第28話 過去の男
「相変わらず、心の声が口に出ている癖は治らないようだね。僕の印象はだいぶ悪いようだけど」
「そう思うようなことをしたのは神永さんでしょう?」
「ううん。どうだろうね」
椅子にどっかりと腰を下ろした男は、部屋が暑いのか、来ていたスーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。そんな何気ない仕草も様になるのがむかつくところだ。しかし、この苛立ちのおかげで、少しだけ目の前の男に対する緊張が和らぐ。
私は男の正面の椅子にどっかり座った。お茶については出さないことにした。私の分も準備していないが、飲み物を飲んでいる余裕はないので、問題はない。
「REONAさんには、私の家に来ることを伝えたんですか?」
「どうしてここであの女の名前が出てくる?」
「どうしてって」
この男のこういうところに、REONAさんは愛想をつかしたのだろう。今までよく我慢できたものだ。私はこっそりと、彼女の助言に従うため、ポケットに忍ばせたスマホを操作する。
「REONAは確かに私の嫁ということになっているが、先生と会うのに許可を得る必要がわからない」
「それは、私を女として見られないから、不倫相手になりえないということですか?」
「どうしてそうなる?」
「ただの私の推測です。それで、REONAさんとは最近どうですか?彼女みたいな美人を捕まえて、さぞかし幸せな夫婦生活を築いているのでしょうね。息子の翔琉君も優秀そうで何よりです。私には一生縁のないことですから。温かい家族というものを満喫していると思うと、羨ましい限りです」
とりあえず、この男との会話を長引かせることが今回の私の任務である。不倫の証拠は、そのうち自ら話してくれるだろう。ポケットに忍ばせたスマホをそっと握りしめながらも、男をあおるような言葉を吐いていく。幸い、男は私がポケットに手を入れていることに興味を示していない。これなら、今回の作戦はうまくいきそうだ。
「羨ましい?ふん、バカバカしい。沙頼もそういう、普通の家庭の幸せを望むのか?」
「普通の幸せ、ですか?どうでしょう。私はあなたに、その幸せを奪われたと思うのですが。それについては、また詳しく話していくとして、私のことを名前で呼ばないでください。私たちは名前を呼び合う関係ではないでしょう?不快なのでやめてください」
私の言葉に男はバカにしたように鼻を鳴らして、世間の普通の家庭を批判する。この男と二人きりだがだいぶ落ち着いてきた。冷静に言葉を返すことができていると思う。
REONAさんとの電話が思いのほか良い影響をもたらしてくれた。彼女が私の味方であることが今はとても心強い。そのおかげでこうして、目の前の男に強気な言葉を投げつけることができる。そして、男が私の名前を呼ぶことが不快だと伝えることができた。
「名前を呼ばれて不快とは、自分の名前が嫌いなのか?それとも、オレが君の名前を呼ぶのが」
「後者に決まっています」
「オレが名前を呼ぶことが不快、か。仕方ない。先生と呼ぶことにするよ」
上から目線な男の答えにムッとするが、ぐっと我慢して、男の様子を客観的に眺めてみる。男は確かに世間の四十代と比較したら若く見え、容姿はかっこいいと言える。そして、その容姿に加えて、その口から出される声に、人々は魅了される。
四十代と年齢を重ねてもなお、男の人気は衰えることを知らない。十五年前でさえ有名だったのだ。その当時に声を掛けられ、一夜を共に過ごせるとわかったら、ころっと落ちてしまう女は多いだろう。
私もその一人だった。しかし、今はどうだろうか。男の本性を知ってしまってもなお、この男に流されてしまうだろうか。いや、今回は絶対に流されてはいけない。
男は私にとって過去の男だ。そこに変わりはない。それさえ揺らがなければいい。過去の男と決別するためにも、強い意志を持ち続けなくてはならない。
「幸せを奪ったと先生は言うが、先生もノリノリだっただろう?まさか、アレが初めてだったとはな。そう、オレはそのことで話があるんだ。本題に入ろう」
男はようやく本題に入るらしい。やはり、男が私に用事があると言ったら、そのことしかない。頭の中ではわかりきっていたが、いざ、口にされると緊張と不安で、ようやくこわばりが解けた身体が再度、こわばってしまう。
「本題の前に、お茶でも入れますね。口が渇いてしまっては、思うように話すこともできないでしょう?」
いったん、男から離れ気持ちを立て直すことにした。お茶を出さないという私の意思はあっという間に崩れ去る。
何とか重い身体に鞭打って、男にお茶を入れるために席を立ってキッチンに入り、お茶を入れる支度をする。そこで静かに深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。大丈夫だ。この場にいるのは、私と男だけだが、私には強力な助っ人がいる。ポケットに忍ばせたスマホを握りしめた。
なんとか、お茶を入れる任務をこなし、私は仕方なく男の前に温かい緑茶を先に出し、その後、私の席の近くにも緑茶の入った湯呑を机に置き、再度席に着いた。
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