第3話
これは神殿に盾突く行動であり、神殿の教義に反する行いだ。それを神官たちに知られようものならば、彼らを口封じにふん縛らないといけなかった。
だが。そこにいた相手に、アイダは目を見開いた。
「……ザックスさん?」
そこには普段陽気なザックスが立っていたのだ。それにエリオットが声をかける。
「あれ。君、最近姿を見かけなかったけれどどこに行ってたの? ラガートの敷地から離れるなんて、目立ちそうなのに」
「アハハハハ、持ってるものはなんでも使う主義なんだよ。でも、俺は今の君たちのやろうとしていることには反対かな」
飄々と掴み所のない人物であり、アイダ視点では彼がなにを考えているのかはわからない。ただ。
彼は捉えどころのない言動をしながらも、目だけはちっとも笑っておらず、むしろ冷ややかにベネディクトとエリオットを値踏みしているのが見て取れた。
「……待ってください。言い出したのは私ですっ、エリオットさんもベネディクトさんも、私の提案に付き合ってくれただけで……神殿に通報するのは、私だけにしてくださいっ」
アイダの訴えに、ザックスはクスクスと笑う。そこにアイダは違和感を覚えたが、その違和感の正体に気が付いた。
(ザックスさん……エリオットさんとベネディクトさんにはちっとも笑ってないのに、私にはどうしてそんなに笑っているの……)
まるで母がアイダが上手く歌を歌えるようになり、精霊と戯れることができるようになったときみたいに、畑を嵐から守るために一日中畑の前で歌い続けて倒れたときみたいに、愛情深い愛しむ目で見られて、アイダは戸惑った。
「あなたを訴えるようなことだけは、決してしませんよ」
「な、なら……ふたりのことも……」
「それとこれとは話が別です」
そこで二度目の違和感を覚えた。初対面のときは、彼はアイダにそんな丁寧な口調で話をしていなかった。だが、今は。
エリオットはなにかを言いたげに口を開こうとしたが、先に声を上げたのはベネディクトだった。
「……貴様、本当に何者だ?」
「何者って? 俺は神殿でもそこそこ口利きできる家の出だけれど?」
「奏者なのは間違いないだろうが、俺たちが神殿で歌っているものとは明らかに違う。むしろアイダのものに近い」
「そっか、君は気付くんだね?」
そう言って彼は長い髪をさらりと靡かせた。
……本来、立っているだけならば風がなければ髪が揺れない。急に風が動きはじめたのだ。
「これは……!」
「アイダ!?」
急な風を巻き起こしながら、ザックスはアイダの襟首を掴むと、エリオットとベネディクトを牽制した。いきなり掴まれたアイダは、目を白黒とさせてザックスを見た。
「ザ、ザックスさん……! どうして……! この歌……」
「ああ、気付きましたか。あなたの故郷の歌ですよ」
「私の……?」
エリオットもベネディクトも理解できなかった現象だが、アイダだけははっきりと理解できた。
これは嵐を割り、故郷を守るために歌う風の精霊に感謝を捧げる歌。ベネディクトの盗聴防止の歌を割ったことで、風の精霊のコントロール権を奪ったのだ。そして今はふたりはベネディクトの歌で起こされた障壁により、アイダの元に辿り着けなくなっている。
そしてその歌をアイダに教えたのは、ラクスだった。
「どうして……あなたはお母さんと同じ歌を歌えるんですか? 私の故郷は……」
「あなたの故郷は、あの辺境の地ではありませんよ。既に聖バルニバービ国の精霊を枯渇させる歌のせいで、海に沈められてしまいましたがね」
「…………っ!」
ザックスの軽い調子で言われた事実に、アイダは言葉を失った。彼女がプルプルと震えている中、ザックスは端正な顔つきを引き締めて、アイダをじっと見つめた。
「あなたがシコラクス様により、奏者としての才能を開花させていた。そしてあなたは見事に祖国の守護竜アダマントを聖バルニバービ国の呪歌から解き放ち目覚めさせたのです。あなたが歌えば、たちまち守護竜アダマントは立ち上がり、再び祖国を復活させるでしょう。どうですか? あなた方親子を辺境の地に押し込んでいた国に、神殿に、神官たちに……復讐したいと思いませんか?」
****
ラクス・グラバー……本名:シコラクス・グラプダブドリッブは、その半生を娘の成長と復讐のために使い果たしたと言っても過言ではない女性であった。
幼い娘のアイダを抱き締めながら、シコラクスは歌を歌っていた。
島国であるグラブダブドリップ王国は、大きな国ではなかった。しかし守護竜アダマントに守られ、四季のはっきりとした穏やか風土。奏者たちが常に歌い、精霊に感謝を捧げ続けていたために、嵐の日は風の精霊たちが相殺してくれ、大雨の日は水の精霊たちが緩やかにしてくれているおかげで、作物は国民分満足に得ることができた。
シコラクスもまた、奏者として精霊たちのために歌を歌い続けていたところで、王に声をかけられ、妃として王城に上がったのである。
大きな繁栄はなくとも、国民は勤勉でよく働き、皆が笑顔でいられる国。グラブダブドリップ王国は、そんな穏やかな国だったのだが。
転機が訪れたのは、他国から流れ着いた人を国民が助けたところからだった。基本的に精霊たちのおかげで、嵐は国土を荒らすほど通過することはなく、人が流れ着くこともまた滅多になかったのだが、舟が沈んで泳いでくる人は本当にごくごくたまにいた。
「侵入者が現れました。どうなさいますか?」
国防を担う騎士団は優秀であった。定期的な商業船以外の人が上陸した場合はすぐに情報が王城に入る。
国王は尋ねた。
「服の特徴は?」
「白い外套を着ている旅人とのことです。上陸を許可しますか?」
「入れてあげなさい。怪我が治り次第、水と食料、新しい舟を渡してすぐ立ち去ってもらうように」
「はっ!」
グラブダブドリップ王国が侵入者に厳しいのは、この国は島国ゆえに自然の砦のおかげで守られてはいるが、有事の際大国に簡単に滅ぼされてもおかしくないほどの戦力しか持ち合わせていないせいである。
国王の言葉を、シコラクスはやんわりと咎めた。
「あなた、なにもすぐ追い出さなくても。体力が回復してからでいいじゃありませんか」
「シコラクス、そうは言っても」
国王はシコラクスの腕に抱かれた娘を持ち上げて言った。まだ髪も薄く、ふくよかな頬のその子は、母から父に抱き替えられてもスヨスヨと眠っている。そんな暢気な娘に国王は笑った。
「この国の力を持ち逃げされては困ってしまうからな。なにも知らないうちに、さっさと出て行ってもらったほうがいい」
「持ち逃げ……うちには持って帰れるほど豊かなものなんてございませんが」
「そんなことはない。たとえばシコラクスの歌」
「私の歌ですか……精霊たちに感謝を捧げる歌ですし、ただ精霊たちと仲良くなるための歌ではございませんか」
「我が国民もシコラクスも、それを私利私欲では使わない。だからこそこの国は平和なのだよ。だが国外の者たちはそうではない。精霊に感謝を捧げるなんて発想がない野蛮な者たちが大勢いるのだからね」
国王の言葉を、当時のシコラクスは物々しく思った。
(精霊に感謝を捧げないなんて……だとしたら精霊の力を無理矢理使わせるというの? それは蛮族であって……やってはいけないことだけれど)
シコラクスは理解できなかったが、なおも国王は続ける。
「おまけに我が国には守護竜アダマントがいる」
「……優しい竜ですわ。襲ってこない限りは反撃しない、国民に対しても優しい」
「グラブダブドリップの者たちは皆よく知っているからそう思うだろうさ。だがね、シコラクス。国外では竜を悪魔の化身だと言って襲ってもかまわないなんて蛮族が大勢いるんだ。なによりも我が国はアダマントに守られている国だ……この悪魔の力を利用しようなんて発想の連中だって、おそらくいるはずなんだよ」
当時のシコラクスは、夫はなんて大袈裟なんだと思いつつ、娘のアイダを取り返しながら抱き締める。
「精霊に感謝を捧げる歌を歌えるのは、精霊に愛されている者たちだけです。そんなおそろしい蛮族たちに、この歌が歌えるものですか」
そう言ったが。このときの国王の判断が正しく、シコラクスが楽観的過ぎたと判明するのは、これから少しあとだ。
助けた難民は、奏者たちが歌を歌い、精霊を使役しているのを物珍しげに眺めたあと、いくつか質問をした末に、舟と食料を持って去って行った。
それからまもなく、助けたはずの難民が自身の国に報告を上げて、攻め込んできたのである。島国はあっという間に舟に取り囲まれてしまった。
国王は「やはりか」と唸り声を上げた。国民たちは阿鼻叫喚で逃げ惑うが、島国をぐるりと舟で取り囲まれてしまったが逃げ場がない。孤島は監獄へと変わってしまったのだ。
「なんという……なんという恩知らずな……!」
シコラクスはそう悲鳴を上げたが、国王は言う。
「隣国で精霊を使う歌がつくられるようになったと聞いていたが、やはりこうなったか」
「それは……我が国の模倣ですか?」
「模倣よりももっとたちの悪いものだ。我々はあくまで精霊の力を使うのは平等のため。彼らに歌で祝福を与えることで力を借りるというものだが……あれは違う。精霊を隷属させ、屈服させて力を搾り取るものだ」
「そんなことをしたら……」
「……精霊は死滅する。彼らは精霊を道具としか見てないのだ」
それはシコラクスからしてみれば信じられない言葉だったが。
奏者を名乗る騎士たちが歌を歌う。たちまち精霊たちが弓矢のように突っ込んできて、グラブダブドリップ王国を蹂躙してこようとする。
風の精霊の力で、波は高くなり、津波が国土を襲った。
国民誰もが悲鳴を上げたが、それはすぐに打ち消されたのだ。守護竜アダマントがのっそりと立ち上がったかと思ったら、津波に向かって大きく息を吹きかけた。
すると津波の大波が粉々に砕け、逆に敵国の舟を沈めはじめたのだ。国内から歓声が上がった。
シコラクスはほっとひと息をついたが、国王が妻子を呼び寄せた。
「どうなさいましたか? 我が国は守護竜アダマントがいるのです。彼は精霊の力には決して屈しませんし、負けることはありません」
「……あの罰当たりな国は、よほど我らのことが憎いらしい。国民はこっそりと地下から避難させる。シコラクスとアイダも逃げなさい」
「どうして? そして地下というのは?」
「……精霊を隷属させる歌だけでない。あやつらは罰当たりにも……守護竜を隷属させる歌を作曲したらしい。この国はいずれ沈む。が、沈むまでの時間稼ぎはできよう。行きなさい」
「…………!」
罰当たりだとは思っていた。精霊たちの意思を無理矢理奪って屈服させる歌など、いずれ精霊を滅ぼしてしまう。精霊を死ぬまで隷属させ力を出し尽くさせたら、いずれ精霊は滅びてしまう。精霊のいなくなった土地は、とてもじゃないが人が住める場所ではなくなるというのに。
しかし、敵国はシコラクスの考えている以上に罰当たりだったのだ。
彼らにとって、守護竜の存在はせいぜい空を飛ぶ乗り物や大船と同じようなものだろうが、グラブダブドリップ王国にとっては国を守ってくれる頼れる隣人なのだ。それを無理矢理奏者の力を使って屈服させ、隷属させようとしている。
シコラクスは抵抗したが、国王は守護竜が国中に向けられて降り注ぐ岩や石つぶてを吐息で吹き飛ばしている中、歌いはじめたのだ。
──空には虹 海には潮 大地には花
──歌え 呼べ 心の向くままに
──さすれば心は どこまでも高く飛ぶ
低く甘い歌声は、守護竜アダマントを癒やし、力を与えるもの。しかし。
その国王の声を打ち消すように、敵国から風の精霊が送り込まれてきたのだ。先程の石つぶてのような攻撃するためのものではない。国王の歌声を塞き止めるためのものだ。
敵国の奏者は歌いはじめたのだ──それは祝福の歌とは言えない、呪いの歌を。
──楔を打ち付け 羽を削ぎ落とし
──叫べ 狂え 心はここに
──我らと共に 我らと共に
低くおびただしい呪歌が、次々とアダマントに刺さっていったのだ。
「王妃様、こちらに……!」
「離して! アダマントが……アダマントが……国王が……!」
呪いが染み込んでいったアダマントは、国を守るために使っていた翼と鉤爪を使い……王城を破壊しはじめたのだ。
国内は恐怖と絶望の声に包まれる。
逃げ場がない。逃げることができない。
穏やかな人々が逃げ惑い、ときには岸に辿り着いて泳いで逃げようとするが、次々と敵国の舟から飛んでくる矢に刺さって絶命した。
その中、とうとうシコラクスは腕の中の娘と一緒に、騎士団に連れられて王城の地下へと連行されていったのだ。
地下には小さな樽が存在し、かろうじて王城地下に避難してきた人々は、一斉に樽の中に入れられて流されていた。
不思議なことに、樽は人を数人入れただけでは水面に浮くというのに、次々に沈んでいくのだ。
「これは?」
「脱出用です。全ての樽には海の精霊の歌が使われ、海底から隣国に流されるように設定しております……もっとも、これらはどこに到着するかはわかりませんが」
「……国王はどうなさるつもりですか?」
「国王は、守護竜を敵国に強奪された責任を取り、葬られていった国民と命を共にするおつもりです」
「……最後に、私のわがままをひとつだけ、お願いできますか?」
「はい?」
「逃げられる国民たちが全員避難完了してからでかまいません。もっとも奏者の腕の立つ騎士をひとり、私に付けてくれませんか?」
シコラクスは懇願した。
これは一種の賭けだった。奏者のほとんどは、守護竜奪還のために喉が裂けるまで歌い続けているか、敵国の呪歌のせいで死に至っているだろう。王城に避難してきた国民を脱出させるために残された騎士たちは、ほぼ予備に過ぎないのだから。
呼ばれてきた騎士は、精悍な顔つきの青年だった。しかし他の騎士たちよりも肉の付き方がまだ甘く、入団したばかりだろうと見て取れた。
「あなたの名前は?」
「……ザカライア・スウィストと申します」
「そう……ザックスですね。私と一緒に、どうぞ樽に乗ってくださいませ」
「しかし……」
シコラクスは残された騎士の面々を見た。既に全員、覚悟を完了したように唇を引き締めていた。さながら、彼らは一番若い騎士であるザックスを逃がすために読んできたのだろう。
シコラクスは笑みを浮かべると、腕の中のアイダは口をむずむずとさせた。それを見ながらシコラクスは腕の中の娘をあやした。
「どうか、アイダのために子守歌を歌ってくださいませんか。樽の中でそれくらいはできるでしょう?」
シコラクスの嘆願にザックスは困ったような顔をしたものの、やがて膝を突いた。
「……拝命致します。王妃様」
こうして、シコラクスとアイダ、ザックスは樽に乗り込むと、そのまま流されていった。もし見つかって樽を壊されてしまったら、海の藻屑と消えてしまう。
その不安を押し殺すように、ザックスは歌いはじめた。
若い騎士の歌声は瑞々しく、それにアイダはにこにこと笑いはじめたことが、この樽の中の旅をよいものとした。
奏者の歌声により、樽は海底をコロコロと転がり、祖国から遠ざかっていった。転がりながらも、シコラクスは愛娘をずっと抱き締めていた。
「……今は帰れなくても、絶対に帰るからね」
そしてそれは若い騎士であるザックスにもよく聞こえるようにシコラクスは言った。
「……我が国の守護竜アダマントは、にっくき聖バルニバービ国に奪われました。何十年かかってもかまいません。どうぞ私と共に、守護竜アダマントを取り戻してくださいませんか?」
「我らふたりだけ、ですか?」
「いいえ、三人です」
シコラクスはアイダを抱き締めた。
「この子には、私が全てを費やして歌を教えます。我が国に伝わる歌を全て……その歌がきっと、守護竜アダマントを助けてくれます。そして、怨敵である聖バルニバービ国を討ち滅ぼしてくれます」
こうして、樽に詰め込まれたふたりは、誰もが笑止千万と切り捨てる計画を打ち立てたのである。
シコラクスは名を捨ててラクスを名乗り、奏者すら入らぬような辺境の村で奉仕活動をしながら、この国では禁じられた歌をアイダに徹底的に教え込みはじめた。
そしてザックスは、シコラクスの歌で若返り、姓も故郷もない子供として、見事ヤングアズバンド家の孤児院に潜り込み、奏者の才能を見込まれて養子縁組を果たした。
それはあまりに長い戦いであった。それは気の遠くなるほど長い……アイダの人生と同じくらいに長い、祖国奪還のための道筋だったのだ。
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