嵐の前の静けさ
第1話
アイダは寮の窓を開けようとしていると「アイダ?」と声をかけられた。寝ぼけた顔をしているチェルシーであった。それにアイダはビクッと肩を跳ねさせる。
「なあに……こんな時間に外に出るのぉ……?」
「え、ええっと……はい」
「ふうん。それって、寮母さんに見つからないよう誤魔化したほうがいい奴?」
「え……聞かないんですか?」
「聞いたほうがいい?」
チェルシーはあまりにも普通に尋ねるのに、アイダは思わず黙り込む。チェルシーは寝ぼけたまま、あくびを噛み殺しつつ言う。
「だって、アイダはたしかに世間知らずだし、変におどおどしているところもあるけど、いい子じゃない。まさかテストの答案を盗もうとしてるなんて思わないし……理由があるんだろうなあと思っただけだけど。違う?」
「ち、違わないです」
「うん。わかった。じゃあ行ってらっしゃい」
チェルシーはさも当然と言う様子で手を振ると、そのままトコトコと洗面所に向かってしまった。どうもトイレに起きてきたらしかった。彼女が立ち去っていくのを見ながら、アイダは己を奮い立たせた。
(友達を巻き込みたくないなあ……)
アイダは漠然とそう思いながら、そろそろと庭木に飛び移った。ラガート音楽学校の寮には草木が植わっていて、どれもこれもよく育っているのは、奏者が毎日のように賛美歌を歌っているせいだろうと、アイダはぼんやりと思った。
故郷は本当になにもない場所な上に人手もないため、木になにかが飛ばされたら、毎度アイダが木によじ登って取りに行かないといけなかった。そのおかげで、今でも木登りは得意だった。
アイダは寝間着のシャツとゆったりとしたパンツ姿で降りると、足音を立てないよう、そろりそろりと校舎に向かおうとしたとき。
「アイダ」
突然声をかけられ、アイダはビクリッと足を止めた。エリオットが珍しく息を切らしていた。綺麗に切り揃えられた髪が汗で額にペタンと貼り付き、本当に慌てていたことがよくわかった。
「エリオットさん……」
「まさかと思うけど、歌いに行くつもりかい?」
「はい……誰も声が聞こえてないですけど、痛がっていますから……私、知りませんでした」
アイダは足下に視線を落とすのに、エリオットもそれに倣う。
もし度重なる地震がなかったら、気付かなかっただろう。いや、アイダのように足下の声が聞こえなかったら、それすらも気のせいだと思っていたんだろうか。
アイダはポツンと言った。
「私たち、アダマントの上で生活してたんです。あの子は痛がっていたのに。だから、治してあげないといけません」
「……君が優しいのはわかった。痛がっているっていうのもそうだろうね。でも、治したらそのあとは?」
「はい?」
アイダはキョトンとした。
彼女は優しい性格なんだろうとは思うが、同時に浅はかが過ぎる。彼女は目の前で起こったことには感心が向いても、後先をなにも考えてはいない。
足下にいるアダマントが治った場合、どうなるかをアイダは本気でわかっていないのだ。エリオットは口を開いた。
「……君は、もし石に押し潰されてペシャンコになった場合どうする?」
「えっ? ペシャンコですか?」
「そう。石に押し潰されているんだ」
「……痛いですよね。重いですよね、多分……」
「今のアダマントもそれとおんなじなんだよ。重いし痛んだから、押し潰しているものを、全部放り出そうとするに決まってるじゃないか」
エリオットの言葉に、アイダはようやく意味がわかって愕然とする。しかし、首をプルプルと振った。
「アダマントは、そんな意地悪しません」
「君はアダマントの言葉が聞こえているからそうかもしれないけどね、僕は残念ながら彼の声は聞こえても言葉までは聞こえないんだよ」
「で、でも……そんなことしたら、学校の人たちや、神殿の人たちはどうなっちゃうんですか……」
「下に落ちて、ペシャンコだろうね。奏者だったら精霊を使って軟着陸できるかもしれないけれど、奏者じゃない僕はまず助からない」
それにアイダはおろおろして、首を振った。
「私が、歌いますから……私がエリオットさんを助けますから……」
「君はそうかもしれないね。でもね、作曲科や職人科の数は、たしかに奏者の数より少なくってもいるんだよ。神殿だって、神官が全員が全員奏者じゃない。全員を落とされる前に助けられるの?」
「それは……」
アイダは言葉を詰まらせる。
アダマントが可哀想だ。アダマントは痛がっているから解放してあげたい。しかし、彼女は既にここでいろんな人と出会ってしまっている。
先程普通に別れたチェルシーのことをアイダは思った。
(チェルシーさんには最初からずっと世話を焼いてもらっていて、エリオットさんのことも応援されて……ベネディクトさんは神殿の方だけれど、いい人で……エリオットさんには、私が反省室に送られたときから、ずっと……先生や、演奏家の人たちのおかげで、私は歌える歌が増えて、前よりもずっと歌を歌うのが楽しくなって……皆、ここから落ちたら死んじゃう……でも、痛がっているアダマントは、私以外声が聞こえないアダマントは、どうすればいいの?)
アイダは困り果てた末に、ポロポロと涙を流しはじめた。
「どっちかしか……選んじゃ駄目なんでしょうか……アダマントが、ずっと痛がってるんです。私に言ってくるんです。痛い痛いって……最初は全然なにを言っているのか、私も聞き取れませんでした……でも……精霊たちに私の歌を与えたら、少しずつ……少しずつアダマントがなにを訴えているのか聞こえてくるようになったんです……でも……」
彼女は今まで、辺境の地で二者択一を迫られたことがない。そもそも二者択一は選択肢の多い場で行われることであり、ほぼ選択肢の存在しない辺境の故郷では、そんな考え自体存在していなかった。
だからこそ、彼女は初めての二者択一で迷い、戸惑い、泣きながらも、どちらかを切り捨てることを拒んでいる。
それをエリオットは黙ってみていた。
「……わかるよ。僕だって、どちらかだけなんて贅沢な悩み、今まで持ったことがないから」
ポツンと返された言葉に、アイダは涙を溜めたままエリオットを見た。エリオットは相変わらず端正な顔つきで、アダマントが痛がっているという地下を見ていた。
「僕は孤児だから。ここに来るまで大して贅沢なんて言ってられなかったから、もらえるものは全部もらっていたんだ……でもさ、死ぬのはやだなあ。死なせるのも、なんだかやだなあ」
その言葉に、アイダはそろそろとエリオットに近付くと、彼の手を怖々と取った。彼女の手は故郷でさんざん農作業をしていたせいか、さんざんなんでもかんでも修理して回っていたエリオットのものと同じくらいに荒れている。
かさかさした指先を触れ合わせながら、アイダはエリオットにまるで告白するかのように伝えた。
「どちらも助ける方法は、思いついたんですけど。全然私の頭だと上手く行くかわからないんです。聞いてもらえますか?」
それにエリオットは少しだけ驚いて目を瞬かせた。
「いいけど」
しかし、彼もまたいつものようにこう答えるのだった。
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