか?」

「教室の窓から見えてたし。後一分でも遅かったら減点だったでしょ?」

「そうだね。本当にギリギリ」

「夜まで何をしてたの?」

「それは……い、いや、なんでもない」

「なに? もしかして言えないこと?」

「そんなことではないけど」

「じゃあ、言えるんじゃないの?」


 幼馴染からは疑いの眼差しを向けられていた。


「まあ、別に深くは聞かないけど。というか、財布がないって事は、春季ってお昼ご飯食べられないってことでしょ?」

「そうなるね。購買部で何も買えないし。自販機でも」

「じゃあ、丁度いいし、私のお弁当でも食べる?」


 阿子は布に包み込まれた弁当箱を見せてくるのだ。


「え? いいの?」


 幼馴染の口から放たれた希望染みたセリフを耳に、春季の目の色が変わる。


「私、今日は余分に作って来たし。春季と一緒に食べる予定だったから」

「ありがと、助かるよ」

「でも、ちょっと待って」

「え? まだ何かあるの?」

「あるっていうか。その代わり、明日一緒に遊ばない?」

「……え?」


 明日?


 明日といえば土曜日であり、普通に麗と遊ぶ約束をしているのだ。

 今、阿子と明日の約束を交わしてしまったら、昨日と同様に厄介な事になってしまうだろう。


 えっと……どうすればいい。

 でも、ここで承諾すれば、今の空腹は満たせるけど……。


 いや、ダメだ。

 明日は絶対に麗との約束は守らないといけないし――


「ごめん、やっぱり、やめておくよ」


 春季はキッパリと断る。


「じゃあ、空腹のまま今日の午後を過ごすってこと?」

「そ、そうじゃなくて……やっぱり、リュックの中に財布入ってたと思ってさ。問題ないよ。ごめんな、余計な迷惑をかけて」

「え」


 阿子は困惑し、目を点にしていた。


 また昨日のように阿子の誘惑に流されてはいけないと、春季は考えていたのだ。

 だからこそ、春季はすぐに言葉を切り返し、また後でと一言告げる。他の人が行き交っている廊下を歩き始め、再び教室へと戻って行く。


 春季は教室に戻り、実際にリュックの中を確認してみるものの、財布はなかった。

 ただ、一週間前にコンビニで購入し、そのまま放置していたクッキーが二つほどあったのである。

 その他に一〇〇円ほどリュックの底にあり、奇跡的に自販機でジュース一本分だけは購入できそうだと思い、春季は神に感謝するのだった。

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